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2011年01月15日

『反日、暴動、バブル―新聞・テレビが報じない中国』麻生 晴一郎(光文社新書)

反日、暴動、バブル―新聞・テレビが報じない中国 →bookwebで購入

「中国に胎動する新しい動きの現地報告」

2010年は中国にとっても、日中関係にとっても大事件の相次いだ年だった。劉暁波氏のノーベル賞受賞や、尖閣諸島をめぐる漁船衝突事故、さらには北朝鮮による韓国への砲撃事件など。
本書は、中国で長い取材活動を続けてきたルポライターである著者が、2009年の時点で、中国で胎動する新しい動きを捉えたルポルタージュである。すでに中国に詳しい層には広く読まれ、高い評価を受けている本であると言えるだろう。

本書のモティーフを要約すれば、以下のようになる。
農村や地方で、自国政府への抗議デモが相次いでいるが、その背景を日本のメディアは分析しきれていない。またスポーツイベントなどで「反日」の盛り上りなどは大きく報道されるが、問題なのはこうした「反日」現象というより、「親日」が不在であることだと著者は言う。
その理由は多くの場合、中国政府の定める教育方針や、中国のメディアの偏向報道に求められるだろう。しかし他ならぬ日本側自身が「親日」気運をわざわざ打ち消している側面も否めない。
日常的な意味で言えば、「知日派作家」と呼ばれる人々の多くも、日本滞在時に就職、家探し、あるいはもっと細かい場面において、疎外感を味わった経験を持っている。
しかしそれより問題なのは、日本政府もメディアも、中国政府のみを相手にしており、デモを行う地方や各種の社会運動家などに目を向けていないことである。「親中」の政治家や記者は存在するだろう。しかしその「親中」が目を向けているのは相手の政府だけである。

しばしば、日本は中国にこれまで莫大な援助をしてきたにも関わらず「反日」姿勢を取る人が多いのは理解ができない、という声を日本で聞く。しかし著者によれば、それも不思議なことではない。
なぜなら、ODA・政府援助から留学生招聘に至る、日本の考える中国への良いメッセージはすべて中国政府、およびそれに近い層――一民衆から見れば「特権層」――のみを相手にしたものであり、民衆の多くにとっては自分に関係のないことだからである(25)。

しかし今現在、デモの実行やネットを通じた発言などで、(場合によっては「反日」を含めた)新しい世論を形成しているのは、こうした一般の民衆たちである。日本は政府としてもメディアの中国分析としても、党中央と政府だけを相手にしており、こうした人々の存在を位置づけられていないのだ、と著者は批判する。

著者は、さまざまな限定をつけつつ、中国ではいま「人民」から「市民」への変化が始まっているという。 メディアを例にとれば、旧来のメディアは党中央の方針を上意下達に行き渡らせることを目的としていた。しかし近年では民間の新聞「都市報」が各地で膨大な数で出現し、またインターネットメディアが台頭するなど、「人民日報」を頂点とする中国の伝統メディアの秩序がすでに大きく揺らいでいる。
新しいメディアでコラムを書いたり記者をしたりしているのも、旧来の中国のエリートの回路からは外れた人々である。

とはいえ、楽観視できることばかりではない。
2004年あたりから、民間部門の台頭と、党役割の相対的な低下への危機感からか、全国規模で党の「先進性」を保つだめのキャンペーンが行われ、政治学習・訓示などのための会議が激増した(54)。
経済成長の躁状態の背後に隠れていた、新しい不満が本格的に人々の意識にのぼっていったのも、ほぼ同時期からである。
大都市の深刻な交通渋滞の本格化、大卒者の就職難、競争の激化に伴う新興企業の生き残り合戦の過熱、不安定雇用である契約社員の増大、古い会社でも業績評価の不透明さ、など。

