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2007年08月23日

『日本人はなぜ英語ができないか』鈴木孝夫(岩波新書)

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この本のタイトルを見て、興味を惹かれると共に、すぐに疑問が心に宿った。「日本人は英語ができない」という前提自体、事実に反するのではないか。そう思ったからである。私は日本語圏で育ち、その後40年近くを英語圏で暮らしたので、英語の習得には関心を持ち続けている。そんな興味から、国際会議や商談でのコミュニケーションには、ひときわ耳をそばだててきた。そんな場での観察から総合すると、近年の「日本人の英語」には遜色があるとは思えない。とりわけ、国際取引の現場に携わるビジネスマンの英語は、相当な高水準になってきている。「日本人は英語ができない」というのは、現実を反映しない通説ではないかと思う。

その点を留保するとしても、この本には日本での英語教育についての知恵が詰まっている。長年、言語学者として、言葉の現場に携わってきた人らしい建設的な提言が多い。主張の骨子を貫いているのは、これまでのような読解中心、英文解釈志向の英語プログラムではなく、表現・発信の道具としての英語教育が展開されるべきだという点にある。具体例はいくつも挙げられている。自らの日常生活で体験する身近な事物や感情の英語化に力点を置くとよい。そのためには、外国の雑誌や新聞を読むより、日本の英字新聞の方が役に立つ。表現することを意識しながら、英文を読むようにする。英語は必須科目ではなく、やりたい人だけが学ぶ選択科目にして、そうした選択をした人には、相当の努力を強いる。大学の英語教育は、日本の事柄を英語で表現することを中心にして進められるべきだ――など、傾聴に値する実践案が提示されている。

筆者の考えの根底にあるのは、日本は欧米文物の需要に傾いた文化的植民地時代から脱出し、対等に交流するための手段として英語を学べばいいというものだ。だから、英語学習のために、身も心もアメリカ人になりきる必要など毛頭ない。英語も「アメリカ・スタンダード」という思想から抜け出すべきだという。同感だ。

このことを、筆者は英語の三類型を示して説明する。英語を母語とする人たちが使う「土着英語」(英米豪加など)、母語ではないが国内での常用性が高い「民族英語」(印比、ナイジェリア、シンガポールなど)、国際コミュニケーションのための補助言語として使われる「国際英語」の三種類の英語という分類である。日本の学習者たちの多くは第三の「国際英語」の習得を目指せばよいというものだ。この主張にも説得力がある。

仕事柄、私は日本についての英文の著書や編著を、いくつも書いてきた。非力ながら、英語の出版社を設立して、そのためにかなりの時間を割いている。目標としているのは、日本語圏の社会科学者の業績を英文で出版することだ。日本の研究者の数多くの優れた研究は、日本国内で消費されるだけで、海外で広く読まれるということは少ない。外国での研究は、すぐに日本に翻訳されて入って来ているのだから、明らかに輸入超過だ。この点は、まさに筆者の言う通りだ。日本語の著書を英語に訳し、世界に流通させるという仕事が、これまで随分おろそかにされてきたのではないかと思う。その隙間を埋めるために、私自身、あれこれ百冊以上の編集に関わってきた。「発信」努力に、賛成でないはずがない。

問題は「発信」の中身である。私は筆者の主張の底流にある二つの論点に危惧を持つ。ひとつは、発信されるべきとされる「日本文化」が一枚岩の単一で均質なものとして提示されているかに見える点である。日本社会の内部には多種多様な文化が存在し、それらは相互に矛盾したりしている。そのことを無視して、ステレオタイプに基づいた「日本文化」の発信は危険だと思う。もうひとつは、陰に陽に、日本国の世界における地位の向上が「英語による発信」の目標とされていることだ。日本の中には望ましい現象も望ましくない現象もある。「日本の優れた言語文化情報」だけでなく、日本でうまくいかなかった事柄や、海外で余り知られたくない現実もどんどん発信すればいい。非日本語圏の人たちは「日本の失敗」からも、多くを学ぶことができるからである。

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