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2010年10月27日

『蟻族――高学歴ワーキングプアたちの群れ』廉思【著】 関根謙【監訳】(勉誠出版)

蟻族――高学歴ワーキングプアたちの群れ →bookwebで購入

「就職難に直面した中国の地方出身大卒者」

日本で話題になる「高学歴ワーキングプア」は、大学院卒のことである。特に、博士課程修了者や博士号取得者で仕事のない人々のことを指すだろう。

中国の大学院生も、特に文系出身者は、(まだ日本ほど顕在化していないが)同じようなキャリアの不透明さに悩まされている。しかしこの本はそれ以前の、大卒者の苦労を描いたものであり、大学卒業資格の価値下落の結果を書いたものである。

本書が出版されたのは、評者が北京に滞在していた2009年のことであり、当時の中国で大変話題になっていたことを思い出す。英語圏と国内の学会誌のみを見ている大学・研究者の世界というより、広く読書界で話題を呼んだ。

地方から大学進学のため出てきたものの、低賃金の仕事しか見つからなかった、または仕事が見つからなかったなど、折からの就職難の中で望ましい就職のできなかった若者が大量に生まれている。そして北京など大都市の周辺部、農村との境界にあたる部分に、彼らの集住する地域が形成されている。
著者らはこうした、都市に滞留する地方の大卒者たちの群れを、知能が高い群棲動物であるアリになぞらえて「蟻族」と名付け、その生態を調査してまとめたのが本書である。

著者たちの主な目的は、こうした大卒の低賃金労働者の出現を、社会問題として認知させることにある。
学術界で「出稼ぎ農民、リストラ労働者、農民」は三大弱者集団とされ、政策的にも対策が議論されている。「大卒低所得群居集団」は、今のところ大きな問題とはされていない。しかし彼らも、社会における不満分子なのであり、放置すれば動乱などの要因として体制不安定要因になりえる、という形で問題提起を行っている。
「これらの『エリート候補生』が社会に参与できない、或いは行き場を失ってしまえば、若く繊細な心やゼロに等しい自活力が経済危機の下に晒されてしまうことになり、必ずや中国社会の調和と安定にとって潜在的な脅威となるだろう」(21)。
「社会がこの問題は解決しなければならないことだと認識したとき、我々は使命を終えるのである」(17)。

こうした問題の背景には、中国における大学の野放図な拡充政策によって、社会的に価値の認められない学位が乱発されたことがある。その点について、翻訳版では監訳者による解説が冒頭におかれている。
それによれば、文革以後、初等・中等教育制度の整備が進み、その後は高等教育も拡充が目指された。1980年と2008年の統計を比較すれば、計画出産(一人っ子)政策のため初等教育学生数はこの間に減少している。しかし高校レベルの学生数は5倍増、大学など高等教育の学生数は実に27倍増となった(vii-viii)。
大学・学生数が激増したのと同時に、重点大学を指定しそこに政府資金を重点的に投入する「211工程」「985工程」を通し、「一流大学とそれ以外」の線引きが明確になされた。
加えて、「大卒者」への参入ルートも多様化した。社会人学生(成人教育)や、旧大検に近い制度「自考(自学考試)」など、通常の学生(本科生)以外にも多様な形の「大卒者」が現れることとなった。
こうした過程の中で、重点大学とその他の大学、および通常の卒業者と成人教育課程卒業者などの間に、大きな格差が生まれることとなった。「その他の大学」の「非本科生」は、残念ながら「大卒者」といっても社会的にその資格が認められる存在ではなくなっている、と監訳者は指摘する。

本書本文は、「雪だるま方式」で集めた質問紙調査の結果から、この集団の特性を把捉しようとした前半部と、聞き取り調査の結果から、彼らの生活上の苦労や心理的な苦悩をルポルタージュ的に描いた後半部に分かれる。

こうした「群居村」は、北京近郊では唐家嶺、小月河、二里荘、沙河鎮などがある。北京地区だけで、こうした人々は10万人以上いると推定される。
質問紙調査によれば、その住人の年齢は22-29歳(つまり「80后」)に集中しており、職業は技術系あるいはサービス系が多い。保険のセールス、電子器材の販売、広告の営業、飲食サービスなどである。平均月収はおよそ2000元で、平均の家賃は377元。

中国はタテにもヨコにも多様な社会なので「平均値」を考えるのが難しいが、イメージとして言えば月収2000元は、出稼ぎ労働者の賃金と、いわゆる大卒者の同年代の賃金の中間あたりである。本当の貧窮者という訳ではないが、独立して通常の社会生活を営むには厳しい額とでも言えば良いだろうか。

