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2012年02月03日

『「統治(ガバナンス)」を創造する――新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』西田亮介・塚越健司【編著】(春秋社)

「統治(ガバナンス)」を創造する――新しい公共/オープンガバメント/リーク社会 →bookwebで購入

「現実的で漸進的な改革のために」

TIME誌の選んだ2011年のパーソン・オブ・ザ・イヤーは、匿名の「抗議者たち」だった。中東のジャスミン革命に始まり、ヨーロッパ金融危機に際し頻発したデモ、アメリカでのウォール街占拠デモなど、確かにインターネット、特にSNSを介した社会運動が盛り上がりを見せた一年だった。

またたとえば中国でも、高速鉄道事故などを踏まえ、マイクロブログに主流の移行したネット世論は、報道規制の枠を飛び越えた活発な活動を行っている。
韓国では、従来から現政権に批判的だったネット新聞の副編集長と、大統領の汚職を追及してきた野党国会議員が主催する「ナッコムス」というネットラジオが、政治に関心のある若者たちに爆発的な人気を博している。
2011年ソウル市長選挙では、突如としてアン・チョルス(ソウル大教授で著名なIT起業家出身)が有力候補と目されるようになった(結局は不出馬)。いまだ政治家へ転向するか否かを明確にしていない段階で、今年末の大統領選挙でも一部調査で第一位となる支持を獲得するようになった。その背景にも、この「ナッコムス」に象徴される、ネット世論の盛り上がりがある。

1980年にアルビン・トフラーは、情報技術の進展が、報道・メディア、政党政治、日常的な消費や労働に至るまで、「官僚制」の中の、人種・性別・階級などの固定的ヒエラルキーに個人が囚われた世界から、個人の解放、いわば「民主化」が進むと論じていた(『第三の波』)。
現在生じている事態は、トフラーが数十年前に、混迷の中で人類の進むべき道を理想像として描いたことが、インターネットを土台として、実現しつつある状態である。
するとむろん、現実には手放しで礼賛できない副作用も、いろいろ見えてくることとなる。

中東のジャスミン革命は、善悪の問題以前に、おそらく元々避けることのできなかった「民主化」の到来としてあった。しかしたとえば、ヨーロッパ各地で爆発する反EU感情に、政治の側が接近していくことは、果たして正しいことなのだろうか。

韓国の事例で言えば、アン・チョルス氏の人気は、現在の李明博政権が、グローバル化す財閥企業のみを優遇し、一般国民の生活を考えていない、その割を若年層が食っている、という認識を基底としている。
加えて李明博政権は、その強権的な政治手法から、自分たちに対する批判をマスコミに載せることを許可せず、言論統制(「言論掌握」)を進めていると広く思われている。
これらの不満は、故なきことではない。問題なのは、現在の野党である左派政党も信頼を失っており、代替案が存在しないという閉塞感へつながっていることだ。するとこれらの不信や不満は、政党政治・マスコミ・財閥中心の経済体制そのものなど、全方位的な「現体制の否定」へつながってしまう。それが「政治的アマチュアリズム」への希求をもたらし、ある特定人物への突発的人気集中が国政そのものを動かしかねないという状況は、必ずしも手放しで礼賛できるものではないように思う。

こうした現行の政治システムやマスメディアに対する猛烈な不満感・不信感は、日本では原発事故に際した放射性物質の拡大について広く見られる。しかしこれは決して日本独自の問題ではなく、世界中で多かれ少なかれ生じている現象である。
格差拡大や若年層の相対的剥奪感なども背景とした、こうしたグローバルな現象は、類似した構造を取りつつ、それぞれの国や地域独自の歴史的文脈に影響を受ける形で、当該の社会の中で生起していくのだろう。

本書は、こうした現代的な問題を「統治の危機」と捉え、若い世代を中心とした研究者が集まって考察を試みたものである。各章の内容を簡単に要約すれば、以下のようになる。

序章では編者でもある西田亮介が、東日本大震災によって露呈した最大の問題を「従来型の日本的システムの脆さと柔軟性の欠如による機能不全」と位置付け、その具体例を考察すると同時に、すでにそれとまったく異なる新しい回路から、ソーシャル・ビジネスなど新しい動きも出てきていることを示す。

第一章では、政治学者の谷本晴樹が、アメリカを中心とした政府の情報公開政策=オープンガバメントの動向を紹介するとともに、公職選挙法によりネット選挙活動が原則禁止されている日本においても、各種のSNSでの議論、また文科省の推進する「熟議カケアイ」などの試みにより、「eデモクラシー」が進展している様子を報告している。

第二章では、編者の一人である政治社会学者の塚越健司が、ウィキリークスおよび周辺のリークサイトの過去と現在を概観した上で、その存在が前提となった現代社会はいわば「リーク社会」と呼ぶべきものであり、そこでは「何が正しいのか」を決める根拠そのもの(正統性)が常に問い直されることを、フーコーの理論を用いながら指摘している。

第三章では、思想史家の淵田仁が、ルソーから出発しつつ、西洋哲学の伝統では「主体的な意志の表明」とされてきた「政治」概念が、メディア環境の変化などの中で、現在では「日常と連続的に繋がる」「多種多様な人間の情報源を無限のリソースとして活かす」こととして再定義を迫られているのではないかと論じる。

第四章では、経済思想史家の吉野裕介が、政府の極小化をとなえるハイエクの自由主義哲学と、ティム・オライリーの提唱する「ガバメント2.0」(政府の役割は市民同士のサービス・情報の交換の「プラットフォーム」を作ることであるとする)の理念とを、共通点と差異を踏まえて比較考察している。

第五章では西田亮介が、SNSなどによる「弱い繋がり」の活性化が、必ずしも具体的な目的意識を持たない人々をひとつの社会参加へと結集する「実感の連鎖」をもたらし得ると論じ、この観点から東日本大震災に際して発生した各種の社会貢献活動や「タイガーマスク現象」を分析している。

第六章では、ベンチャー・NPO支援の現場に携わる藤沢烈が、日本でも政府がすでに各種のオープンガバメント政策を推進していること、しかしそれではすくい取れない領域でNPOなどの主催するサービスが活躍していることを報告している。

第七章では、クリエイティブ・コモンズ・ジャパンのメンバーである生貝直人が、オープン・ガバメントの進展が必然的に「政府刊行物の著作権」という問題を喚起することを指摘し、米欧ではすでに各種の議論が進んでいること、またオーストラリアやニュージーランドではクリエイティヴ・コモンズ・ライセンスが採用されていることが報告されている。

第八章では、ライターのイケダハヤトが、オープンガバメントが可能にする各種のソリューションは、新たなビジネスチャンスでもあることを示すと同時に、それを具体化しようとする際に注意すべき点を指摘している。

第九章では、文芸・音楽評論家の円堂都司昭が、『1984年』や『すばらしい新世界』といった古典から、近年の日本文学に至るまで、フィクションの中に現れた監視社会というディストピアの系譜を分析し、その歴史的変化を描き出している。

