• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
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2007年06月19日

『猫はなぜ絞首台に登ったか』東ゆみこ(光文社新書)

猫はなぜ絞首台に登ったか →bookwebで購入

猫と新歴史学

大変象徴的な標題だが、フェリシティ・ナスボーム、ローラ・ブラウン共編の『新しい18世紀』という論叢が出たのが1987年。ジェンダーの逆転とか監獄改革とかをテーマにカルチャル・スタディーズから見た18世紀各局面の総覧を試みている。監獄改革といえば、いわゆるパノプティコン、一望監視の非人間的監獄のことを見られるのが、先般みんなに惜しまれつつ急逝された村山敏勝氏の訳で読めるD・A・ミラー『小説と警察』(国文社)であるが、そのような視点で肝心の18世紀を見るとどうなるのかという望みをかなえてくれたジョン・ベンダーの『想像の懲治監獄-18世紀英国における小説と精神‐建築』が、これも1987年。別にカルチャル・スタディーズに限るわけでもないのだが、とにかく18世紀研究がその辺で急速に「新しい」何かに見えてきた。

『新しい18世紀』に収められた12篇の論文中で、ゴシック小説『ユドルフォの謎』の「他者の幽霊化」を論じたテリー・キャッスル(Terry Castle)の斬新がひときわ目を惹いた。同じ1987年、18世紀に限らずいわゆるアーリーモダン全体を標的に台頭中の新歴史学の牙城、『リプリゼンテーションズ』第17(冬)号に載ったテリー・キャッスルの「女体温計」は、有名な画家、ウィリアム・ホガースの風俗画中に一ディテールとして描きこまれた珍妙な計器-女の情愛を目盛りで測る「女体温計」-の分析を通して新歴史学の極みという腕前を見せて、表象文化論が視覚史料を駆使することを特徴のひとつとした「新歴史学」の醍醐味を味わわせてくれた。たしか秀才、後藤和彦による全訳が、雑誌『現代思想』1989年2月「ニュー・ヒストリシズム」号に掲載されていた。

ちなみにこの『現代思想』の特集は、英語圏がマニエリスム驚異博物室の社会学をやった一番早い例たるスティーヴン・マレイニーの論文を、スティーヴン・グリーンブラットやテリー・キャッスルと並べて紹介していて、誰の宰領かと思えば、やはり大勉強家、冨山太佳夫氏であったように記憶している。

翌1988年に『クリティカル・インクワイアリー』15(秋)号に発表された「ファンタスマゴリア」には文字通り一驚を喫し、ぼく自身、とるものもとりあえず、『幻想文学』誌に英国幽霊物語の特集を組んでもらい、全訳して巻頭に掲載してもらった。「見過ごされたもの」(N.ブライソン)としてのマイナーな視覚素材を通して「新しい18世紀」像を追求するという手法で、これ以上の見事な手練のものは他に一寸見当たらない。

「女体温計」「ファンタスマゴリア」を含む11論文を集めたキャッスル女史の『女体温計-18世紀文化と<不気味なもの>の発明』(1995)が出た時には、だからほとんど狂喜乱舞のていであった。まさしくこの紀伊國屋書店から邦訳の話をいただきながら、版元のオックスフォード大学が編集権料という珍妙なものをふっかけてきたために中断した苦い思い出がある。時が経った。是非もう一度トライするに値する絶品であると思う。

懇意だったありな書房から、ピーター・ストーリーブラス、アロン・ホワイトの『境界侵犯-その詩学と政治学』邦訳の企画を立て、友人だった本橋哲也氏を動かして訳を出したのが、その1995年のこと。キャッスルの名著と並べば、威力抜群の「新しい18世紀」イメージを日本の読者に有無をいわさず納得してもらえたはずで、失われたタイミングを今でも非常に口惜しく思うのである。

ストーリーブラスとホワイト(惜しくも早逝)の本は書誌一覧すればわかるが、英語圏で最も徹底してバフチン批評万般を読みこんだ書誌になっている。キャッスル歴史学は一巻に編むに際して持ち出したフロイトの「不気味なもの」論が少女、いかにもという感じでスカスカしてしまうのに対して、こちらはバフチン・カーニヴァル論全開でいくしかない18世紀固有の肉感と猥雑を切り捨てない、古くて「新しい」18世紀論で、やはり18世紀はこれでなくては、ね。

それで今回の一冊は、久方ぶりの(山口昌男象徴人類学)の才媛、『クソマルの神話学』の東ゆみこの『猫はなぜ絞首台に登ったか』である。まさしくホガースの風俗画中のディテール-逆さに吊るされて虐待される猫-を、18世紀にまで蜿々尾を引いたカーニヴァル、さらには穀物霊崇拝の伝統の中に遡行して位置づけ、滅びぬ「神話の力」を析出してみせる。

猫の虐待といえば、新歴史学の少し風変わりな旗手ロバート・ダーントンの『猫の大虐殺』(1984、岩波書店1990)だが、結局、資本家対職工たちという安手の二項対立を出ることのないダーントンの見かけのにぎやかし(?)を東女史は痛烈に批判する。

どちらが正しいかとは問わないが、英国18世紀の肉感性を一身に担ったホガースだけは、やはり東ゆみこの対応でなくてはならない。

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