しかしまがりなりにも都市での独居を可能にしているのは、家賃の安さである。通常の意味で言う「北京市内」で、400元前後で借りられるワンルームマンションの物件は確実にない。どんなに安くても1000元はするだろう。だから、職のある若者でも、中国都市部ではルームシェアで家賃を抑えることが日本よりはるかに一般的である。

本書によれば、2006年に北京周辺の都市/農村の境界部に農業システム転換基地ができたのを機に、1Kの大量の部屋が建設され、格安で賃貸するとの情報がウェブで流された。住宅に困っていた若年層が、大挙してここに押し寄せた。こうして都市周縁部に激安マンションが増え、そこに「群居村」が短期間で形成されることとなった。

職業・教育状況の集計では、監訳者が社会的価値を認められにくいと述べていた経歴の者が、相当数を占めている。また専攻によって格差があり、理工学(特に国立本科卒)は比較的高所得で、安い家賃に惹かれてここに入居しても短期に入れ替わる傾向がある。対して文系や経営学の卒業者は集団内部でも低所得であり、長期滞在になることが多いという。
またこの調査には一種の心理テストが入っており、ここの住人たちは強迫感、憂鬱感、敵対感、偏執などが、一般的な数値より高かったと報告している。

総じて、高等教育を受けたものの教育制度上の区分、あるいは地方出身者という制約などから、都市の同年代に強い劣等感を抱きやすい集団であるという。これは、苦学した家庭の子供が苦労し、都市民の恵まれた層の子弟が優遇される、つまり資源が世襲される「コネ社会」の現れ以外の何物でもない、と著者たちは義憤を禁じ得ないでいる。

他方、社会・政治に対する意識としては、社会や政治への参与意欲が比較的高いことが挙げられ、この集団が不満を持っていることが分かるという。
そして人的ネットワーク構築の手段としては、インターネットが最も使われている。ネット上の数々の事件の背景にも蟻族がいるだろうという。
しかし陳情・公開集会・ストライキやデモといった形で人とつながっている割合はそれほど高くなく、インターネットで人とつながっても、直接行動に出るよりは「傍観者的役割」であり、集団行動への意欲は高くない者が多い。よって現段階では直接に社会的脅威となる集団ではないが、このまま放置すればいつ不安定要因に転化するか分からない、というのが著者たちの観測だった。

後半部の、聞き取り調査によるルポルタージュは、要約しづらいこともあり、本文を参照して頂きたい。文芸的な中国版「青春残酷物語」であり、いろいろな文脈の違いはあるにしても、私周辺以下の世代にはどこか体感的に共感できる記述も多いのではないだろうか。
10人あまりの被調査者の濃密な語りを通し、夢を抱いて北京にやってきたものの、様々なトラブルや不合理に巻き込まれて次第に希望を失っていった様子が描かれる。

共通しているのは、学歴が評価されないこと、また北京の戸籍がないことにまつわる苦労であり、またやっと見つけた職が低賃金・高ノルマの仕事だったことである。
友人などと起業したが失敗した、という者も複数いる。マルチ商法詐欺に引っ掛かり、拉致同然に地方へ連れていかれ強制労働させられそうになったところ、やっとの思いで脱出したというエピソードを持つ者も複数いる。

また恋愛、家族、ルームメイト関係など、身近な人間関係のトラブルで流浪生活を余儀なくされた者も多い。
この点は著者たちが重視する点で、前半部の質問紙調査でも「性・恋愛・結婚」の充実度が低いことが強調され、それが「生活の質」に悪影響を及ぼしていると述べられている。
いわば中国の、相対的に豊かでない層の「非モテ」問題であり、むしろ日本より深刻そうである。
また「田舎に帰っても良いことはない」というのが全員の共通認識であり、故郷に帰る訳にもいかない。こうした「寄る辺のなさ」と、人生の転変を余儀なくされる「過剰な流動性」が、対象者の語りを通して記述されていく。

そして本書は、ここの住人たちが、街の入り口で、「水費」(いわば「ショバ代」)として月10元の不透明な集金を強制されていることを指摘し、小口であるとしても住民数を考えれば毎月莫大な額となるこの金は、一体どこに流れているのだろうか、という不気味な問いで閉じられている。