論集ということもあり、個別の議論には、もっと深める余地のあるものが多いかもしれない。しかし本書は、若い世代の論者たちが困難な現代的課題に取り組んだ、意欲的な論集であり、多少の粗削りさはむしろ魅力であるとも言える。
とりわけ、諸外国でのオープンガバメントの取り組みや、「Gov 2.0」などそれに関連する思想的動向、さらに現在日本でも進んでいる取り組みとその問題点などについて、入門的な知識を提供してくれる。広く「情報社会」に関心のある読者には、ぜひ手に取って頂きたい一冊である。

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2012年01月03日

『愛国心―国家・国民・教育をめぐって』市川昭午(学術出版会 日本図書センター〔発売〕 )

愛国心―国家・国民・教育をめぐって →bookwebで購入

「「愛国心」をめぐる議論の網羅的な整理」

本書は、教育学の碩学により、「愛国心」をめぐる社会理論、現実政治の動向、および教育を中心としたその制度の来歴など、極めて広範な論点を網羅しつつ書かれた大部の著作である。
とりわけ、しばしば忘却されてしまいがちな、歴史的な文脈性、語義的な定義、また法制度におけるその取扱いにまつわる丁寧な記述が続く。
こうした記述と整理により、若い世代にとっても、愛国心について学習する際の基礎を提供する書物である。
著者は愛国心にまつわる大部のリーディングス(『文献選集≪愛国心≫とき教育』13巻、『資料で読む戦後日本と愛国心』3巻)の編者でもある。
その内実をすべてレビューすることは困難であり、ここでは評者が特に気になった論点をピックアップしつつ、コメントをさせて頂くこととしたい。

1)現在におけるナショナリズムの盛り上がり
ここに至るまでの歴史的文脈、とりわけ戦後すぐには左翼の側がむしろ積極的に「愛国」を唱えていたこと、右翼の側においては「忠君」概念が溶解していったこと、後者の背景としての天皇制の変容やアメリカに対する評価の混乱などの整理は、現在しばしば忘却されている点である。
その後、著者も指摘しているように、70年代中盤から90年代中盤にかけての「私生活優先主義」により、政治的関心そのものが薄らぎ、日本の文化的特殊性の肯定論などが流行したとはいえ、愛国心論議は下火だった(46)。

しかし90年代に「新しい教科書をつくる会」の活動が活発化した。その後は、インターネット・ナショナリズムの盛り上がりなど「若者の右傾化」が論じられるようになった。こうした認識を著者と共有した上で、三点ほど指摘させて頂きたい。

・「戦後民主主義」に対する批判意識
保守論壇では、かつてから文字通り「戦後民主主義批判」が行われてきた。しかし、私と同世代あるいは以下の人々と話をしてみると、「戦後民主主義」への不満と、本来はその欺瞞を批判して登場したものであるはずの、「新左翼」への不満が混同されているように思う。

評者自身、国家から独立した市民社会を重視した「戦後民主主義」の潮流には、現在を生きる若い世代にも学ぶ所が多いと思う。その反面、1970年前後に学生運動が終わった後、文化・学術の面で大きな影響力を保つことになった新左翼の諸潮流には、あまり現代的意義を感じられない。
両者が混同されることによって、若い世代に、過去の知的営為の一切を無用のものとする、一種の「反知識主義」が蔓延していくことに、評者は一抹の危惧を抱いている。

・弱者の「癒し」や「プレカリアート」
孤立感・不安感をバネとした、「癒し」「プレカリアート」両者の運動に共通しているのは、上記の意味での「反左翼」であり、それに対し左派知識人が「悪しきナショナリズムの復活」というレッテルを貼る、という形で論争が進んできた。
これらの運動に含まれる「自分たちの不安をマスコミや知識人が正しく代弁していない」という不満が、「マスコミや政治権力が左翼に支配されている」という陰謀論と結びついた「反左翼」となっており、それが近隣諸国に対する敵対意識などとして表出していることである。それに対する批判的応答が「ナショナリズムだから良くない」という形式を取る、という図式となっている。
(このことは、震災以後のマスコミ不信の一つの表れとしての「反韓流デモ」などでも引き継がれている。)

これらの論争は本来、近隣諸国に対する態度など関係がなく、「ナショナリズム」にまつわる問題でもないはずである。真の議題は、「不安」を解消するための社会保障や雇用の問題であり、またそうした「不安」を社会全体の問題として提示するための、語彙・知的文脈が存在していないということである。
不安を訴える側も、それを批判する側も、いまだに「ナショナリズム」という枠組みしか持っていないということ自体が問題であり、それは70年代中盤以後の「私生活優先主義」の中での「政治の空洞化」を背景としたものだろう。これ以後、新左翼と保守派の論争などにおいて、政治を語る言語が「ナショナリズムの是非」以外に存在しなくなり、いまだにその認識枠組みが残存しているということではないか。

こう考えると、危惧すべきなのは、愛国心が盛り上がっているか否かということより、「公共的な参画」とは何か、それがいかにして可能か、というようなことが、現在に至るまで日本では不明確であることである。
また、それを試みようとすると、いつの間にか「愛国心」という疑似問題が呼び起こされてしまう言説空間が形成されてきたという点であるように思う。後者は前者を下敷きとした問題であり、後者のみに独立した対応策は存在しないはずである。

2)教育をはじめとする法制度における「愛国心」の取り扱い
上記の点は、本書の白眉とも言うべき、教育をはじめとする法制度における「愛国心」の取り扱いと、それをめぐる議論の混乱にも影を落としている。
1966年の「期待される人間像」、その後の空白を経た1999年の国旗・国家法制定、また2006年の改正教育基本法などにおいて、法制度の中での「愛国心」の取り扱いが議論されてきた、と著者は整理する。
これらの点は、その現実的な影響力の大きさに比して、ナショナリズムにまつわる社会学的研究では看過されがちであり、あったとしても「悪しきナショナリズムを批判する」というもの一色になりがちである。

その中で、教育基本法改正論が実質的に「殉国」を求めたものでありながら、それを欺瞞的にぼやかしていたことの指摘(319)、他方で国旗国歌反対論が、代案を提示せず、菊の紋章という過去の軍国主義の本質をも無視したまま、いたずらな反対論を繰り返していることへの批判(325-6)などは、評者にとっても大変刺激的な指摘であった。
著者の整理によれば、これらの論争の通奏低音をなしてきたのは、「愛国心」の対象が、「文化的な共同体」なのか、国家という「統治機構」なのか、という区別であった。古くは、保守派の本音が後者であり、また左翼は前者の側面も一緒くたに否定していた。しかし近年では、左右ともに、前者を是とし後者を否とする議論が多い。

しかしながら現在でも、保守派の側は「文化的な共同体」の再建を唱えながら、外交的にはアメリカ追従であり、また産業界と結託し、新自由主義・グローバル化を推進しており、主張が矛盾している、と著者は評価する。
他方で左翼の側は、近隣諸国への同情ばかりが目立ち、かつてのような「国民の共感」そのものを否定するような思考が残存していると同時に、近隣諸国や途上国のナショナリズムに対し肯定的であるという矛盾が存在する(367-71)。

