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2010年03月19日

『ナショナリズムの政治学』施光恒・黒宮一太編(ナカニシヤ出版)

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「ナショナリズムとリベラリズムの「規範」の交差」

ナショナリズムとは、捉えどころのない概念であり、論者の立場や専門によって定義はころころと変わる。定義が難しいから、たとえば世論調査によって「実証的」に検証しようと試みるのも難しい。また国ごとにまったくことなる定義がなされ、何が「政治的に正しい」のかという基準を考えるのも難しい。にも関わらず、ナショナリズムに関連した議論は毎日のように各国を賑わしている。
私は昨年上梓した『現代日本の転機』において、戦後日本には「新自由主義」と「社会民主主義」といった理念的な対立構図が存在しなかったと書いた。あったのは、一方では「日本的経営」や「自民党型分配システム」といった古き良き日本「安定社会」論だった。他方では、それに対抗すると自称する、新左翼的思想の延長上で国家・賃労働・家族関係などのすべてを否定する「見果てぬ夢」としての「反近代主義」だった。この両者からなる「左右対立」が続いた後で、財界の方向転換に同調した保守政治家の一部が合流することで、前者の内部を食い破るような形で日本型の新自由主義が進行することとなった。

現在の日本でも、「新自由主義」「自由放任主義」「社会民主主義」といった言葉を聞く機会は多い。しかし往々にしてこうした理念対立は、「悪しき市場万能主義」と「良き再分配への配慮」というような、表面的な対比と混同されているのではないだろうか。
こうした理念というのは、それぞれの内的な論理によって作りこまれた世界観であり、「強者の論理」「弱者の味方」といった単純な二項対立とはあまり関係がない。
自由放任主義者は、国家や宗教的権威からの個人の自由は最大限尊重されねばならない、という西洋思想のリベラリズムの伝統にのっとり、経済成長も再分配も「市場」という機構に任せた方がうまくいく、というよりもそうでなければ公正な社会は成立し得ないと論じてきた。
それに対し、リベラリズムという基盤をあくまで共有した上で、それでも市場にプラスして「(分配的)正義」という要因を組み込まなければ、公正な社会は成立し得ない、と論じる議論が、社会民主主義を後押ししてきた。この両者の間に、最も主要な理念レベルの対立軸が形成されてきたといえよう。

これらは「規範的」な議論であって、個別利害の主張、あるいは「最大多数の最大幸福」という功利主義(あるいはポピュリズム)、さらには「どうすれば効率的に経済成長するか」といった実践論の、いずれともまったく関係がない。
中でも重要なのは、政府が特定の「弱者」を決めてそこに直接支援をするという、直接の国家介入によるニューディール型福祉の妥当性を、もう認めることができないという認識が共有されていたことだろう。国家介入ではなく、個人の自由裁量を最大限確保しなければならないことを前提とした上で、「こういう原則に則って個別の政策を考えなければ、社会が社会として成立しない」という原理論をめぐって行われきた議論である。
現実政治における「左派右派」の対立にも、背景にはこうした抽象的・哲学的な裏づけがあり、少なくとも知識人レベルでは背景知識として共有されていると言えよう。
それに対して戦後日本に存在してきたのは、まさに個別利害の主張、ポピュリズム的発想、具体的な実践論のみであって、「原理原則」の規範を述べる哲学的な議論の痕跡を認めることは難しい。こうした哲学的な議論を「空理空論で何の役にも立たない」「実証的ではない」などとして退ける風潮は、近年むしろ強まってすらいるように思う。

さて本書は、そうしたリベラリズムをめぐる議論と、ナショナリズムとを串刺しにして考えようとする「リベラル・ナショナリズム」という潮流を、日本語で紹介した本である。私自身の関心を末尾で少しだけ述べさせて頂くとして、この潮流には私自身も興味を持っていたところで、こうした概説書が出ることは大変ありがたい。
「まえがき」において編著者が述べている通り、論考を寄せているのは70年代生まれの著者たちであり、これまでの日本語圏におけるナショナリズムとはまったく異なる視角を導入することに成功している。