評者自身、本書の評判を聞いて、北京滞在中に知り合いの中国人の先生と唐家嶺へミニ取材へ行ったことがある。唐家嶺は、北京の有名大学が集まる市西北部に位置し、ハイテク産業集積地として知られる中関村の、市中心部から見て反対側の端に隣接した一帯である。
この本をきっかけとした、ジャーナリストの取材などが大量にあったらしく、住人も大家も妙に構えていたのが印象的だった。私が話した数人の若者たちは、「可哀想という取材がよく来たが、自分は満足しておりメディアの伝え方は間違っている」というようなことを言っていた。彼らは、中関村で、ウェブ管理者や末端のプログラマなど、いわゆる「ITドカタ」的な仕事に従事していた。

また大家は、「別に普通の快適な部屋だ」と言っていた。実際、単純に市中心部から離れて不便な点を除けば、それほど悪い部屋ではなさそうだったし、家賃も600~700元が相場のようだった。本書出版の後、農民が経営するマンションもやや改善されたのかもしれない。

しかしこれらのマンションは、要するに農地利用の規制緩和を拡大解釈し、家賃収入を得ようとした都市近郊農民による違法建築である。唐家嶺はすでに取り壊しが決定され、住民はほぼ全部退去したらしい。
取り壊し決定の経緯、また本書出版後に「蟻族」の存在が実際に政策的議論の俎上に乗った経緯については、「日経ビジネスオンライン」にて北村豊が日本語で報告 をしてくれている。各種の政策は、彼らを「地方に帰す」ということを主眼に置いている。

4環状線の外側に当たる北京の端っこは、そこかしこで再開発計画と立ち退き問題が起こっているようで、「蟻族」の解散を特に目的としたものかどうかは分からない。
また、中国は内陸部に向けた巨額の公共投資と内陸開発を同時期に進めており、「これからは故郷の近くにも仕事ができるからクニに帰れ」という言い分も一応は首尾一貫している。
しかしその言い分が完全に信用されるとは限らないのもまた当然である。こうした人々はどこの国でも出現しているのであり、何か「抜本的な対策」が存在するとは考えない方がいいだろう。

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2010年10月20日

『希望難民ご一行様――ピースボートと「承認の共同体」幻想』古市憲寿・本田由紀【解説・反論】(光文社)

希望難民ご一行様――ピースボートと「承認の共同体」幻想 →bookwebで購入

「豊富な一次資料を用いた若者の『自分探し』分析」

三浦展(『下流社会』)などの著名な論者により、若者が夢の「青い鳥」を追い過ぎているという言説がひとしきり行き渡った。しかし他方で、現在の若者はリスクテイクをせず、本を読まないし旅行にも行かないなど、自閉的になりつつあるという人も多い。一体若者は、内実のない夢を追っているのだろうか、引きこもり内閉していっているのだろうか。

この『希望難民ご一行様』の著者、古市憲寿は25歳で、彼自身が若者と呼ばれてしかるべき年代である。本書は大学院に提出された修士論文を元にしている。
古市は三浦展に近い見方をしている。彼がサンプルに選んだのはピースボートという、世界一周クルーズを行うNGOの活動である。

まずは古市の議論を概観してみよう。
最初に理論篇があり、1973年を境とする戦後世界の転換を経た「後期近代」を、諸個人が「終わりなき自分探し」を強いられるものと規定する。

次に、日本における旅行の歴史をまとめたパートが続く。マスツーリズムの普及を経て、そのマスさを嫌ってそこから抜け出そうとする人々が出現する。日本では「カニ族」、「アンノン族」、それの系譜上のバックパッキングなどがあった。
しかし近年は、「個性」や「自分探し」を求める欲求と、日本人同士で安心・安全に旅するという欲求を同時に満たす「新・団体旅行」という潮流が人気である。テレビ番組の「あいのり」をイメージすれば分かりやすいかもしれない。ピースボートはその典型例とされる。
「カニ族」や「アンノン族」と、現代の「自分探し」とが異なるのは、帰るべき「企業社会へのレール」という人生ルートがすでにないことであるとされる。

続いてピースボートの概要を述べるパートがある。
80年代半ばの創設時は、左翼的な政治団体という側面が色濃かった。その後事業規模を拡大させてくと同時に、左翼的な政治性は薄まっていく。
特筆すべきは「ボランティアスタッフ」(ボラスタ)という制度であり、ポスター貼りなどの手伝いをすると、参加料金が割引になる。長期にボラスタ活動を行えば旅費をタダにできる。ボラスタは、「ポスターを貼れば世界一周できる」という分かりやすい物語を提供する制度であり、積極的な参加者はこの活動を通してピースボートという「共同性」を相互確認するようになる。