評者は、ここでも本来の論点は、「公共的な参画」なのではないかと考えている。
保守派は、これを「愛国心」に仮託することでしか維持・復権できないと考えているが、それはおそらく間違いである。
他方で、左派はかつて、「国家」の全否定と一緒くたに、「公共」という問題系をも捨て去ったのではないか。若い世代の左派が、格差問題などとからめて再考をうながしているのも、この点である。
「愛国」と「公共」は、ハーバーマスの議論にも見られる通り、まったく別の問題系に属する。それを無邪気に一致させてしまうという言論布置が、過去の左右両方に共有されてきたのであり、そうした形の左右対立そのものの意義が現在では消失しつつある。

この意味で、(本書末尾で著者が考察を加えている)「愛国心」を超えた世界政府が実現するか否かという問題よりは、「公共とは何か」という問題系を復権させることの方が、筆者は重要なのではないかと考えている。
単純に言えば、軍国主義への回帰がもはや支持を得られないのはもちろん、対米従属でありグローバル化推進と伝統主義を同居させているという保守の矛盾は、もはや明らかである。
他方で「国家」そのものを全否定してきた新左翼以後の日本の左派の論理も、継承できるものではない。
私以下の若い世代は、「政治」や「社会参加」といったことをたとえ考えたとしても、それを行動に移す際の「リソース」が、言語的にも組織的にも、存在しない状態が続いている。

唯一存在していたのが、「韓国や中国に同情するか否か」という点であり、これだけが「政治」を実感でき、行動を喚起できるものとなってきた、という第一段階の問題がある。
そして第二段階の問題として、本文にも引用されている辻大介が指摘しているように、すでに「韓国や中国に同情するか否か」という問題にすら関心のない世代が、大量に出現している。これは唯一の「政治」的議題すら消失した状態であり、若い世代に対していかに社会への参画の実感を担保するかという、喫緊の問題が存在している。「愛国心教育」は、たとえそれがなされても、この問題への対処にはなり得ないだろう。

またナショナリズムそのものについて付言すれば、このような文脈において、「ナショナリズム」や「愛国心」がもはや疑似問題という側面の色濃くなった日本において、著者も議論に視野に入れている「リベラルなナショナリズム」という概念は、改めて論じられる価値が高いのではないか。
「リベラルなナショナリズム」の対義語はおそらく、H.コーン以来の分類を参考に言えば「被害者意識のみによる結束」(282)たる「脱植民地ナショナリズム」である。
日本と韓国・中国におけるナショナリズムの軋轢の背後にも、この両者が倫理的に区別されていないという問題がある。この意味で、「良い/悪い」ナショナリズムの規範的区分は、ヨーロッパの文脈においてはもう古いかもしれないが、日本およびその近隣諸国では、議論されてしかるべき問題なのではないかと筆者は考えている。

保守派の言う、人類愛や国際貢献につながる「愛国心」は、保守派の考えているようには実現しないことが明らかであり、それよりも「公共的な社会参画」の道筋をつけること、また各種の少数者問題などについても「リベラルな国民統合」という前提条件をはっきり示すことが重要である。
また国際関係の理解なども含め、「反知識主義」「社会参画への意欲の欠落」の蔓延を防ぐことが最も重要であり、私生活と全体社会とが常につながっていることを、地道に認識させる努力が、教育者には求められているのではないかと思う。

「愛国心」をめぐる問題とは何か、その本質をつかまえるのは容易ではないが、本書は必ずその助けになってくれるだろう。ぜひ手に取って頂きたい一冊である。

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2011年05月09日

『全貌ウィキリークス』ローゼンバッハ,マルセル シュタルク,ホルガー【著】 赤坂 桃子 猪股 和夫 福原 美穂子【訳】(早川書房)

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「ウィキリークスの実態紹介」

朝日新聞が、沖縄の米軍普天間基地移設に関係する、海兵隊のグアム移転費用を水増しする「密約」が存在していたことなどを、アメリカ外交公電から暴露する報道を行った。Wikileaks(以下WL)が2010年に入手した外交公電のデータには、日本に関するものも含まれており、これまでも散発的には報道されてきた。
WLが入手した外交公電のファイルは巨大なものであり、一人がすべてを読み通すことはほぼ不可能である上、大部分は他愛もない内容である。よってその中から有益な情報を抽出し、かつ「裏取り」をするというプロセスが必要となる。WLは、当初ウェブの集合知システムによってこれを行おうとしていたが、中途で放棄し、ヨーロッパ・アメリカの「伝統的」新聞社と提携して、彼らにそのプロセスを託すことになった。

日本において彼らがパートナーとして選んだのは朝日新聞だったようである。ヨーロッパの新聞社との共同作業のように、新聞社にデータの相当部分を渡して精査・分析をまかせ、まとまった形で報道されたケースとして、日本初のものだろう。

その内容そのものについては、すでに多くの速報や論評が表れている。報道を受けて、日本側の関係者は多く沈黙を守っており、アメリカ側からは「外交には国民に公開されない秘密の部分も必要である」と、従来通りとも見えるコメントなどが出されている。
有識者を含めた反応は、密約の存在を悪として公開を歓迎する見方もあれば、WLなど信用できないとして賛否問わず深刻に取り上げない見方、さらにはWLの行動を脅威と見て「これでは外交が不可能になる」というものなど、多様である。

ここでは、その内容そのものというより、WLそのものについて概説した著作がすでに複数あるので、そのうち表題のものを取り上げて概観することとしたい。

本書は、WLと最初期に接触した新聞三社のうち、ドイツのシュピーゲル紙に在籍し、実際にWLおよびJ.アサンジ編集長との交渉と共同作業を行った記者が、その取材結果と、共同作業の顛末を書き記したものである。

まず、アサンジの破天荒な前半生が、彼自身の回想などを元に振り返られる。オーストラリアのヒッピーで、結婚を繰り返した母親と暮らす。カルトにはまった継父と母の離婚トラブルで逃亡生活を余儀なくされ、転校を繰り返す中で、13歳で初めてPCを手に入れてのめり込むことになった。
若い頃すでに著名なハッカーとして活動しており、逮捕歴もある。また結婚して一男を設けてすぐ離婚し、親権争いも経験した。1998年頃から、定住地を持たないバックパック生活に入り、アメリカ、ヨーロッパ、中国などを放浪する。
こうしたアサンジを評し、著者たちは「ハッカーの視点と68年世代を親に持つ子のアナログな政治的関心が混ざり合って、国家に対する批判的な態度が生まれた」(129-130)と評している。

WLが創設されたのは放浪生活の途上の2006年だった。それからケニア大統領選挙への介入、ユリウス・ベア銀行の顧客データ=「エルマー文書」の公開などの活動を通し、相次ぐ裁判に直面すると同時に、支持者を拡大させていった。
2010年になると、イラク戦争時の米軍による民間人殺傷事件の映像=「コラテラル・マーダー・ビデオ」、アフガンおよびイラク戦争日誌、さらに膨大な外交公電の公開に踏み切る。WLが大きな話題を呼び、論争の焦点となるのはこの時からである。

