• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

    つづきを読む
  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

    つづきを読む
  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
    盛況のうちに終了しました。 講演レポートはこちらから-->

« 『食卓談義のイギリス文学-書物が語る社交の歴史』圓月勝博[編](彩流社) | メイン | 『大英帝国という経験』井野瀬久美惠(講談社・興亡の世界史16) »

2007年06月12日

『表象のエチオピア-光の時代に』高知尾 仁(悠書館)

表象のエチオピア-光の時代に →bookwebで購入

高知尾仁の「人類学精神史」

本当に心から良いと思った本をとりあげるのが良心的な書評ということだと、戦略的翻訳家でもあるぼくはひとつのパラドックスに捉えられてしまう。英独仏伊の洋書で自分が良いと思ったものは、しかし全然というくらい訳されていないので、自分が訳してしまうものだから、出版や書評界の仁義として翻訳者が書評者になるのがおかしいとされる以上、大体において自分の大好きな本の書評が原理的に許されていない。だから一種の「書評」として予め訳本の中に内臓されているぼくの「訳者あとがき」の伝説的な長さ、となる。

20世紀の人文科学を統合整理し、それをそっくり21世紀のデジタル人文学に編制しようという壮大な構想を年一冊、着実に形にし、理工系MITの「人文化」戦略の看板にさえなっている美術史家、バーバラ・マリア・スタフォードの場合がそれである。処女作『象徴と神話』(1979)は、フランス革命の頃にユングの元型的イメージ論を先駆したスイス人記号論者を復権させようという相当マニアックな大著だから無視黙殺も仕方なかったが、それぞれが出版史に残る名著大冊である『実体への旅』(1984)、『ボディ・クリティシズム』(1991)がどんっと刊行されても、風景論、身体論、両分野で、反応どころかまともな言及ひとつ出てこない。少々フォローが遅れてどうこうない大きなスケールの本ではあるが、スタフォードは時代と伴走し、時代の変わり目を反映して仕事するタイプなので、できればリアルタイムに近い形で日本語にしたいというので、『アートフル・サイエンス』『グッド・ルッキング』『ヴィジュアル・アナロジー』を極力迅速に訳した。そして遡行する形で『ボディ・クリティシズム』を訳し、『実体への旅』早々に脱稿、現在は『象徴と神話』に掛っている。

『実体への旅』も今夏には店頭に訳は出るが、残念、ぼくはこの大好きな本を書評できない。まことに珍妙なパラドックスではないか。

ぼくは一方で、ロンドン王立協会の研究を、主にその普遍言語構想について進めていた。そして一方では、ぼくの名を世に出したピクチャレスクの研究。ふたつ、ぼくが面白くやる以上、必ずどこかで結びつくものと思っていたが、『実体への旅』に先を越された。そうと認識した瞬間、軽い眩暈を感じたのを覚えている。自分の中でふたつの力が合体した、と。ふたつがぼく独自の大きな表象論―「高山学」―を支える強力分子として合体した。

『実体への旅』の副題に「1766年から1840年にいたる美術、科学、自然と絵入り実録旅行記」とある。キャプテン・クックやブーガンヴィル、ヴァンクーヴァーといった名でおなじみの世界周航者、太平洋探検家たちが見なれぬ風土や異様な気象現象を記録し、王立協会はじめ支援の各アカデミーに報告する言語に、折りから流行中のピクチャレスク・トラヴェルの旅行記の大仰でいて紋切り型の景観描写のうそをあばく「真正」と「平明」への「男性的」意力というものを認め、そこに王立協会がめざした真正、平明の言語イデオロギーとの直接の系譜を認めようという仕掛けの本である。キャプテン・クックは王立協会の全面援助を受けた。南オーストラリア中に溢れる「バンクシア」名の多様な植物種の命名者ジョゼフ・バンクスはクック航海に随伴したが、王立協会総裁になる人物である。

異論はある。しかも根本的な異論だ。西欧人が反合理の「理想の風景」ということでオリエントを見てつくった反合理のピクチャレスク風景を他者に逆に読みこみ、そういう意味で他者を征圧し、消滅させたのが、アーリーモダンから20世紀初めにかけての「表象としての旅」の問題なのだとすれば、平明な言語の背後にある「男性性」を太平洋に運んだクック、アフリカに持ちこんだジェイムズ・ブルース、皆、E・サイードの批判したオリエンタリズムの暴力ということでは、ピクチャレスクの他者無比の構造と実は全然異ならない。それが熱帯や極地での「エントロピック」な、熱や空気が予測不可能な気象現象をうむ環境の中で行きづまり、瓦解の様相を見せる。スタフォード自身、『実体への旅』最後の部分でそのことに気付いており、次作『ボディ・クリティシズム』は「啓蒙」の男性意志が空気学や電気化学の中に解消されていく18世紀像を正面切って描く。

旅行表象論で N. Leaske, "Curiosity and the Aesthetics of Travel Writing 1770-1840"(2002)をうみ、描写論で Cynthia S. Wall, "The Prose of Things"(2006)をうむことになる「スタフォード・スフィア(圏)」は、我々の近くでは高知尾仁『表象のエチオピア』をうんだ。『幻想の東洋』(ちくま学芸文庫〈上〉〈下〉)の彌永信美氏などと組んだ『表象としての旅』の編集人でもある高知尾氏の意欲作は、他者消滅の構造分析ではスタフォードより繊細かつ周到。実に誇らしい。

→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/1985