編著者の黒宮一太による第一章「ナショナリズムの起源」では、H.コーンによる「市民型・民族型」というナショナリズムの古典的分類から、それを止揚する形で登場した「近代主義」と「エスノ・シンボリズム」という議論の枠組みが登場するという流れを、平易に解説している。
佐藤一進による第二章「共和主義とナショナリズム」では、M.ヴィローリやR.ドゥブレの議論を批判的に検討しながら、「善・規範といった価値の揺らぎ」という問題を抽出している。
編著者の施光恒による第四章「リベラル・デモクラシーとナショナリティ」がおそらく本書の核を成す論考である。リベラリズムは元来、文化・慣習から自由な自律的個人を普遍モデルとして考えていた。しかし90年代以後は地域の分離独立、自治、少数民族問題などが自由民主主義諸国内部でも生じてきた。そこで、リベラル・デモクラシーの政治制度には不可避的にナショナルな文化が反映するとする「リベラル・ナショナリズム」の潮流が生まれることとなった。W.キムリッカやD.ミラーらを引きつつ、再分配政策は共通のアイデンティティ・連帯意識を必要とするが、それは現在ナショナリティの他にない、また共通の母語が民主的意思決定には必要であるなど、種々の論点が提示されているという経緯が概観されている。
そして、規範的に言えば、「リベラルな政治制度は、『ナショナルな自決(national self-determination)』の原理の自他への平等な適用を軸に、文化的公正さの保障を目指すと捉えるべき」(74)であると述べられる。
またミラーによる「他者」の三区分を引きながら、1)ナショナリティを共有しない、2)上位レベルでナショナリティを共有するが下位のレベルで別個のアイデンティティをもっている、3)ナショナリティを共有しているがエスニシティやジェンダーなど個別の点で異なる、というそれぞれにおいて適用される規範は異なると述べられる。その上でたとえば、ネイション内の少数者には政治的・表現の自由を保障し民主的審議を充実させるべきである。移民問題に関しては、ナショナル文化のコントロール不能なほどの急増は望ましくないと考えられるべきだし、受入国の民主的意志も尊重されるべきである。しかしその反面、送り出し国で移民にならざるを得ない人がなるべく生じないような援助も同時に要請される。……等々の「規範」が、論理的に導き出されるとしている。
ここでは評者の関心に沿ったものをピックアップさせて頂いたが、他にメディア論、憲法学、日本史、また多文化主義など、多様な専門の著者がナショナリズムを多角的に分析している。

前回も述べたが、私の関心のある日韓中の間で、ナショナリズムという現象に関する論調には目の眩むような落差がある。旧宗主国―旧植民地でありながら、隣国に位置する旧交戦国であり、巨額の経済援助をもって公的な「戦争責任」が解決したとされた後、かつての被援助国も経済成長に成功し、現在では外交的にも経済的にも対等の立場とプレゼンスを持っている。日本の一部では「中韓に追い越される」という妙な焦りが蔓延してすらいる。そして戦後/建国後、人的移動と、情報の直接交流が極めて限られた規模でしか存在せず、現在でも経済的・政治的結びつきにはアメリカというハブが重要視されている。
北朝鮮という難しい問題を横に置くとしてもなお、こうした関係は、なかなか他の地域には存在しない、かなり特殊なものであると思う。とりわけ、「かつての植民地主義」がこれだけ問題となりながら、同時に現在では完全に対等な相互関係を前提としなければならないという点をどう解釈するかという難題が存在する。
私自身は、「脱植民地」という問題系(対米認識においては日本にも限定的に当てはまる)のみに依拠してナショナリズムを考えることは、少なくとも東北アジアに関しては、もうできないのではないかと思わざるを得ない。ではどうするか、と考えた時、どこかで「規範」という問題を再考せざるを得ないのではないかと考えている。本書は日本のみに主な焦点を当てて書かれているが、この地域のナショナリズムを串刺しにして考える際にも、大いに参考になるだろう。本書の論者たちは共通して、D.ミラー、Y.タミール、W.キムリッカの議論に大きく依拠しつつ論を立てているので、本書でその概要を知りつつ、原著者たちの著作(それぞれ邦訳が出ている)に進まれるのも良いと思う。

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