2010年の3つの案件のデータは、イラク駐留情報分析官だったマニング上等兵を通して得たものである。彼は、自らの行動をプライベートチャットであるハッカーに明かし、そのハッカーが当局に通報したため、すでに逮捕されている。
本書は相手方のハッカーへの取材などを通じ、マニングが未曾有の情報流出をするようになった背景や、その作業の様子、また逮捕されるまでの様子も描いている。
ちなみにマニング上等兵の逮捕後、その収監先の環境があまりに苛烈であるという抗議活動が世界的に拡大していたが、つい先日、より環境の良い場所へ移送されるというニュースも流れた。

アサンジがマスメディアとの連携を考えたのは、2010年の3つの案件のうち最初に公開した「コラテラル・マーダー」ビデオが、思ったほどには話題にならなかったのと同時に、当初構想されていた「クラウンドソーシング」の手法が機能せず、プロの記者の技能の必要性を認識するようになったからだと言う(374)。
また著者たちも、WLが新しかったのは、情報公開そのものというより、秘密文書を安価・匿名で送信するその「技術上の可能性」にあったと言う。
本書には、むろんアサンジの強姦容疑事件とその裁判や、WLの内部分裂、さらに彼の気まぐれで直情な性格により難航した各社との交渉なども描かれている。

これまでのWLの活動を網羅的に概観した本書を読むと、WLの主要な業績が、マニング上等兵との偶発的な出会いによって得た情報を元にしており、WLのインフラから継続的に蓄積されてきたものではないことが分かる。リークサイトというのは、WLの前にも後にも複数存在していたが、WLがここまで話題になった理由は、何よりこの偶発的な出会いにあった。

今回の日本外交に関する情報も、提供された文書は7000件あるとされており、それを新聞社側で精査した結果、公開の価値があり、また公開が可能であると判断されたものがニュースとして報道されたものである。今回の報道に含まれるのは主に2006年の日米交渉にまつわる部分だった。
むろん2010年までの時期に限っても、膨大な公電の海の中には、まだいくつもニュースが発見されることだろう。しかしながら、WLがその後(マニング上等兵の逮捕後)も、継続的な「リーク」を受け続けている訳では、どうやらないらしいことを留意する必要があるだろう。
WLが何か大きなパラダイム転換をもたらしたのか、もたらしたとしたらそれは何かを考えるには、もう少しの時間が必要であるように、評者には思える。

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2010年11月04日

『「科学技術大国」中国の真実』伊佐 進一【著】(講談社現代新書)

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「客観的な目でみた中国の科学技術開発と、日本との関係」

日本はいずれ中国に追い越されそうだ、という焦燥感が、今の日本には蔓延している。その懸念にはある程度妥当な側面もあれば、単に隣の芝生を青く見ているだけの側面もあるだろう。
本書は、科学技術担当の一等書記官として三年間、北京の日本大使館に勤務した著者が、発展めざましい中国の科学技術について、何が優れており、またどこに問題があるのかを、客観的な筆致で網羅的に分析した本である。
近年の新書の傾向と異なり、はっきりした専門のある著者が、一般にはほとんど知られていない科学技術、および中国におけるその発展の進行について、いわばマニアックに記述していく本である。しかし読み進めるうちに、日々新聞やニュースで目にする情報の裏側が透けて見えるようになるという知的興奮が味わえる。

たとえば本書出版後のつい先日、10月29日の新聞各紙では、中国産のスーパーコンピュータが世界最速の演算速度を記録したというニュースが流れた。
本書によれば、実はしばらく前から中国製スパコンの演算速度は日本を追い越し、ペタフロップス級のスパコンの製造能力をアメリカに次いで二番目に手にしたとされていた。
ところが、スパコンの演算速度には「理論値」と「実効速度」があり、前者を上げることはそれほど難しくない。紙面で取り上げられているランキングの数値は理論値の方であり、それだけ見れば確かに中国は米国に次ぐ位置をすでに占めている。
しかし本書執筆時に中国製一位だったスパコンの実効性比率(実行速度÷理論値×100)は45%ほどだった。ランクインしている他国のスパコンの実効性比率は80%前後であり、日本製のそれは95%ほどだった。
これは、中国製スパコンの演算速度の速さに、実質的な意味も目立った技術革新もあまりないこと、他方で日本製スパコンは高い技術で綿密に設計されていることを示す。よってこの分野では、日本が中国に脅威を感じる必然性はあまりない。むしろ中国側が無意味なランキングにこだわりすぎであるとされる。(179-182)

もちろん、これと逆パターンの事例も数多くある。
総じて、研究者という人材を大量に投入する必要のある「研究者集約型」の分野において、中国は確かに世界のトップランナーとなりつつある。高温超伝導技術や、バイオのiPS細胞研究などがそれにあたる。
こうした分野では、核となる技術的発見がたとえ日本で行われたものだとしても、幅広いその応用的研究が「研究者集約型」であるため、科学的業績としても技術開発としても、中国にどんどん水をあけられてしまうことになる。こうした点において、日本側はむしろもっと危機感をおぼえるべきであるとされる。

著者の基本認識は、ことほどさように日本と中国は得意分野をまったく異にしているものであり、いたずらに焦燥したり敵視したり、あるいは羨望したりしても仕方がない、というものである。現状認識と分業関係をしっかり整理した上で、日中関係をwin-winの関係として構築することが重要である。

今現在、日本の方が中国に対しほとんどの科学技術分野で圧倒的に優位であることは間違いがない。しかし日本側は、科学技術投資が頭打ちとなっており、人口減少時代に入る中では研究者人材の確保もままならない。つまり「投資と人」が不足している。これにより新しい科学技術を産業化することができないでいる。
それに対し中国は、強権性と紙一重の、政府主導で資源を配分できるというお国柄ゆえ、科学技術に積極的で多大な投資を行い、その額は年々増加している。そして人材量が豊富であることは論をまたない。

日本の先端的な科学技術を中国に提供する代わりに、あちらからの投資と人を呼び寄せる。それこそが著者の考える日中の科学技術協力のあるべき姿である。そうすれば先の「研究者集約型」の分野などにおいて、日本にも多大な利益があるはずだ。実は欧米諸国は、同じような考えのもと、中国の大学や研究機関と次々に連携関係を築いており、やや日本は遅れを取っている状況であるという。

中国では、年率20%で研究開発投資が増加している。6-7割が企業、3割が政府からの資金であるが、それがともに高い伸び率を示している(72)。
しかし問題もある。第一に、こうした投資により、研究インフラのハード側面(機材など)の整備が進んでいるのと裏腹に、ソフトインフラ(使用法の解説者など)の整備が遅れており、高価な機材が有閑状態にあること。
第二に、資金の管理・運用面のマネジメントなどの問題。
第三に、短期に収益が見込める応用分野に集中し、基礎研究への投資が極めて少ないこと。かつて日本はこのためにアメリカなどから批判されたが、当時の日本のさらに三分の一ほどの比率に留まっている。これではイノベーション型国家が実現することはない。
こうした中国の抱える課題・問題点は、特に第一の側面において、まるで日本と正反対である(研究者は優秀だが施設が老朽化しているなど)という。

