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2011年01月31日

『世論(上・下)』リップマン,W.【著】 掛川 トミ子【訳】(岩波書店)

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「「合意形成」とは何かを考え直すために」

たとえば今の中国に、やや不穏な空気が満ちているのは確かである。またチュニジアやエジプトで今起きていることを見ても、「民主主義とは何か」という極めて古典的なテーマが新しい形で浮上している。
いろいろな場所で、「西洋由来の民主主義は万能ではない」という言葉を聞く機会も、それにともなって増えているような気がしてならない。「西洋由来の民主主義」を「超克」したと主張する政治思想や政治体制は、20世紀を通じていくつも存在した。その中には他ならぬ過去の日本も含まれる。
その世紀を経た現代、「西洋由来の民主主義」が、「(西洋内部でも)十全に実現していない」という批判は可能であり必要でもあるだろう。しかし「そもそも必要がない」ということを、合理的に論じることは、おそらくもう不可能である。

この古典的なテーマについて、読むべき本は無限にある。今回は、ウォルター・リップマンが、第一次世界大戦終結のすぐ後にあたる1922年に書いた『世論』を取り上げたい。
リップマンは戦後も長く、アメリカ・ジャーナリズム界のご意見番として君臨した大物ジャーナリストだった。本書はその代表作とされており、すでに様々な観点から解釈がなされている。
一般的には、西洋世界でマスメディアの普及期にあたる戦間期、つまり「情報」が社会的影響力を増していった最中に、その功罪を「ステレオタイプ」や「疑似環境」といった概念で分析した、メディア論の古典であるとされている。
その筆致は洒脱で、学術書ではなく知的なエッセイに近いものである。必ずしも体系的に論旨を構築している訳でもない。古典といっても「読みやすい」部類に入る。
ざっくり分類すると、前半部で「メディアと情報のひずみ」の問題が扱われており、後半部はマスメディアの問題に限らない「アメリカの民主主義」の問題へと議論が拡大していく。冒頭に述べたような関心からすると、より興味をひかれるのは後者(主に下巻)の内容だろう。

まずは前半部の議論を概観してみよう。
第一次大戦の際、流布したデマや、報道の間違いの事例を豊富に挙げたうえで、「にせの現実に対してなぜ人は激しい反応を見せるのか」という問題が提示される(28)。
暫定的に彼が提示するのは「疑似環境」という概念である。人々は均質なやり方で世界を解釈しているのではなく、集団、階級、地方、職業、国家、党派などの差異にそって、人々の認識というのは特殊な世界群に分化している。そのそれぞれこそが「疑似環境」である。
諸個人は自分の属する所の「疑似環境」に、自分の世界解釈を適応させようとする。しかし局地化された世界解釈である「疑似環境」は、常に現実世界の総体そのものとはどこかで矛盾する。「世論」とは、集団ひいては個人の認識にバイアスをもたらす「疑似環境」の折り重なりの中で生成されるしかないものである。

報道の間違い、およびその間違いが大衆にそのまま普及してしまうことの背景には、多くこの「疑似環境」がある。その現実的な理由はいろいろあって:
・人為的な検閲の存在
・(集団をまたぐような)社会的接触を制限するさまざまの状況
・一日のうちで公的な事柄に注意を払うために使える時間が比較的乏しいこと
・事件をごく短文に圧縮して報じなければならないために起こる歪曲
・錯綜した世界を数少ない語彙で表現することのむずかしさ
・人々の中にすでに溶けこんでいる習慣を脅かすように思われる事実に直面することへの恐怖
などであるという(47-8)。

間違いの普及を説明するもう一つの概念が「ステレオタイプ」である。個人が元々もっている「先入観」と、「ステレオタイプ」にのっとったメディアからのメッセージが、個人の内部で同一化してしまう。報道内容がもつ「ステレオタイプ」(特定の人々に貼られたレッテル)は、受け手の個人の「先入観」を呼び起こす記号である(124)。
主に第一次対戦の際の戦時報道を実例として、こうした「ステレオタイプ」がもたらした間違いの数々が指摘されている。

