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2013年08月24日

『富士山にのぼる』石川直樹(教育画劇)

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「彼の後について、富士に登ろう」

 石川直樹といえば、いまや押しも押されもせぬ日本の代表的冒険家のひとり。そして彼には、他の冒険家の追随を許さない点が、少なくとも三つある。まず彼はすぐれた写真家でもある。ついで、文章が書ける、しかもきわめてよく。そして山に登るのみならず、海を漕ぎ、空を飛ぶ(少なくとも飛んだ、熱気球で)。比類ない遍在ぶり。

 その冒険家としてのキャリアの出発点にあったのがPole to Pole 2000という、国際的な若者チームによる人力だけの北極点から南極点までの旅だったことが象徴しているように、地球上のあらゆる緯度、経度、高度を体験していることにかけては、ちょっと人類史上でも稀な存在だといっていいだろう。いまも、旅をくりかえしている。東京にいるのが珍しいくらいだ。しかも、世界のどこに行くにも決まったバックパックひとつで、隣町に出かけるのと変わらない。その身軽さは、あまりに日常的であるがゆえに、かえってひどい衝撃を感じさせる。こんなやつは見たことがない、と誰もが驚く。爽快な驚きだ。

 1977年生まれ。今年で36歳になった。その石川直樹が2009年に発表した初の絵本(写真絵本)がこれだ。19歳のときに初めて登ったという富士山をめぐり、彼自身が撮影した写真と、気持ちのいい、気取りのない文章でできている。子供むけの絵本だとバカにしてはいけません。富士山が世界遺産に登録された今年、改めてこの特異な山に目を向けるには、いい手がかりになる。そして富士が私たちにとって持つ意味は、受け手の年齢とはまったく無関係に、おなじだ。つまり、それはこの列島の最高峰であり、高度による清浄な世界の出現を、この上なくよく体験させてくれる場なのだ。

 「みんながしっている富士山。とおくからなんども見ていた富士山。/でも、そこにのぼれば、かならず、新しい世界にであうことができる。/見なれた姿の中にしらないことがたくさんあることに、/ぼくは気がついた。」(ルビは省略)

 そういって、19歳の冬につきあいが始まったこの美しい山について、冒険家は語りはじめる。雪原を行く。雪を溶かして料理する。緑の森を見下ろす。一面の星空を見上げる。赤黒い溶岩の肌をひたすら歩き、ついには頂上に到達する。自分の足で。その感動は、そこにいたる認識の冒険は、永遠に新しい。

 その後の石川は2001年と2011年にエベレスト=チョモランマ(8848メートル)に登頂し、2012年にはマナスル(8163メートル)、2013年にはローツェ(8516メートル)への登頂を成功させた。このうち去年と今年の遠征については、つい先日、原宿で写真と動画の個展が開催されたばかりだ。記録として記せばほんの数行だが、そこにつぎこまれた努力の総計は、思えば気が遠くなる。彼は歩いている、自分の足で。消費された熱量を考えても、それは常人の数回分の転生に等しいだろう。

 結論。この絵本は勇気を与える。総ルビなので、小学校1年生にだって読めるはずだ。そして歩いてゆくことを誘う。登ってゆくことを誘う。ひとりで旅することを誘う。そこにはいかなる甘えもつけいる余地もなく、ただ潔い独立独歩の生き方への招待だけが残っている。この人を見よ。こんな人がいるのだということだけでも、ごく幼い、リテラシーのはじまりにいる子供たちに知っておいてほしいと思う。

 ぼくは幸運なことに、2011年9月、石川直樹の案内ではじめて富士山に登ることができた。すばらしい体験だった。8848メートルの世界を体験している石川くんにとって、3776メートルなどなんでもないはず。でも彼は小股に、踏みしめるように、そして登山のしろうとであるぼくらのことを気遣うように、頂上への酸化鉄の色をした道をゆっくりと進んでくれた。

 驚きがやってきたのは、すでに見かけ上の頂上エリアに達してから。測候所跡があるほんとうの最高地点までの最後のスロープ。息を切らし重い足をひきずるぼくらを尻目に、石川くんはいきなり駆け出して坂道を一気に上がり、すぐそこなのにはるかな隔たりを感じさせるそこで、涼しい顔をしてあたりを見渡しているのだ。体格にもたたずまいにもまるで威圧的なところのないごく普通の青年に見える彼が、そのときばかりは異星人、この地球に一時滞在するスーパーマンのように見えた。

 この人を見よ。つねに新しいプロジェクトに駆り立てられるようにして、石川直樹は動いてゆく、渡ってゆく。だが山と山の旅のあいだには、極地の村やポリネシアの島への訪問があり、東日本大震災直後の三陸海岸部への旅もあった。他の誰にもありえないかたちで、土地と土地が彼の中でむすびつき、この世界に対する、関する、認識が更新されてゆく。そして彼は写真を撮る。それもまた、この世界を少しでもよく理解したいと願う彼の、端的な意志の現れだったろう。