こうした、中国の科学技術開発の現状を概観する部分に続き、宇宙、ライフサイエンス、ハイテクといった個別分野の解説をするパートが続く。詳細は本文を参照して頂きたいが、冒頭に述べたような細かい発見を読者はたくさん見つけるだろう。
ライフサイエンスについては、政府の手厚い保護を受けた(よって本当の意味でそうとはいえないかもしれない)ベンチャー企業が大きな役割を果たしている。
またIT・コンピュータ分野においては、中関村に位置する企業と、その近くの一流大学の大学発ベンチャーとの産学連携が進んでおり、この点では日本をはるかに凌駕しているという。

しかし中国のやり方にも問題はたくさんある。総じて、「創新」というのが国を挙げてのスローガンの一つとなっている中、イノベーションマインドの養成に失敗していることである。
特に「ハイテク」企業は、ほとんど「組立型」モデルであり、先進国から部品を買うことを前提にしており、自ら先端的な部品を製造する能力がない。これは開発コストを負担しないまま大きな利潤を上げるモデルであるが、本当の意味での研究開発やイノベーションにはつながらないだろうという(166)。
また、産学官の役割分担・協力関係がやや行きすぎている。技術開発に対する大きな政府介入は日本と異なる点である。公的研究機関や大学と企業が、研究開発プロジェクトを立ち上げ、研究成果を連携関係によってもらいうけた企業が産業化・製品化を行う。
しかしこのモデルは、基礎・応用研究を研究機関や大学が行い、企業はそれを商品化するという役割を固定化させてしまい、企業の研究開発能力アップにはつながらない(170)。これが企業のイノベーションマインドを阻害させている側面も否めないという。
さらに、研究開発への意識は、知財保護意識がなければ高まることはない。しばしば指摘されるこの問題については、2001年の特許法改正など、この点においては政策的にも、中国人の意識としても、改善の方向に向かっているという。

他にも、深刻な各種の問題が存在する。機関ごとのメンツ争い(冒頭に述べたスパコンの無意味な記録更新などもその例とされる)による不合理。同じく政治的な闘争による客観的な判断の歪曲。現在の中国の最優先課題が「国家の安定」にある限り学問・研究の自由に対する政治的干渉が避けられないこと。論文偽造などの不正や汚職の横行、など。

こうした、中国の優位性と問題点の双方を踏まえると、日本が技術開発において中国と連携を深める必然性と、その際に留意するべき点が見えてくるという。
日本は高い技術力を持っている。しかし日本の独自な制度や慣習、および相対的に高い国民所得を前提とした「ガラパゴス的」な技術となっているのも否定できない。そのため、中国をはじめとする途上国市場では、日本製よりも性能は低くても廉価であるサムスンなどの追撃を許した。
しかし日本企業がサムスンの真似をする必要はない。中国でも富裕層が増えている現在では、むしろ高い技術力というブランドイメージを保持する方が良い。

必要なのは、市場調査・分析により、中国で本当に必要とされているのはどういう技術なのかという「市場ニーズ」を把握することである。
現状はこれが極めて不十分である。実は環境分野をはじめとして、中国側が喉から手が出るほど欲しがっている「市場ニーズ」は少なくない。日本の技術力を過信し高額の最高水準の技術を提供しようとするのではなく、「市場ニーズ」を踏まえた価格と技術レベルのバランス感覚さえあれば、日本側は十分にこれに応えられるという。

この点は、中国という巨大市場における「標準化」競争をどう戦うかという戦略とも関わってくる。
日本は高い技術力を持ちながらも、この「標準化」で成功を収めることができないできた。「標準化」された市場とは、均一化されたものを低価格で製造するというコスト競争の市場であり、特に中国においては中国企業の独壇場になってしまい得る。よって、標準化のため公開する技術と、秘匿化しておくコア技術の峻別が必要になる。

筆者の個人的な感慨だが、経済的な側面における中国に関しては、実態以上のやや幻想めいた期待と、頭からこれを否定し不要論・脅威論を唱える議論の、両極端に分化しがちなのではないだろうか。
本書は科学技術を切り口に、豊富な背景知識をもちながら現場をもよく知る著者が、ごく客観的な姿勢で現状分析を行い、それを踏まえた提言を行っている。こうした本が、新書という読まれやすいフォーマットで出版されることには、大きな意義がある。中国や科学技術に関心のある層に、広く手にとって頂きたい一冊である。

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2010年09月24日

『民族はなぜ殺し合うのか―新ナショナリズム6つの旅』マイケル・イグナティエフ【著】 幸田敦子【訳】(河出書房新社 )

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「見聞から導き出すナショナリズムの倫理」

本書は、自身が複雑な民族的出自をもつ著者が、1993年の時点で、民族紛争の激しい地域を取材に訪れ、民族・国家とは何かを問うたルポルタージュである。著者はBBCのテレビドキュメンタリーとして放映された同タイトルの番組レポーターであり、彼自身が書いたその書籍版である。
ナショナリズム研究の分野では、日本でも刊行当時から広く読まれている本で、準古典的な位置づけにあると言ってよいだろう。

著者は、元々歴史学のアカデミシャンだったが、定職を辞してライター・ジャーナリストとなり、文筆活動を行うと同時に世界各地を旅行した。並行して数多くの大学で講師として教壇に立った。その後ハーヴァード大学ケネディ行政大学院にて教鞭を取るが、それを辞して2004年に政界入りし、2009年には中道左派政党・カナダ自由党の党首となった。カナダでは非常に著名なオピニオン・リーダーの一人であると同時に、大物政治家でもあるとのことだ。

本書の後にも、ユーゴにおける民族と国家にまつわる著書が複数あり、2000年代以後にはアメリカの覇権主義やテロについての著書がある。その他にも政治哲学者アイザイア・バーリンの評伝や、フィクションも書いている。

1947年カナダ・トロント生れ。祖父母はウクライナ移民であり、父はロシア生まれ、母はイングランド生れ、自身の教育はアメリカで受け、カナダ・イギリス・フランスで仕事をし、英仏両語に堪能であるらしい。

本書の中では、そんな知性と行動力にあふれた著者が、以下の民族紛争地を訪れている。ヨーロッパ内部の各地は、著者の出生や個人的記憶とも深く関わっている。
その文体は、ナショナリズムについての理論的考察ではなく、紀行文に近い。だが、具体的な見聞を記述した旅行記の中に、現地の複雑な歴史的文脈の説明がエレガントに挿入されており、平易な文章を読んでいくうちに後者も頭に入ってくる構成となっている。
それでもまったくの門外漢には馴染みのない固有名詞なども多いのだが、そこは翻訳者による丁寧な註解が施されている。