むろん「ステレオタイプ」は、戦時報道に限ったことではない。たとえば大恐慌前夜にあたる当時、自由放任主義と集産主義とが激しく論争していた。簡略化すれば、図体の大きくなった大企業が不合理なので競争を貫徹させよという側と、むしろ大企業であることこそが競争力を生んでいるのだという側の論争である。
この論争にもステレオタイプがあり、それが論争をいたずらな党派的対立へと導いているとリップマンは指摘する。論争の内容も、その構図も、これはこれで現在にもみられる古くて新しい問題である。

「産業界の指導者たちは大規模トラストに自分たちの成功の顕彰碑を見た。
彼らに敗れた競争者たちは同じ大規模トラストに自分たちの敗残の烙印を見た。そこで指導者たちは大事業の経済性と効用とを説き、自由放任を求め、われこそは繁栄の代行者であり、通商の開発者であると言い放った。敗北者たちは、トラストの浪費と野蛮性を主張し、事業をトラストの不法共謀から解放するよう司法省に対して声高に訴えた。同じ状況であるのに、一方の側は進歩、経済性、目覚ましい発展を見、一方は反動、浪費、通商の制約を見たのである。この議論についてそれぞれの立場を証明しようと、目に見える真実と内部にひそむ真実、より深い真実とより大きな真実をめぐる大量の統計数字、逸話が発表された」(161)

そして彼の議論は次第に、そんな時代における「合意形成」とは何かという問題へ移行していく。(以下頁数は下巻のもの)
メディアの普及は「宣伝」の増大をもたらす。すると、「民主主義の原初的教義」であった「人間の心の自発性」という前提が揺らぐことになる。宣伝に煽られ、必ずしも自発的でない形で個人が意思決定することが一般化するからである(83)。
その状況における「合意形成」の難しさを、リップマンは連邦国家たるアメリカの状況から描き出す。

「伝統的」なアメリカの民主主義は、相互に孤立したコミュニティを単位とする「タウンシップ」だった。しかし連邦主義の台頭と「人民主権」の明確化により、「タウンシップ」は成立しなくなる。様々な意思決定が、人々が相互に認識できるコミュニティの内部ではなく、それらの集合体たる連邦の単位でなされるようになる。それらをつなぐのは、上巻で述べられていたようなマスメディアである。

連邦制のキモとなったのが、「官職任命制」だった。「官職任命制」は、理論的には、各地方の最優秀の人物が最高の叡智を中央の議会に結集させるということになっている。これにより、連邦中央の決定と、地域エゴとが分離されることとなる。
しかし必ずしも実態がともなっているとは言えないことも事実であり、中央の議会が、(個別の地域の現状を)何も知らないという不信感が、一般の人々にも蔓延している。
さらに、地域のリーダーが連邦政府との結びつきを強めると同時に、中央からの地方助成金や特権が、共同社会の自己中心性を促進していく。
この状況は、「限りなく多様な意見の闘争場」をもたらし、合意形成は困難を極めるようになる。

この状況を乗り越えるための選択肢は二つしかない、とリップマンは述べる。一方は「恐怖と服従による政治」であり、他方は「高度にシステム化が進み情報・分析にすぐれた政治」である(134)。

彼の議論は、直接参加型の合議による「合意形成」がもはや不可能になったこと、それ以後は人々の認識や合議にメディアが介在せざるを得ないこと、そしてそのメディアは必然的に集団的・党派的エゴイズムや誤解を生じさせること、を喝破している。
その上で彼が提示した二つの方向性は、こうした「民主主義の困難さ」に対峙した際の対照的な反応であり、その対比は現在にまで続いている。そのそれぞれが、具体的にいかなる制度をもたらすのかを、リップマンが詳しく述べていた訳ではない。しかし彼が、「恐怖と服従による政治」ではなく、「高度にシステム化が進み情報・分析にすぐれた政治」に正当性を見ていることは明らかである。
その背景には、伝統的共同体として想定されるような、直接参加型の合議が現在に復活することはありえない、という諦念があることも忘れられるべきでない。