 石川直樹は、われわれみんなの先達だ。あれだけの極端な旅の果てに、写真と映像の積み重ねの果てに、地球社会のための新しい意識が、初めて生まれてくるのかもしれない。その声に耳を傾けよう。彼が集めてくるイメージに、この世の、この星の、あり方を学ぶことにしよう。


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2009年05月06日

『Her Mother’s Face』Roddy Doyle(Scholastic)

Her Mother’s Face →bookwebで購入

「少女が反復する顔、言葉」

 アイルランドが大好きだがアイルランドに行ったことがないのでSiobhánという女の子の名前をどう発音すればいいのかわからなかった。わからないままに読みはじめ、読み終えて、ぐっと胸を突かれた。なんともいえない味わいのある絵本だ。

 物語の作者はロディ・ドイル。アラン・パーカー監督による映画『ザ・コミットメンツ』の原作者として覚えている人が多いだろう。あの映画はよかった、ばかみたいにおもしろかった。少しでもアマチュア・バンド経験のある人なら、無根拠な高揚やばかげた作戦会議やじつにどうでもいい喧嘩を知っている人なら、大笑いしながらのめりこむことができる話だった。それでぼくもドイルの名を記憶し、しかも自分と同い年(1958年生まれ)だということで親近感をもち、ブッカー賞をとった『パディ・クラーク、ハハハ』(すばらしいタイトル)はすぐに買ったけれど、それからなかなか読む機会がないままに(小説に関してぼくにはよくある話)今日まで過ごしてしまった。十数年はこうしてみると早い。どうやらロディ・ドイルの主だった作品はすでに日本語に訳されているようで、『パディ・クラーク』にしても1994年にキネマ旬報社から実川元子訳が出版されていた。読まない小説について何もいえるはずはないが、むせるほど濃厚なダブリンの空気がそこにはあふれているに決まっている。きっと大好きになると思う。

 さて、『お母さんの顔』と題された、この絵本。ぜひ人に勧めてみたいが、どう紹介すればいいだろう。物語を話すわけにはいかない、それではすべてを台無しにしてしまう。それなら絵についてだけ語ってみようか。絵こそどんなに言葉を費やして語るまでもなく、実物を見せればそれ以上には何もいうことがない対象ではあるが、それでも。絵本に関してぼくがおもしろいと思っているのは、ある物語のイラストになるのはどんな画家によるどんな絵でもよかったはずなのにいったんできあがればその絵以外の絵は考えられなくなるという点だ。これは、もっとも、漫画でも映画でもおなじ。文字による語りと並行して、絵が世界をその場で次々にひらき、ページをめくるたびに後戻りのできない出会いをタ・タ・タと連続させてゆく。ほんの30ページばかりの本の、この広々とした、晴れやかな、胸を打つ空間。いま、この本にノンブル(ページの数字)がついていないことに気づいたが、絵本にはノンブルがないのがむしろ普通なのかもしれないと、ふと思い当たった。これは考えたことがなかった。

 フレヤ・ブラックウッドという人の絵によって、われわれはこの物語を記憶してゆくことになる。鉛筆画に水彩で着色しているようだ。線が残り、滲んだ水の印象が残り、水が光になり、光が記憶になる。自分で経験したわけでもない物語に読者をひきこんでゆく、魔法がはじまる。成長する少女の姿の変化もいいが、特に魅力を感じるのは植物、そして街路。鳥瞰した公園(セント・アンズ・パーク)の見開きページに、物語のすべての秘密が隠されている、というか、顕われている。ありきたりといえばありきたり、驚きは別にない。だが、この紅葉の平凡さにこそ、このお話の真実がある。そのことを意識はしないまでも読者のすべてが感じとるのは、われわれが誰でも、紅葉とは年々の反復そのものだと知っているから。生の反復が、この本の主題だ。年周期の反復だけでなく、世代の、出来事の、言葉の反復が。時を隔てた反復こそ、人の生をかたちづくり、見失いがちな意味を取り戻してくれるものなのだ。

 主人公の女の子の名前の読み方は、その後、息子に教わった。アオテアロア(ニュージーランド)の中学校で、クラスメートにこの名の子がいたそうだ。シヴォーン、「ヴォ」が上がる。アイルランド名前としてはごくありきたりな名、フランス語ならジャンヌにあたる名らしい。ニュージーランドにはアイルランド系、スコットランド系が多いので、これは普通のこと。いよいよアイルランドに行ってみたくなる。そしてダブリンに行ったら、ジョイスやベケットの足跡と並んでまずは北の郊外にあるセント・アンズ公園に行き、いずれかの樹の下に腰をおろしてみよう。そこで誰を思い出すことになるかは、もう決まっている。



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