« 経済/ビジネス | メイン | 言語/語学 »

2010年01月31日

『だまされる視覚 --- 錯視の楽しみ方』北岡明佳(化学同人)

だまされる視覚 →bookwebで購入

 17世紀のオランダを代表する画家レンブラントは、その作品の中で光を効果的に表現したことでも有名である。たとえば、彼の作品「愚かな金持ちの譬え」では、薄暗い部屋の中央に置かれたろうそくの光が周りを照らす様子がありありと描かれており、キャンバスの裏側に電球でも仕込んであるのではないかと疑いたくなるほどまぶしく感じる。この驚くべき表現技法から、レンブラントは、「光の画家」、「光と影の魔術師」などとも呼ばれている。この種の絵を見ると、自分でもこんなまぶしさを描いてみたいなと思うのは私だけではないであろう。

 どうやったら、まぶしく光るものを絵の中で描くことができるか。私のこの長年の疑問に、あっけないほどさらっと答を教えてくれたのがこの本である。グラディエーションを使ってマッハの帯と呼ばれる錯視図形を作ればよい、というのがその答えである。さらに、「輝いて見えるからといって、明るく見えているわけではない」という説明を読むと、キャンバスの裏側に電球を仕込まなくてもいいんだと納得できる。

 著者の立命館大学心理学専攻北岡明佳氏は、今をときめく錯視の権威で、そのホームページは全世界から膨大な数のアクセスを得ていることでも有名である。この本は、その著者が、錯視の面白さ・不思議さを、ベールに包まれた不可解なものではなくて、身近にあって誰にでも創作できるものという視点で紹介したものである。自らを錯視デザイナーとよび、自分が創作した錯視図形をたくさん紹介するだけでなくて、その作り方も、惜しげもなく披露してくれている。パソコンにお絵かきソフトを載せれば、だれでもその人のオリジナルな錯視図形を描けますよと、その描き方を手ほどきしている。だから、錯視デザインの指南書でもある。

 作品につけたネーミングも楽しい。単に四角と丸が組み合わされているだけなのに「忍者」、単に正方形が四つあるだけなのに、錯視に関係ない蛸足のようなものを書き加えて「火星人」、同じような乗りで「カメの養殖」、「冬将軍」、「悟りの窓」、「神経細胞の発火」、「だんご30兄弟」など。これだけ自信満々に並べ立てられると、あきれるのを通り過ぎて、すがすがしい。

 読んで楽しいだけではなくて、役に立つ錯視図形創作技法が詰まっている。いったん手にしたら、ずっと手元においておきたい、そして必要なときに読み直して利用したい、と思う本である。だから、きっと古本屋にはあまり出回らないであろう。

2009年04月19日

『奇跡のリンゴ』 石川拓治(幻冬舎)

奇跡のリンゴ →bookwebで購入

 よく売れている本だと聞いて読んでみたのだが、うわさどおりにすごい本であった。青森県津軽平野のリンゴ農家の木村秋則さんという方が、無農薬農業というものがあることを偶然に知って、自分もそれをリンゴ栽培でやってみようと思い立ち、7年間の壮絶な努力の結果、その夢を実現した物語である。
 
 現代のリンゴ栽培の姿は、農薬をふんだんに使って害虫による被害を避けながら、品種改良をほどこし、肥料もたっぷり与えて、生産性を上げるための努力を積み重ねて到達したものである。その結果、確かに同じ面積のリンゴ畑で、昔より格段に効率よくリンゴを生産できるようになった。が、その反面、リンゴの木自体は、農薬と肥料に守られた過保護な環境でしか実を結ばないひ弱なものに変わっていった。

 そのような状態で、農薬の使用を突然中止すれば、ひ弱な木は自力では害虫から身を守ることはできず、あっという間に葉が虫に食われて、果実はおろか花すら咲かない木に変わってしまう。農薬なしでリンゴの木を守るためには、害虫が嫌う何かを見つけて散布するか、害虫を手でつまんで取り除くかしかなかろう。木村さんは、何年もこれをやった。酢が虫除けに効くと聞けばいろいろなタイミング、いろいろな濃度で散布してみるし、泥水が効くと聞けばそれでやってみる。また油が効くと聞けば油を木の幹に塗ってみる。でも効かない。虫を指でつまんで取り除く作業も、800本もあるリンゴの木にはほとんど無力である。

 でも、それしかやってみることはなく、リンゴが1個も収穫できない年が何年も続いた。生活を支えるために、冬季の出稼ぎや、夜のアルバイトもやった。変人扱いされるだけでなく、周りのリンゴ畑からは、発生した害虫や木の病気が移ってくると嫌われ、木村さんは孤立していった。

 万策が尽き、首をくくろうと夜の山へ深く分け入ったところで、人手の加わっていない自然林のたくましさに気づく。そして、その秘密が土にあることに思い至る。そこで、リンゴ畑の土を山の土のようにしようと思いつく。草は刈らない。地中の窒素を増やす働きをする芋を植える。その他の野菜も一緒に植える。これによって、リンゴの木は少しずつよみがえる。そして、ついには実をつける力を取り戻す。