「西洋由来の民主主義は万能ではない」という言い訳を備えた強権主義と、それに対し素朴・直接的な政治参加要求を突き付ける大衆運動、という対立図式があるとして、その双方にリップマンは同意しないだろう。
国内外のいろいろな状況を見るに、こうした議論が1920年代からすでに存在していたことを、まず直視することから始めた方が良いのではないか、という感慨を禁じ得ないのである。

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2011年01月15日

『反日、暴動、バブル―新聞・テレビが報じない中国』麻生 晴一郎(光文社新書)

反日、暴動、バブル―新聞・テレビが報じない中国 →bookwebで購入

「中国に胎動する新しい動きの現地報告」

2010年は中国にとっても、日中関係にとっても大事件の相次いだ年だった。劉暁波氏のノーベル賞受賞や、尖閣諸島をめぐる漁船衝突事故、さらには北朝鮮による韓国への砲撃事件など。
本書は、中国で長い取材活動を続けてきたルポライターである著者が、2009年の時点で、中国で胎動する新しい動きを捉えたルポルタージュである。すでに中国に詳しい層には広く読まれ、高い評価を受けている本であると言えるだろう。

本書のモティーフを要約すれば、以下のようになる。
農村や地方で、自国政府への抗議デモが相次いでいるが、その背景を日本のメディアは分析しきれていない。またスポーツイベントなどで「反日」の盛り上りなどは大きく報道されるが、問題なのはこうした「反日」現象というより、「親日」が不在であることだと著者は言う。
その理由は多くの場合、中国政府の定める教育方針や、中国のメディアの偏向報道に求められるだろう。しかし他ならぬ日本側自身が「親日」気運をわざわざ打ち消している側面も否めない。
日常的な意味で言えば、「知日派作家」と呼ばれる人々の多くも、日本滞在時に就職、家探し、あるいはもっと細かい場面において、疎外感を味わった経験を持っている。
しかしそれより問題なのは、日本政府もメディアも、中国政府のみを相手にしており、デモを行う地方や各種の社会運動家などに目を向けていないことである。「親中」の政治家や記者は存在するだろう。しかしその「親中」が目を向けているのは相手の政府だけである。

しばしば、日本は中国にこれまで莫大な援助をしてきたにも関わらず「反日」姿勢を取る人が多いのは理解ができない、という声を日本で聞く。しかし著者によれば、それも不思議なことではない。
なぜなら、ODA・政府援助から留学生招聘に至る、日本の考える中国への良いメッセージはすべて中国政府、およびそれに近い層――一民衆から見れば「特権層」――のみを相手にしたものであり、民衆の多くにとっては自分に関係のないことだからである(25)。

しかし今現在、デモの実行やネットを通じた発言などで、(場合によっては「反日」を含めた)新しい世論を形成しているのは、こうした一般の民衆たちである。日本は政府としてもメディアの中国分析としても、党中央と政府だけを相手にしており、こうした人々の存在を位置づけられていないのだ、と著者は批判する。

著者は、さまざまな限定をつけつつ、中国ではいま「人民」から「市民」への変化が始まっているという。 メディアを例にとれば、旧来のメディアは党中央の方針を上意下達に行き渡らせることを目的としていた。しかし近年では民間の新聞「都市報」が各地で膨大な数で出現し、またインターネットメディアが台頭するなど、「人民日報」を頂点とする中国の伝統メディアの秩序がすでに大きく揺らいでいる。
新しいメディアでコラムを書いたり記者をしたりしているのも、旧来の中国のエリートの回路からは外れた人々である。

とはいえ、楽観視できることばかりではない。
2004年あたりから、民間部門の台頭と、党役割の相対的な低下への危機感からか、全国規模で党の「先進性」を保つだめのキャンペーンが行われ、政治学習・訓示などのための会議が激増した(54)。
経済成長の躁状態の背後に隠れていた、新しい不満が本格的に人々の意識にのぼっていったのも、ほぼ同時期からである。
大都市の深刻な交通渋滞の本格化、大卒者の就職難、競争の激化に伴う新興企業の生き残り合戦の過熱、不安定雇用である契約社員の増大、古い会社でも業績評価の不透明さ、など。