こうした背景を踏まえなければ、2005年に盛り上がった反日デモも理解ができないと著者は言う。この時の反日デモに関して、現地で取材を行った著者の臨場感あふれる報告がなされている。
また著者は、反日デモと同時期に、日本軍との間で実際の戦争被害に遭った老人たちを取材していた。国共内戦や文化大革命と続いた深刻な政治闘争の中で、中国政府もこうした老人たちの話にまったく耳を貸してこなかった。
「反日」の盛り上がりの中で、直接の戦争被害者の声が、デモを行う人々にも、自国政府にも、現在に至るまで聞き入れられていない状況に、著者は違和感を表明する(90)。

また、日本でもよく指摘される「愛国教育」と対外感情との関係は、見た目ほど単純ではないと著者は言う。
愛国教育とは「日本軍から中国人民を救った中国共産党の活躍ぶりを宣伝」するものであり、著者の取材した人々やオピニオン・リーダーたちは、むしろそれに対しうんざりした感情を抱いていた。たとえば、日本の悪事を細かく紹介する反日ウェブサイトの存在も、実は「過去は共産党が宣伝するよりももっと凄惨なものだったはずだ」という、きれいごとの愛国教育の内容に対する反発を暗に含んでいるという(96)。

本書の後半部は、「反日」の問題に留まらない、現代中国に現れた「市民」たちの活動を現地取材した報告にあてられている。箇条書きにすれば以下のようになる。

・監視の隙間の多い郊外を根城とした芸術活動:
しかしその象徴たる芸術村や著名な芸術家は批判性より経済的成功へと方向転換していると著者は指摘する。
・孫志剛事件(出稼ぎ労働者が収容所で警察に暴行され死亡し、大きな話題となって収容所廃止につながった事件)以後活発になった李方平など「人権弁護士」の活動:
当局の監視・妨害もあり、毎年の資格更新(「年検」、09年に審査主体が弁護士協会に変わり「考核」と名称が変わったが実態は同じ:174)を利用した資格停止処分などもある。
・フェミニズムの勃興
・「伝知行社会経済研究所」(190)など、NGOの主催するサロンの形成
・環境問題を中心としたNGOの激増:
環境関連だけで10万以上あるとされ、地方政府が活動しようにも経済的に貧しい農村での活躍が目立つ(204)
・四川大地震に際した学生ボランティア

こうした、民間部門における各種の新しい動きを実地に取材した上で、著者は党・民間の区別はむろんのこと、民間部門も理念的に二種に分けて考えた方が良いのではないかと言う。
すなわち、現在の体制そのものに不満を持ち党とは無関係に行動する民間、および自由や民主主義などの観点から現在の体制を改革しようとする民間である。両社を混同したり無視したりすることから、中国は国民の大半が政府に洗脳されているとか、民間の動きは無視しても良い例外現象であるとかいう誤解が生まれている(223-5)。

現在はゆるやかに区別される民間勢力が一つになり、より大きなまとまりを形成した時は、何らかの政治的変化が起きる可能性も無視できない。しかし何清漣(『改革30年』)が、中国の中産階級は比率が小さく、政治参加が困難で、また彼ら自身保守的な性向を持つため変革の担い手にはなりえないと分析している(241)ように、先行きを予測するのは極めて困難である。
しかしいずれにせよ日本の側は今や、多様な民間の主体に着目し、その声に耳を傾ける必要がある。それなしに、政府とのみ対話する今のやり方では、「『中国共産党+特権としての日本』対『中国の新しい民間』という新しい対立図式を浮かび上がらせてしまう恐れもある」(254)と著者は危惧している。

「親中/反中」や「体制/反体制」といった二分法の多くが、すでに分析枠組みとしての機能を喪失していることは明らかである。しかしその後、どういったフレームで中国を考えれば良いのかという点で、多くの分析者もメディアも迷い続けている、というのが現状なのではないだろうか。
豊富な現地取材をもとにした本書は、小さな発見の積み重ねから、既存の枠組みの間違いを指摘していく。そこから、日本側から中国を見る新しい方法論という、大きな図式を提示する。ミクロなデータの収集・分析と、マクロなフレームにまつわる議論を有機的に結合させた、稀有な現代中国論である。

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