1)クロアチアとセルビア
2)ドイツ
3)ウクライナ
4)ケベック
5)クルディスタン(クルド人)
6)北アイルランド

本書が執筆されたのは1993年であり、その後に続いた90年代の激動がまた端緒に入った頃である。たとえば、ユーゴスラビア連邦共和国がまだ現存している。その中のセルビア共和国は、その後ユーゴ連邦大統領となるセルビア民族主義者であり、ユーゴ崩壊後はジェノサイドに対する罪で国際戦犯法廷に召喚される、ミロシェビッチ大統領に率いられている。イラク周辺ではまだ、フセイン大統領の恐怖政治がしかれている。
よって、当然ながら本書によって最新の状況を知ることはできない。しかしながら、先行する過去の文脈を知らなければ現在の状況を知ることも、元来できないはずである。私自身、これらの地域のニュースを散見してきたが、これほど複雑な背景を持つとは知らずに教えられた部分は数多かった。

著者の基本的な認識は、冷戦体制とは米ソ二大超大国による警察権力によって維持されていたものであり、その消滅により、自決権を求める諸民族の決起が起こったというものである。
20世紀ヨーロッパにおける国民国家システムの再編成は三度あり、1918年のベルサイユ条約、1945年のヤルタ会談、そして1989~91年のソ連・東欧社会主義体制崩壊だった。そして最後者が前二者と異なる点は、「帝国」という調停者が存在しなくなっていたことである。アメリカは最後の「帝国」かもしれないが、世界秩序維持というより自国の国益のために権力を行使する存在となっている。
「外からの強い制御が働かなくなったいま、帝国という重しによって抑え込まれてきた恨みつらみが一挙に噴き出し、たがいに襲いかかっていった」(22)。

ユーゴスラヴィアでは、クロアチア人、セルビア人、ボスニアのムスリムが、ユーゴ建国、チトー主義、その後のセルビア民族主義の勃興など、複雑な背景の上で相争っていた。
ドイツでは、自国史への反省からアンチ・ナショナリズムの国と自己定義がなされてきた中で、リベラリストですら「国益」という概念を再定義せねばならぬと論じ始めており、その中でドイツ人失業者と移民労働者の利害対立が深刻化していた。
ウクライナでは、共産主義時代を否定し「ヨーロッパへの復帰」をうたった独立が成し遂げられたものの、経済的にもアイデンティティとしても国の「内実」が問われていた。
ケベックでは、フランス系住民によるカナダからの独立運動が盛り上がっていた。
クルド人地域では、トルコ・シリア・イラン・イラク・アルメニアという国家に囲まれつつ自らの国家を持たない民族の内部で、とりわけトルコとの関係をめぐって、血で血を争う軍事闘争が続いていた。
北アイルランドでは、同じ地域に住みほとんど見分けのつかないカソリックとプロテスタントが、激しい暴力を伴う鋭い対立関係を形成しており、後者の中にはイングランド本国より根強いロイヤリズムへの信仰が温存されていた。

ごく簡単にまとめるとこのようになるが、それぞれの問題をめぐる複雑な歴史的背景と、著者の詩情あふれる文体による描写がおさめられており、ぜひ本文を参照して欲しい。

こうして各地の紛争地域を歩いた著者は、結論として、これらの問題に共通するのは「民族的」ナショナリズムへの固執あるいは回帰ということであるとする。血や伝統といった先天的な属性を頼りとするナショナリズムである。
しばしば独裁や排他主義へ結びつくこれを否定し、民主的な手続きや価値観の共有こそを求心力とする「市民的」ナショナリズムへと再編成しなければならない、と彼は述べる。それは容易ではないだろうが、少なくとも「努力」が必要であるという。

「わたしは今度の旅をリベラリストとして始め、リベラリストとして終えた。が、自由主義文明――人ではなく法による、力ではなく議論による、暴力ではなく和解による統治――とは、ヒトの本性に深く反するものであり、これを達成し維持するには不断の努力で本性を克服するしかないのだと、考えざるをえなくなった」(352)

このナショナリズムの二分法は、古くからよく知られたものである。近年のナショナリズムの理論研究などにおいては、この二分法はすでに「乗り越えられた」という主張が、リベラリストからも「伝統主義者」からもよく唱えられている。しかし果たしてそうなのだろうか。
少なくとも日本およびその周辺国のナショナリズムや民族主義について、「市民的」あるいは「リベラル」なナショナリズムが、真剣に構想されたことなど一度でもあったのだろうか。
「具体的な対処」などありえず、「市民的」ナショナリズムの醸成に向けた「努力」が必要だとしか言いようがない、という著者の率直な感慨に、私もかなりの部分同意する。
また、たとえば「相手を知らないから憎悪するのであり、交流が進めばそれは消える」という妙な俗信があるが、そんなことはないことがよく分かる。民族紛争は、それまで隔てられてきた民族が、共存せざるを得なくなる時にこそ盛り上がるものでもある。その意味で、日本および周辺国とのナショナリズムをめぐる論争は、性善説と性悪説の抽象的な争いを終えて、実質的にはこれから本格化していくものなのではないかと思う。

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2010年03月19日

『ナショナリズムの政治学』施光恒・黒宮一太編(ナカニシヤ出版)

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「ナショナリズムとリベラリズムの「規範」の交差」

ナショナリズムとは、捉えどころのない概念であり、論者の立場や専門によって定義はころころと変わる。定義が難しいから、たとえば世論調査によって「実証的」に検証しようと試みるのも難しい。また国ごとにまったくことなる定義がなされ、何が「政治的に正しい」のかという基準を考えるのも難しい。にも関わらず、ナショナリズムに関連した議論は毎日のように各国を賑わしている。
私は昨年上梓した『現代日本の転機』において、戦後日本には「新自由主義」と「社会民主主義」といった理念的な対立構図が存在しなかったと書いた。あったのは、一方では「日本的経営」や「自民党型分配システム」といった古き良き日本「安定社会」論だった。他方では、それに対抗すると自称する、新左翼的思想の延長上で国家・賃労働・家族関係などのすべてを否定する「見果てぬ夢」としての「反近代主義」だった。この両者からなる「左右対立」が続いた後で、財界の方向転換に同調した保守政治家の一部が合流することで、前者の内部を食い破るような形で日本型の新自由主義が進行することとなった。

現在の日本でも、「新自由主義」「自由放任主義」「社会民主主義」といった言葉を聞く機会は多い。しかし往々にしてこうした理念対立は、「悪しき市場万能主義」と「良き再分配への配慮」というような、表面的な対比と混同されているのではないだろうか。
こうした理念というのは、それぞれの内的な論理によって作りこまれた世界観であり、「強者の論理」「弱者の味方」といった単純な二項対立とはあまり関係がない。
自由放任主義者は、国家や宗教的権威からの個人の自由は最大限尊重されねばならない、という西洋思想のリベラリズムの伝統にのっとり、経済成長も再分配も「市場」という機構に任せた方がうまくいく、というよりもそうでなければ公正な社会は成立し得ないと論じてきた。
それに対し、リベラリズムという基盤をあくまで共有した上で、それでも市場にプラスして「(分配的)正義」という要因を組み込まなければ、公正な社会は成立し得ない、と論じる議論が、社会民主主義を後押ししてきた。この両者の間に、最も主要な理念レベルの対立軸が形成されてきたといえよう。