こうした背景を踏まえなければ、2005年に盛り上がった反日デモも理解ができないと著者は言う。この時の反日デモに関して、現地で取材を行った著者の臨場感あふれる報告がなされている。
また著者は、反日デモと同時期に、日本軍との間で実際の戦争被害に遭った老人たちを取材していた。国共内戦や文化大革命と続いた深刻な政治闘争の中で、中国政府もこうした老人たちの話にまったく耳を貸してこなかった。
「反日」の盛り上がりの中で、直接の戦争被害者の声が、デモを行う人々にも、自国政府にも、現在に至るまで聞き入れられていない状況に、著者は違和感を表明する(90)。

また、日本でもよく指摘される「愛国教育」と対外感情との関係は、見た目ほど単純ではないと著者は言う。
愛国教育とは「日本軍から中国人民を救った中国共産党の活躍ぶりを宣伝」するものであり、著者の取材した人々やオピニオン・リーダーたちは、むしろそれに対しうんざりした感情を抱いていた。たとえば、日本の悪事を細かく紹介する反日ウェブサイトの存在も、実は「過去は共産党が宣伝するよりももっと凄惨なものだったはずだ」という、きれいごとの愛国教育の内容に対する反発を暗に含んでいるという(96)。

本書の後半部は、「反日」の問題に留まらない、現代中国に現れた「市民」たちの活動を現地取材した報告にあてられている。箇条書きにすれば以下のようになる。

・監視の隙間の多い郊外を根城とした芸術活動:
しかしその象徴たる芸術村や著名な芸術家は批判性より経済的成功へと方向転換していると著者は指摘する。
・孫志剛事件(出稼ぎ労働者が収容所で警察に暴行され死亡し、大きな話題となって収容所廃止につながった事件)以後活発になった李方平など「人権弁護士」の活動:
当局の監視・妨害もあり、毎年の資格更新(「年検」、09年に審査主体が弁護士協会に変わり「考核」と名称が変わったが実態は同じ:174)を利用した資格停止処分などもある。
・フェミニズムの勃興
・「伝知行社会経済研究所」(190)など、NGOの主催するサロンの形成
・環境問題を中心としたNGOの激増:
環境関連だけで10万以上あるとされ、地方政府が活動しようにも経済的に貧しい農村での活躍が目立つ(204)
・四川大地震に際した学生ボランティア

こうした、民間部門における各種の新しい動きを実地に取材した上で、著者は党・民間の区別はむろんのこと、民間部門も理念的に二種に分けて考えた方が良いのではないかと言う。
すなわち、現在の体制そのものに不満を持ち党とは無関係に行動する民間、および自由や民主主義などの観点から現在の体制を改革しようとする民間である。両社を混同したり無視したりすることから、中国は国民の大半が政府に洗脳されているとか、民間の動きは無視しても良い例外現象であるとかいう誤解が生まれている(223-5)。

現在はゆるやかに区別される民間勢力が一つになり、より大きなまとまりを形成した時は、何らかの政治的変化が起きる可能性も無視できない。しかし何清漣(『改革30年』)が、中国の中産階級は比率が小さく、政治参加が困難で、また彼ら自身保守的な性向を持つため変革の担い手にはなりえないと分析している(241)ように、先行きを予測するのは極めて困難である。
しかしいずれにせよ日本の側は今や、多様な民間の主体に着目し、その声に耳を傾ける必要がある。それなしに、政府とのみ対話する今のやり方では、「『中国共産党+特権としての日本』対『中国の新しい民間』という新しい対立図式を浮かび上がらせてしまう恐れもある」(254)と著者は危惧している。

「親中/反中」や「体制/反体制」といった二分法の多くが、すでに分析枠組みとしての機能を喪失していることは明らかである。しかしその後、どういったフレームで中国を考えれば良いのかという点で、多くの分析者もメディアも迷い続けている、というのが現状なのではないだろうか。
豊富な現地取材をもとにした本書は、小さな発見の積み重ねから、既存の枠組みの間違いを指摘していく。そこから、日本側から中国を見る新しい方法論という、大きな図式を提示する。ミクロなデータの収集・分析と、マクロなフレームにまつわる議論を有機的に結合させた、稀有な現代中国論である。

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