 ここから先は、下手な要約より、直接この本を読んでもらうのがよかろう。

 この本の言葉を借りると、「リンゴの木は、リンゴという果実を生産する機械ではない。リンゴの木もまた、この世に生を受けたひとつの命なのだ。」 

 このリンゴの木を、自然から切り離し、農薬と肥料漬けにした現代栽培法は、欲望によって肥大化した文明の一面であり、木村さんの闘いは、この人間の欲望から、リンゴの木を救い出し、元の姿に戻す闘いであった。そして、この木になったリンゴはとてもおいしいそうである。よく売れている本だから、すでに書評も多いだろうが、この読後の感激を忘れたくなくて、これを書かずにはいられなかった。

2008年09月03日

『科学者として生き残る方法』フェデリコ・ロージ、テューダー・ジョンストン(著)、高橋さきの(訳)(日経BP社)

科学者として生き残る方法 →bookwebで購入

 小学校・中学校・高校の先生になるためには、それなりの教育を受け実習もこなして、教職免許を取らなければならない。そのような関門があることは、煩わしいかもしれないが、先生になるために何をすればよいかが明確で、目標に向かって進みやすい。

 一方、大学の先生になるためには、そのような国家試験などの免許は必要なく、したがって教え方の訓練など受ける機会はほとんどない。代わりに、研究者として一人前であることが条件となるが、これまた、何をどうすれば一人前になれるかもはっきりしていない。それぞれの研究者は、自分の周りの先輩を手本としながら、ローカルな情報に基づいて、自分なりの工夫を積み重ねていかなければならない。特に若いうちは、科学者の世界の全体像など見渡す機会がないまま、自分が選んだ方向に向かって進むしかなく、あとから振り返ると、しなくてもよい無駄な努力もたくさんしていたと気づいたりする。

 科学者・研究者がどう生きたらいいかが難しいところは、身分はサラリーマン風なのに、仕事の質は自由業に近いというアンバランスにあるのではないだろうか。サラリーマンなら、組織の中で何が期待されていて何をしたらいいのかがある程度はっきりしているであろう。一方、タレントなどの自由業なら、自分のやるべきことは自分で見つけなければならないという覚悟はすでにできてるはずで、周りとの関係はマネージャーという専門家に助けられながら築いていくのであろう。

 ところが、科学者・研究者は、組織の中での役割がはっきりしているわけではなく、かといって、マネージャーが身の回りの世話をしてくれるわけでもない。自分で、自分のマネージャー役もこなしながら生きていかなければならないという一人二役が求められる。

 こんな現状に身を置く科学者・研究者の卵にとって、本書は、一つの冷静な現状分析のきっかけと、自分自身のマネージャーになる方法を与えてくれる。

 指導教員の選び方、実験主体の道へ進むか理論主体の道へ進むかの選択などから始まって、研究予算の獲得方法、研究成果の発表方法、学会への参加の意義と方法、さらには、データねつ造や論文盗用などのモラルの問題までカバーしながら、二人の著者が、時には共通の意見を、時には相反するそれぞれの意見を、隠さず述べている。また、学生や、ポスドク研究員から始まって、ときには論文投稿者、会議の参加者、研究助成の応募者などとして振る舞いながら、次第に、論文の査読者、人事の審査委員、研究助成の選考委員、論文誌の編集委員などの仕事も含まれるようになっていくという科者の生態も紹介している。さらに、科学研究は一種のゲームであり、その中でプレーするためには資金としての研究費が重要な役割を持ち、したがって、研究費の獲得努力を馬鹿にしてはいけないなど、現実的な助言がたくさん含まれている。

 科学者や研究者という職業にあこがれて、この道に入ったばかりの人や、これから入ろうとしている人にとって、あこがれの裏に厳然としてある現実の姿をいずれは知らなければならない。本書は、それを教えてくれるものである。どうせ知らなければならないことなら、早めに知った方がよい。そんな需要にこの本は答えてくれるであろう。

2007年02月01日

『塵劫記』勝見英一郎・校注(寛永11年・小型4巻本)
~江戸初期和算選書<第1巻>に収録~(研成社)

塵劫記(寛永11年)
→寛永11年・小型4巻本 (「江戸初期和算選書」に収録) を購入

塵劫記(寛永4年初版)
→寛永4年初版 を購入


江戸時代の数学書として有名なこの本を、最近手に取る機会があった。私の目的は、「もしもこの世に数式がなかったら、どれほど不便なことであろう」という議論を展開するための素材を集めるためであった。

 この本は、日常に現れる計算問題とその解き方を解説したもので、日本の数学の発展の礎となったと評価されている。江戸時代であるから、数式などという便利なものはなく、計算をすべて普通の文章で書かなければならないわけで、さぞや読みにくいだろうと予想して開いてみたわけである。