他方で、世界一周の割に安価なため、退職した高齢者を中心に、単なる旅行目的で乗船する客も多い。ボラスタ出身の積極的な若者たちと、こうした高齢者は、船の中でも一種の対立関係を形成していく。本書の主な対象は、高齢者ではなく若者たちである。

古市の質問紙調査によれば、乗船した若者たちの属性は、学生、「周辺的正社員」、「周辺的労働者」(フリーターなど)、資格保有者(看護師など)に分類できる。学生より正社員が多いが、いわゆる大企業の正社員はほぼ皆無である。看護師初め資格職が多いのは、復職が容易だからではないかという。年収は200万円前後が多く、同世代平均より少し下の層が多い。

次は、いわば「自分探し」分析篇である。
参加者の若者たちは、ボラスタ出身者だけではない。単なる観光目的の参加者は若者にもいる。 古市は「目的性」(ピースボートの「左翼的」な政治性を共有する)、「共同性」(共同体としての場・経験の共有を求める)という軸を設定し、その強弱で若者を4つに分類する。
・「セカイ型」(目・強、共・強、タームとして分かりにくいが、要するにピースボートの提唱する護憲や世界平和などの理念と、祝祭的な盛り上がりにともに深くコミットする層)
・「自分探し型」(目・強、共・弱)
・「観光型」(目・弱、共・弱)
・「文化祭型」(目・弱、共、強)

クルーズ中の参与観察による記述で最も重視されるのは、船のマシントラブルなどによりスケジュールに生じた遅延・変更、またそれに対する主催者側の態度に年輩の参加者が怒り、ビラをまいて抗議運動しようとしたエピソードである。
この動きに対し、最も積極的な参加者たる「セカイ型」の若者が、主催者を擁護して反対した。しかし古市は、彼らの反論は合理性を欠いた感情的なものであり、「異質なものに対する耐性の弱さ」をそこに読みとる。

古市は「目的性」を重視する「セカイ型」「自分探し型」の若者たちに極めて冷淡である。彼は学力テストを行っており、その結果参加者の若者たちは、日本初の総理大臣を知らない人が多く含まれるくらい、全体的に学力が低かった。
古市によれば、彼らは具体的に憲法や平和の問題を考えている訳ではなく、ただ群れ集って「感覚の共同体」(セネット)を形成しているだけである。アイデンティティ不安を抱えた若者たちが、「一緒に盛り上がる」「島宇宙型」のコミュニティでしかない。「若者のロマンの受け皿」として機能している点では、右翼にのめり込む若者たちの集団と変わらない。

次に、クルーズが終了した二年弱ほど経った後に行われた、追跡調査の様子である。
「共同性」を重視していた「セカイ型」「文化祭型」は、ルームシェアなどを通じた濃密な人間関係を、追加調査時にも引き続き結んでいた。
しかしそれはもはや単なる友人関係となっており、「セカイ型」が船内で唱えていた「護憲」や「世界平和」は、もはや誰にも重視されていなかった。
「観光型」は復職などを通し日常へ戻っていた。
最も問題なのは「自分探し型」であり、さらに別の手段で海外を目指すなど、「終わりなき自分探し」を続けている者が多かった。

最後に、この調査の発見のまとめと、それに基づく提言がおかれている。
ピースボートへの参加とは、若者の「自分探し」にとっては二重の「冷却」である。漠然とした「自分探し」が、ピースボートによって「世界平和」という具体的な目的意識を持つようになるのが第一段階、しかし旅が終わればその目的意識が忘却されてしまうのが第二段階である。

こうしてみると、若者にとってのピースボートとは「承認の共同体」であり、相対的に貧しい立場に置かれた者たちが、相互の存在を慰撫し合う場所である。それが経済的配分をめぐる異議申し立てや、社会運動につながることはない。
こうした共同体の存在が、相対的に不利益を被る層に自己満足をもたらし、経済的格差や不正義をむしろ固定化・延命してしまうという批判もある。
しかし古市はこうした批判にも同意しない。むしろそれで良いのであり、「自分探し」で社会から退引した若者たちも「そこそこ楽しい暮らしを送っていける」のだから、いいのではないかという。
むしろ、キャリア構築過程が不明確な現在の日本の雇用市場において、失敗する可能性の高い「クリエイティヴ」志向を抱き続けることの方が危険である。よって「若者をあきらめさせる」ことが必要だというのが、古市の提言である。

