• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

    つづきを読む
  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

    つづきを読む
  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
    盛況のうちに終了しました。 講演レポートはこちらから-->

« 『イギリス的風景-教養の旅から感性の旅へ』中島俊郎(NTT出版) | メイン | 『表象のエチオピア-光の時代に』高知尾 仁(悠書館) »

2007年06月08日

『食卓談義のイギリス文学-書物が語る社交の歴史』圓月勝博[編](彩流社)

食卓談義のイギリス文学-書物が語る社交の歴史 →bookwebで購入

「卓」越する新歴史学の妙

学問史といってもよいし、知識形成論、知識関係論といってもよいが、才物たちの離合と集散の中から新しい知識が算出される様子を描く本はどれも面白い。田中優子『江戸の想像力』は「連」のそうした出会いの産出力を描いて魅力的だったし、山口昌男歴史人類学はそもそもの『本の神話学』から『内田魯庵山脈』まで、要するに大小のコロニーの中で生じるパラダイム変換の記述誌といってもよいほどだ。

洋書には無数にあるが、フロイト・ユング往復書簡(邦訳:講談社学術文庫〈上〉〈下〉)編集で有名なウィリアム・マクガイアの書いた『ボーリンゲン』(1982)以上のものはない。分析心理学のC・G・ユングが世界中の知性を領域横断的に周りに集めたいわゆるエラノス・ターグンク(エラノス会議)が、アメリカにそのディヴィジョンとしてボーリンゲン基金・出版をいかにして創設したかを、20世紀を変えた百有余名の傑出した知性の、一共有空間を舞台にした交渉の積み重ねとして活写した。今ぼく自身が翻訳中だ。

そういう一共有空間の具体的イメージは、間違いなく丸いテーブルである。人と人が集まり、しかもメンバーに価値的上下関係のない発言の平等性・循環性が保証されているという条件をクリアできるコミュニケーション・ツールとして、円卓以上のものはない。絶対にそのはずだと思って貴重写真満載の『ボーリンゲン』を眺めると、石の巨大円卓が緑蔭に快く、周りにまさしく人文学やサイ科学の世界的傑物がずらりと坐って会食している究極の一枚が、さもありなんと目に入ってくる。第一、エラノスという名自体が地名でもあろうかと思っていたら、ギリシア語で「丸い卓」を意味する語と知れて、思わず膝を打った。

人ひとりにできることには自ずと限界がある。ふたり集まると一足す一以上の何かが出てくるのが、こういうコロニー文化史の面白いところだ。1930年代ワイマールとか1960年代のグリニッジ・ヴイレッジとか、いろいろ書ける。種村季弘の隠れた名著『ヴォルプスヴェーデふたたび』もおそろしく魅力的だった。

知の円卓が光彩陸離としたのは18世紀も同じだった。諷刺の黄金時代ということで古代アテーナイ以来といわれていることが、いろいろ異なる見解を許容したデモス(民主)精神の成熟度を示しているわけだ。議論百出をそのまま各人の口から出る「意見」として記述していく文字通りの観念小説の発明家として、トマス・ラヴ・ピーコックに着眼し、ローレンス・スターンに目を付けたというのが、たとえばぼくの処女評論集『アリス狩り』の根本的テーマである。

主人公たちが対峙して卓の周りで語り合う場面が現にあるからというだけのことではない。多様な価値が互いに競合しながら決して一点に収斂することを許さない作品自体の構造がそれ自体円卓的なので、ノースロップ・フライが「百科事典的」と呼ぶ「アイロニー」の文学、たとえば『白鯨』や『重力の虹』が典型であり、円卓イメージが究極的には人間の身体そのもの(物質的下層原理)とも巧く合致するので、身体融合の祝祭と対話を支柱とするミハイール・バフチーンの文学・文化批評をも、円卓文学論はそっくり取りこむことになる。そして哲学的淵源としてソクラテスその他、古ギリシアの「食卓を囲む哲人たち」を位置付ける研究が、当然のように出てくる。

しかし何しろ問題はアーリーモダンの英国だろう。ピューリタン革命以後、名誉革命からホイッグ、トーリー二大政党による議会民主制の成立まで、随分な量の議論百出が想像されるが、まさしく嗜好文化史に冠絶するコーヒーハウスの百年であろう。一番初めに、政治論が飛び交い、商人ダニエル・デフォーや文豪ジョン・ドライデンの耳学問の舞台となり、最後にはロマン派の文学談義の白熱の場になだれこんでいった人と人を会わせ、喋り合わせるテーブルの百年。その18世紀末にかけて、『ジョンソニアーナ』といった不思議なジャンルの「文学」が登場する。人の名に「・・・アーナ」という語尾が付いて、誰それの言動録という意味。『ジョンソニアーナ』なら大文豪サミュエル・ジョンソンが有名な「文学クラブ」でほとんど一日中喋り続けていた芸談時俗の噂話などの集大成である。

通に有名なところではジョン・セルデンの言動録があるが、かつてぼくに「今に高山さんの播いた種、つくった子供たちがいろんな所で出てきますよ」と嬉しいことを言い続けた圓月勝博氏が、以上記したようなぼくの直観に過ぎない円卓文化論を、このセルデンについて見事にまとめているのに感心した。

というか、アーリーモダンの英国文化で主たる業績をあげつつある新歴史学、その気鋭が七人寄って、政治のみか演劇や活字印刷メディア全体に「卓」の比喩的機能が溌剌と生動していた様を描いた。流行のアンソロジーという形式を「紙上の饗宴」と結論付けるあたり、「紙」と「宴」にこだわりぬいてきたぼくなど、思わずして快哉を叫んだ。快挙である。

→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/1981