 ところが、江戸時代の文語で書かれているという障壁まで加わっているはずなのに、予想に反して驚くほど読みやすい。しかも、易しくておもしろい。

 たとえば、整然と三角形の山に積み上げられた米俵の数を、私たちの知っている言葉で言えば三角形の面積の計算法に相当するやり方で、一番下の1列の俵の数と高さ方向の俵の段数から数える方法が述べてあったり、金の屏風や壁を作るために、そこに貼るための小正方形の金箔が何枚いるかという例で、面積の計算法を考えたりしている。また、いろいろな形の容器の容積の大きさを比べることによって、体積の計算法を考えたり、丸太から柱材をとるために丸太の直径と柱の幅の大きさの関係を論じることによって平方根の計算を示したりしている。また、昔の大工さんが持っていた曲尺では、表に長さがメモってあり、それで丸太の直径を測った後、裏返してみるとそこには、その値を2の平方で割った値(すなわち、その丸太からとれる柱材の幅)がメモってあることなども、この本で初めて知った。

 そういえば、若い頃英会話の勉強をしていたとき、日本語ではなくて英語で考えることが大切だと言われて、それならまず、買い物のときのお金の暗算を英語でできるようになりたいと思い、米国人の知り合いに英語の九九を教えてほしいと聞いたところ、そんな歌はないと言われて驚いたことがある。アメリカ人は、九九のようなリズムのある音で覚えるのではなくて、単純に理詰めでかけ算を覚えるらしい。一方、日本人には九九という便利な歌があって、一桁同士のかけ算が簡単に暗記できてありがたい。この九九が、実はこの本にも載っており、江戸時代にはすでにあったことがわかる。

 さらに、この本には、わり算の九九に相当するものも載っている。わり算の九九の最初は、「二一天作の五」で、これは、2で1を割ったときのそろばんの玉の動かし方を表している。「天作の五」とは、そろばんの上側(天)に五を作ると言う意味である。

 また話は変わるが、韓国には、日本の九九に相当するかけ算の歌が、20掛ける20まであるそうだ。これを韓国の子供は皆覚えるという。韓国の工業の追い上げの秘密は、こんなところにもあるのかもしれない。


→寛永11年・小型4巻本 (江戸初期和算選書<第1巻>に収録)
→寛永4年・初版


2006年09月01日

『無限と連続-現代数学の展望』遠山啓(岩波新書)

無限と連続-現代数学の展望 →bookwebで購入

 名著として定評のあるこの古い本を、最近読みなおす機会があった。学生時代に読んで、数学へのあこがれをかき立てられた本であったが、今読みなおしても、なお感動できることにあらためて驚かされた。実は、ちょっと調べたいことがあって、確認のためにぱらぱらと眺めるだけのつもりだったのだが、読み出したらやめられなくなって一気に最後まで読んでしまったのである。

 この本では、数学の中の基本的な(しかし奥深い)話題を四つ選んで、とてもやさしく、かつ丁寧に解説してある。一つ目は無限集合の大きさを測る話、二つ目は群などの抽象代数の考え方、三つ目はトポロジー、四つ目は変換と幾何学の話である。式はほとんどなく、どの話題も身近なところから説き起こして、歴史的背景、携わった数学者の立場や信念などにも立ち入りながら、いつの間にか読者を引き込んでしまう。具体的なイメージが持ちやすい例や、考え方を端的に理解できるたとえなどもたくさんちりばめてある。

 たとえば、無限集合の大きさを比較する話題では、ふたつの集合の間に1対1対応がとれるときに、それらが同じ大きさの無限大であるとみなすという定義から出発して、全体がその一部と同じ大きさであるなど、有限のものを数えているときには起こりえない不思議な世界へ連れて行ってくれる。と同時に、のような無限という禁断の世界を開拓した数学者カントールが、その後心の病に冒されたことなども紹介し、数学が先人の血のにじむような努力と犠牲によって作り上げられてきたものだという厳粛な歴史も教えてくれる。

 また、トポロジー(この本では「トポロギー」と表記されている)の話題では、距離の概念から出発して、閉集合に到達した後、今度は、閉集合から出発し直して、より高い位相空間という地点に登る発展の道を示すと同時に、この道を「推理のスイッチバック」と呼んで、これが、数学理論を作る上での常套手段であることなども紹介している。また、「同じ集合に対しても、閉集合の指定が多ければ多いほど位相は弱くなる」などの解説は、通常の教科書で勉強していたのではなかなか悟ることのできない
考え方の勘所とでも言うべきものを、あっけないぐらいにさりげなく、そして惜しげもなく教えてくれる。

 と、いろいろ紹介しようと試みながら、私なんかの下手な解説では、この本のすばらしさはとても表せないという非力を感じざるを得ない。話は、ギリシャ時代へ飛んだり、ルネッサンス時代へ飛んだりと、広い知識がおしゃれな織物のように組み合わされるが、決して博識の押しつけではなくて、優しさにあふれた本である。


→bookwebで購入