2012年02月03日

『「統治(ガバナンス)」を創造する――新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』西田亮介・塚越健司【編著】(春秋社)

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「現実的で漸進的な改革のために」

TIME誌の選んだ2011年のパーソン・オブ・ザ・イヤーは、匿名の「抗議者たち」だった。中東のジャスミン革命に始まり、ヨーロッパ金融危機に際し頻発したデモ、アメリカでのウォール街占拠デモなど、確かにインターネット、特にSNSを介した社会運動が盛り上がりを見せた一年だった。

またたとえば中国でも、高速鉄道事故などを踏まえ、マイクロブログに主流の移行したネット世論は、報道規制の枠を飛び越えた活発な活動を行っている。
韓国では、従来から現政権に批判的だったネット新聞の副編集長と、大統領の汚職を追及してきた野党国会議員が主催する「ナッコムス」というネットラジオが、政治に関心のある若者たちに爆発的な人気を博している。
2011年ソウル市長選挙では、突如としてアン・チョルス(ソウル大教授で著名なIT起業家出身)が有力候補と目されるようになった(結局は不出馬)。いまだ政治家へ転向するか否かを明確にしていない段階で、今年末の大統領選挙でも一部調査で第一位となる支持を獲得するようになった。その背景にも、この「ナッコムス」に象徴される、ネット世論の盛り上がりがある。

1980年にアルビン・トフラーは、情報技術の進展が、報道・メディア、政党政治、日常的な消費や労働に至るまで、「官僚制」の中の、人種・性別・階級などの固定的ヒエラルキーに個人が囚われた世界から、個人の解放、いわば「民主化」が進むと論じていた(『第三の波』)。
現在生じている事態は、トフラーが数十年前に、混迷の中で人類の進むべき道を理想像として描いたことが、インターネットを土台として、実現しつつある状態である。
するとむろん、現実には手放しで礼賛できない副作用も、いろいろ見えてくることとなる。

中東のジャスミン革命は、善悪の問題以前に、おそらく元々避けることのできなかった「民主化」の到来としてあった。しかしたとえば、ヨーロッパ各地で爆発する反EU感情に、政治の側が接近していくことは、果たして正しいことなのだろうか。

韓国の事例で言えば、アン・チョルス氏の人気は、現在の李明博政権が、グローバル化す財閥企業のみを優遇し、一般国民の生活を考えていない、その割を若年層が食っている、という認識を基底としている。
加えて李明博政権は、その強権的な政治手法から、自分たちに対する批判をマスコミに載せることを許可せず、言論統制(「言論掌握」)を進めていると広く思われている。
これらの不満は、故なきことではない。問題なのは、現在の野党である左派政党も信頼を失っており、代替案が存在しないという閉塞感へつながっていることだ。するとこれらの不信や不満は、政党政治・マスコミ・財閥中心の経済体制そのものなど、全方位的な「現体制の否定」へつながってしまう。それが「政治的アマチュアリズム」への希求をもたらし、ある特定人物への突発的人気集中が国政そのものを動かしかねないという状況は、必ずしも手放しで礼賛できるものではないように思う。

こうした現行の政治システムやマスメディアに対する猛烈な不満感・不信感は、日本では原発事故に際した放射性物質の拡大について広く見られる。しかしこれは決して日本独自の問題ではなく、世界中で多かれ少なかれ生じている現象である。
格差拡大や若年層の相対的剥奪感なども背景とした、こうしたグローバルな現象は、類似した構造を取りつつ、それぞれの国や地域独自の歴史的文脈に影響を受ける形で、当該の社会の中で生起していくのだろう。

本書は、こうした現代的な問題を「統治の危機」と捉え、若い世代を中心とした研究者が集まって考察を試みたものである。各章の内容を簡単に要約すれば、以下のようになる。

序章では編者でもある西田亮介が、東日本大震災によって露呈した最大の問題を「従来型の日本的システムの脆さと柔軟性の欠如による機能不全」と位置付け、その具体例を考察すると同時に、すでにそれとまったく異なる新しい回路から、ソーシャル・ビジネスなど新しい動きも出てきていることを示す。

第一章では、政治学者の谷本晴樹が、アメリカを中心とした政府の情報公開政策=オープンガバメントの動向を紹介するとともに、公職選挙法によりネット選挙活動が原則禁止されている日本においても、各種のSNSでの議論、また文科省の推進する「熟議カケアイ」などの試みにより、「eデモクラシー」が進展している様子を報告している。

第二章では、編者の一人である政治社会学者の塚越健司が、ウィキリークスおよび周辺のリークサイトの過去と現在を概観した上で、その存在が前提となった現代社会はいわば「リーク社会」と呼ぶべきものであり、そこでは「何が正しいのか」を決める根拠そのもの(正統性)が常に問い直されることを、フーコーの理論を用いながら指摘している。

第三章では、思想史家の淵田仁が、ルソーから出発しつつ、西洋哲学の伝統では「主体的な意志の表明」とされてきた「政治」概念が、メディア環境の変化などの中で、現在では「日常と連続的に繋がる」「多種多様な人間の情報源を無限のリソースとして活かす」こととして再定義を迫られているのではないかと論じる。

第四章では、経済思想史家の吉野裕介が、政府の極小化をとなえるハイエクの自由主義哲学と、ティム・オライリーの提唱する「ガバメント2.0」(政府の役割は市民同士のサービス・情報の交換の「プラットフォーム」を作ることであるとする)の理念とを、共通点と差異を踏まえて比較考察している。

第五章では西田亮介が、SNSなどによる「弱い繋がり」の活性化が、必ずしも具体的な目的意識を持たない人々をひとつの社会参加へと結集する「実感の連鎖」をもたらし得ると論じ、この観点から東日本大震災に際して発生した各種の社会貢献活動や「タイガーマスク現象」を分析している。

第六章では、ベンチャー・NPO支援の現場に携わる藤沢烈が、日本でも政府がすでに各種のオープンガバメント政策を推進していること、しかしそれではすくい取れない領域でNPOなどの主催するサービスが活躍していることを報告している。

第七章では、クリエイティブ・コモンズ・ジャパンのメンバーである生貝直人が、オープン・ガバメントの進展が必然的に「政府刊行物の著作権」という問題を喚起することを指摘し、米欧ではすでに各種の議論が進んでいること、またオーストラリアやニュージーランドではクリエイティヴ・コモンズ・ライセンスが採用されていることが報告されている。

第八章では、ライターのイケダハヤトが、オープンガバメントが可能にする各種のソリューションは、新たなビジネスチャンスでもあることを示すと同時に、それを具体化しようとする際に注意すべき点を指摘している。

第九章では、文芸・音楽評論家の円堂都司昭が、『1984年』や『すばらしい新世界』といった古典から、近年の日本文学に至るまで、フィクションの中に現れた監視社会というディストピアの系譜を分析し、その歴史的変化を描き出している。

論集ということもあり、個別の議論には、もっと深める余地のあるものが多いかもしれない。しかし本書は、若い世代の論者たちが困難な現代的課題に取り組んだ、意欲的な論集であり、多少の粗削りさはむしろ魅力であるとも言える。
とりわけ、諸外国でのオープンガバメントの取り組みや、「Gov 2.0」などそれに関連する思想的動向、さらに現在日本でも進んでいる取り組みとその問題点などについて、入門的な知識を提供してくれる。広く「情報社会」に関心のある読者には、ぜひ手に取って頂きたい一冊である。

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