本田由紀が末尾に「反論」と銘打った紹介文を寄せており、「承認の共同体」を支える経済的・物質的基盤が実は脆弱であるかもしれないこと、また「目的性」を捨てることはかえって「生きづらさ」を増長させるかもしれないことなど、極めて真っ当な異議を提示している。

評者の個人的な感想を述べれば、以下のようになる。まず、労をいとわず貴重な一次資料を集めた、秀逸な修士論文であることは言うまでもない。
その上で言えば、上昇移動する人と下降移動する人とドロップアウトする人、また経済的合理性を備えた共同体やネットワークと、それらを度外視した「承認の共同体」、などのすべては、あらゆる社会に不可避的に存在するものである。「後期」ではなく「前期近代」からすでにあるだろう。よってその存在自体の良し悪しを議論することには、あまり意味がない。
問題があるとすれば、たとえば第一に、その存在が何か良い/悪い社会的機能を備え、かつ一定以上の影響力を持っている場合である。第二に、知らず知らず特定の方向に諸個人が吸い寄せられていってしまうような力学(特定の主体の意図によるものでなくとも)の現れとして、そうした共同体が現出している場合である。

ここで古市が解釈した(実態通りとは限らない)ピースボートのような「承認の共同体」が、存在することには何の不思議もないし、他にもいくらでもある。その上で著者が何を問題として認識しているのか、評者にはよく分からなかった。
結論で著者は、こうした共同体は好ましい機能を持っていると述べている。しかしその構成員の行動や心性に対する評価は、一貫して非常に低い。
では、こうした共同体は好ましくない形で機能している、あるいは「誰かをだましている」ため、なるべく減らす方が望ましいのだろうか。しかし結論では「若者をあきらめさせる」ためには必要なものだと述べられている。
取りまとめると、「いつ、どこの世にもありがちな共同体がここにもあって、良くはないが悪くもない」という結論に見えてしまいうるのが、本書のもったいなさである。

おそらく「後期近代」という時代認識を、「自分探し」の一点にしか結び付けていないことが、議論の弱さをもたらしている。
イノベーション要求のようなものがなければ、社会は停滞していくしかない。それは「後期近代」を持ち出すまでもないことである。
古市の認識と提言は、現状そうした要求が、社会において現実化しそうもない形で滞留していることに対して向けられているのだ、と評者は解釈した。

「夢」や「クリエイティヴ志向」が、相対的にリソースを欠いた層にこそ抱かれ、相対的にリソースをまだ保持している層はいわゆる「安定志向」を強めている。前者の志向は、この社会のキャリア構築過程が不透明なこともあり、社会の中に具体的な成果を残しえない形で漂流するしかない。
それを見た相対的に優遇される層は、ますます「安定志向」を強める。こうした、社会参加やイノベーションに対する動機付けをめぐる一種の「ミスマッチ」は、評者自身が大学などで、若者たちの現状を見て憂うことの一つである。
古市がこれに同意する必要はない。しかしたとえばこうした問題提示に対し、何かしら参考になったり応答したりする発見が欲しかった、というのが評者の身勝手な感想である。

さらに評者の個人的な印象論を述べれば、「若者論」や「世代論」の有効性が、今後は消失していくかもしれない、という漠然とした予感がある。
元々日本では、性別をわずかな例外として、国民の内部に考慮されるべき「差異」が存在しないというフィクションが共有されていたからこそ、「世代」がいわば無理矢理にクローズアップされてきた。
しかしながら「分厚い中間層」が想像しにくくなった後、いわゆる「格差」が前提となった後で社会化された層は、時代性こそ共有しつつも、何重もの「差異」あるいは「分断」を内包する世代となるだろう。
それは親世代がいなくなった頃、本格的に可視化されていく差異かもしれない。そうなった時に初めて、若者が「夢を追っている」「リスクを取らない」云々という問題ではなく、社会における「若者」というカテゴリーの位置づけ自体が変化しているのであり、それを踏まえなければ何の対策も取りようがないことが明らかになるだろう。古市の記述は、その後にこそ改めて読み返される価値を持つものかもしれない。
評者は著者と知り合いでもあり、いつもより率直な感想を書かせてもらった。しかしいずれにせよ、現在の若者の行動や心性に関心のある向きには、ぜひ手にとって頂きたい一冊である。

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