これらは「規範的」な議論であって、個別利害の主張、あるいは「最大多数の最大幸福」という功利主義(あるいはポピュリズム)、さらには「どうすれば効率的に経済成長するか」といった実践論の、いずれともまったく関係がない。
中でも重要なのは、政府が特定の「弱者」を決めてそこに直接支援をするという、直接の国家介入によるニューディール型福祉の妥当性を、もう認めることができないという認識が共有されていたことだろう。国家介入ではなく、個人の自由裁量を最大限確保しなければならないことを前提とした上で、「こういう原則に則って個別の政策を考えなければ、社会が社会として成立しない」という原理論をめぐって行われきた議論である。
現実政治における「左派右派」の対立にも、背景にはこうした抽象的・哲学的な裏づけがあり、少なくとも知識人レベルでは背景知識として共有されていると言えよう。
それに対して戦後日本に存在してきたのは、まさに個別利害の主張、ポピュリズム的発想、具体的な実践論のみであって、「原理原則」の規範を述べる哲学的な議論の痕跡を認めることは難しい。こうした哲学的な議論を「空理空論で何の役にも立たない」「実証的ではない」などとして退ける風潮は、近年むしろ強まってすらいるように思う。

さて本書は、そうしたリベラリズムをめぐる議論と、ナショナリズムとを串刺しにして考えようとする「リベラル・ナショナリズム」という潮流を、日本語で紹介した本である。私自身の関心を末尾で少しだけ述べさせて頂くとして、この潮流には私自身も興味を持っていたところで、こうした概説書が出ることは大変ありがたい。
「まえがき」において編著者が述べている通り、論考を寄せているのは70年代生まれの著者たちであり、これまでの日本語圏におけるナショナリズムとはまったく異なる視角を導入することに成功している。

編著者の黒宮一太による第一章「ナショナリズムの起源」では、H.コーンによる「市民型・民族型」というナショナリズムの古典的分類から、それを止揚する形で登場した「近代主義」と「エスノ・シンボリズム」という議論の枠組みが登場するという流れを、平易に解説している。
佐藤一進による第二章「共和主義とナショナリズム」では、M.ヴィローリやR.ドゥブレの議論を批判的に検討しながら、「善・規範といった価値の揺らぎ」という問題を抽出している。
編著者の施光恒による第四章「リベラル・デモクラシーとナショナリティ」がおそらく本書の核を成す論考である。リベラリズムは元来、文化・慣習から自由な自律的個人を普遍モデルとして考えていた。しかし90年代以後は地域の分離独立、自治、少数民族問題などが自由民主主義諸国内部でも生じてきた。そこで、リベラル・デモクラシーの政治制度には不可避的にナショナルな文化が反映するとする「リベラル・ナショナリズム」の潮流が生まれることとなった。W.キムリッカやD.ミラーらを引きつつ、再分配政策は共通のアイデンティティ・連帯意識を必要とするが、それは現在ナショナリティの他にない、また共通の母語が民主的意思決定には必要であるなど、種々の論点が提示されているという経緯が概観されている。
そして、規範的に言えば、「リベラルな政治制度は、『ナショナルな自決(national self-determination)』の原理の自他への平等な適用を軸に、文化的公正さの保障を目指すと捉えるべき」(74)であると述べられる。
またミラーによる「他者」の三区分を引きながら、1)ナショナリティを共有しない、2)上位レベルでナショナリティを共有するが下位のレベルで別個のアイデンティティをもっている、3)ナショナリティを共有しているがエスニシティやジェンダーなど個別の点で異なる、というそれぞれにおいて適用される規範は異なると述べられる。その上でたとえば、ネイション内の少数者には政治的・表現の自由を保障し民主的審議を充実させるべきである。移民問題に関しては、ナショナル文化のコントロール不能なほどの急増は望ましくないと考えられるべきだし、受入国の民主的意志も尊重されるべきである。しかしその反面、送り出し国で移民にならざるを得ない人がなるべく生じないような援助も同時に要請される。……等々の「規範」が、論理的に導き出されるとしている。
ここでは評者の関心に沿ったものをピックアップさせて頂いたが、他にメディア論、憲法学、日本史、また多文化主義など、多様な専門の著者がナショナリズムを多角的に分析している。

前回も述べたが、私の関心のある日韓中の間で、ナショナリズムという現象に関する論調には目の眩むような落差がある。旧宗主国―旧植民地でありながら、隣国に位置する旧交戦国であり、巨額の経済援助をもって公的な「戦争責任」が解決したとされた後、かつての被援助国も経済成長に成功し、現在では外交的にも経済的にも対等の立場とプレゼンスを持っている。日本の一部では「中韓に追い越される」という妙な焦りが蔓延してすらいる。そして戦後/建国後、人的移動と、情報の直接交流が極めて限られた規模でしか存在せず、現在でも経済的・政治的結びつきにはアメリカというハブが重要視されている。
北朝鮮という難しい問題を横に置くとしてもなお、こうした関係は、なかなか他の地域には存在しない、かなり特殊なものであると思う。とりわけ、「かつての植民地主義」がこれだけ問題となりながら、同時に現在では完全に対等な相互関係を前提としなければならないという点をどう解釈するかという難題が存在する。
私自身は、「脱植民地」という問題系(対米認識においては日本にも限定的に当てはまる)のみに依拠してナショナリズムを考えることは、少なくとも東北アジアに関しては、もうできないのではないかと思わざるを得ない。ではどうするか、と考えた時、どこかで「規範」という問題を再考せざるを得ないのではないかと考えている。本書は日本のみに主な焦点を当てて書かれているが、この地域のナショナリズムを串刺しにして考える際にも、大いに参考になるだろう。本書の論者たちは共通して、D.ミラー、Y.タミール、W.キムリッカの議論に大きく依拠しつつ論を立てているので、本書でその概要を知りつつ、原著者たちの著作(それぞれ邦訳が出ている)に進まれるのも良いと思う。

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2010年01月17日

『現代朝鮮の歴史―世界のなかの朝鮮』カミングス,ブルース(明石書店)

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「韓国の現代史を大づかみにするために」

社会学者の高原基彰です。今回からこの「書評空間」に私の担当欄を設けて頂けることになりました。
私は、「分かりやすくて内容の薄い本を何十冊速読するより、濃密で有益な情報のつまった本を1冊、時間をかけて読む方が、得るものははるかに大きい」と思っています。分野・新旧の別などあまり関係なく、そういう意味で私が「なるべく多くの人が読んだ方がいいんじゃないか」と思ったものを紹介したいと思います。よろしくお願いします。

今回は、著名な朝鮮史研究の歴史学者、B.カミングスによる『現代朝鮮の歴史』を取り上げたい。大部であり、値段も高い本である。しかし韓国や北朝鮮について、薄っぺらな本を何十冊読むよりも、本書を通読した方が、はるかに実りが大きいと断言したい。
カミングスは、韓国の知識人に絶大な支持を得るアメリカ人の歴史学者で、特に朝鮮戦争の研究でよく知られている。本書は、そんなカミングスが朝鮮半島の通史を書いた本である。
彼はニューレフトの学者であり、韓国内の政治的布置(むろん日本のそれとは異なる)においても左翼に同情的である。英語圏でも、北朝鮮の人権抑圧への批判意識が足りないなどという批判があるようだ。また日本についても、韓国内に存在する認識の歪みがそのまま反映されている部分があるように思う。

しかしそうした批判が当てはまる部分があるとしても、この本は膨大な資料を駆使しつつ、基本的な経緯とデータを踏まえて書かれており、欠点を補ってあまりある基本知識が詰まっている。何語で書かれても、イデオロギー的党派性が記述のすべてを支配してしまいがちな朝鮮半島の歴史書としては、むしろ極めて抑制的なトーンで書かれた本と言って良いし、現在日本語で手に入るものとして、最良の入門書であると思う。

本書が有益なのは、何よりもまず、なぜ朝鮮半島の歴史がこのように激烈な左右対立、イデオロギー争いとして語られてしまうのかということ自体の、歴史的文脈を知る資料となっていることだ。
本書の主要部分は日本の植民統治期の記述から始まる。左翼による朝鮮史としては極めて異例なことに、日本の植民地行政は単なる「搾取」だけでなく、近代工業化をもたらしたことも事実であると述べていることに、まず著者のバランス感覚がうかがえる。

著者の言う「開発植民地主義」の中で、最初期の財閥が形成されていく。ほぼ当然のこととして、地主層出身の財閥経営者たちは植民統治権力と癒着関係にあった。また4割を朝鮮人が占めた国家警察による弾圧行為などで、「親日派」に対して広く深い民衆の憎悪が醸成されていた。
その最中、特に言論の自由が一定程度緩和された1919年以後の「文化統治」期に、ウィルソンの民族自決主義の刺激を受けた自由主義者と、共産主義者とが、それぞれ民族の独立を唱え始める。潜在的な大衆的基盤を持ち、抗日運動を主導したのは後者だったという。日本が敗戦により引き揚げるまでの間に、右派の金九、中道左派の呂運亨など、何人かの独立運動家が大衆的な人気を得るようになっていた。そして日本が去った後は、右派民族主義者と左派共産主義者の激烈な闘争が起こった。
アメリカ占領当局が最優先したのは、何よりも共産化の防止だった。彼らが許容した指導者は、日本統治下の財閥経営者が結成した「韓国民主党」と、上海の大韓民国臨時政府の代表者だった李承晩だった。不正の多かった1948年の選挙を経て、韓国民主党多数の議会と、李承晩大統領のもと、大韓民国が成立する。しかしすぐに韓民党と李承晩は対立するようになり、李承晩の与党・自由党と、野党であり唯一の現実的批判勢力の韓国民主党という体制が築かれることになる。

こうした建国の経緯は、アメリカの意図により、人望を集めていた独立運動家が排除され、「親日派」が支配層となったことを意味した。さらに独立後に行われた「親日派」への調査と処罰が、アメリカの意向を汲んで早期に終了させられたことなどから、この建国そのものが「民族主義」の不徹底とされる余地を大いに残すことになった。共産主義者は、南朝鮮労働党を結党したものの、激しい弾圧にあい大半が越北した。
そして、朝鮮戦争と「四月革命」による李承晩の退陣などを経て、60年代後半から朴正熙の主導による韓国の高度成長がやってくる。朴正熙その人が「親日派」と目される経歴を持っていたこと、彼が国家的な輸出振興政策のために財閥企業と極端に癒着したこと、さらに、開発に必要な外国援助を獲得するために日米へ急速に接近し、それを「歴史の無視」とする大衆的な反対運動を強力に弾圧したこと……。
こうした経緯を知らなければ、現在に至るまで韓国にあれほど強い反日・反米感情が続いている理由は、まったく理解ができない。理解ができないまま、反発したり不思議がったりしても、ただ的外れなだけで何も生み出さない。韓国内に存在する反日的な言論が、しばしば戦後日本の経験について恐ろしく無知であるのと、そっくり同じである。

その後1987年に、当時の大学生(386世代)を主とする「民主化勢力」が、全斗煥政権を退陣させ、後継者の盧泰愚に大統領直接選挙制への改憲を認めさせることで、形式的な「民主化」が達成される。この時、それまで違法だった左翼は、合法的な政治勢力となった。しかしその後も政治を主導したのは旧来型の政治家であり、若い「民主化勢力」の支持した旧・反体制派の政治家も、彼らとの妥結を進めていった。
この構図のまま、1997年のアジア通貨危機を契機として「IMF外貨危機」が訪れ、金大中大統領の元で財閥体制の大規模な構造改革が行われる。ここで、伝説的な民主活動家である金大中が大統領になり、自身が古くから批判していた財閥支配体制の改革の先鋒に立つという、一種の歴史的転換点までが、本書の範囲である。
重厚な内容をなかなか短くまとめることはできないので、ぜひ本文を通読して頂きたい。

「民主化勢力」が国会議員の多数を占め、本当の意味で国政の中心に入り込むのは、本書出版より後、盧武鉉政権の時だった。それまで未完とされていた「民主化」が、盧武鉉の登場によって完遂されたとされるのも、そのためである。
ほぼ全員が「民主化勢力」と直接間接に関わりを持った世代である現在の韓国の知識人、特に左派は、過去の独裁政権を「自国」と考えていない部分がある。彼らにとって過去の独裁政治は、現在にまで影響を及ぼしている、否定すべき過去の巨大な影なのであり、たとえば朴正熙の時代に行われた国際協約を、自国が行ったものという意識は薄い。

「民主化」後の韓国政治意識として、しばしば半数ほどが浮動層であり、あとの半数を、多数の意識的な保守派と、少数の革新派が分けていると言われる。
盧武鉉政権は、知識人から見て「政治的に正しいpolitically correct」政権であり、かつ浮動層の取り込みに成功した政権だったが、世界的な新自由主義の進展の中で経済問題にはうまく対処できず、政権後半で人気を大きく下落させた。それが現在の、李明博大統領と与党ハンナラ党による保守回帰につながった。

現在の李明博政権は、強権性という韓国の保守政治の衣鉢を受け継いでおり、また国家の成長エンジンの手足を縛ることはできないという理由で財閥に関する規制緩和を推進している。すでにグローバル企業の仲間入りを果たした一握りの財閥企業の業績は好調だが、市井の市民の体感的な経済状況は決して良くない。
他方で、韓国の保守政治家は強硬な反共・反北であり続けてきた。だからこそそれに反対する「民主化勢力」は、抗日独立運動の正統性をより多く引き継いでいるのは北朝鮮であるという主張を含む「民族主義」を掲げ、反共主義に対する闘争を繰り広げてきた。浮動層の多くがこちらに共感した時代が、遠くない過去にあった訳である。
しかし現在、市井の人々は広く、自分たちに北朝鮮との統一を進める経済的余力がないと考えている。それに対し、保守派の李明博の方が対北関係に関する具体的な提案を積極的に提示しているという、一種の逆転現象が生じている。

端から端へ振り子が揺れているだけのように見えても、その軌道は変化している。北朝鮮の今後の動向が不透明な中、韓国の行動も注目されるが、過去についての基礎知識がないならば、未来を見通すこともできない。そういう意味で、韓国・朝鮮の動向に関心のある方におすすめしたい本である。


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