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2014年01月31日

『ナチュラル・ナビゲーション』トリスタン・グーリー(紀伊國屋書店)

ナチュラル・ナビゲーション →紀伊國屋ウェブストアで購入

「世界とのつながりを取り戻す旅」

「旅」の感覚がわからなくなった。いまや行き先を入力するだけで手取り足取りのカーナビや、スマホのアプリが、たいていのところへは連れて行ってくれる。ナビゲーション技術の進歩にはどんなに感謝してもしすぎることはないが、ちらっと不安もよぎる。もしそうした機器を持たずに出かけてしまったら、すさまじい無力感にさらされるのではないか。

携帯端末に頼っていると、ありがたいけれども、自分自身が頼りなくなってくる。自分の体がたしかに覚えていた方向感覚が、どこかに行ってしまうような気がする。あらゆる空間が情報化されていて、ただなぞっているだけのような空しさもある。自分の体を使って何かをつかみとるという、かつての「旅」に託されていたあの感じは、どこへ行ってしまったのか。

本書『ナチュラル・ナビゲーション』は、そんな失われた感覚を取り戻すための格好のレッスンだ。著者トリスタン・グーリーは、飛行および航海で大西洋単独横断を果たした英国の名うての探検家。最新のナビゲーション技術にも通じているが、人類が本来持っていたわざ―道具に頼らず自分自身の心と体を使って道を切り開く作法―を「ナチュラル・ナビゲーション」と名づけて、その保存、普及に尽くしている。そんな彼の活動が結実した本書(原書2010年)は好評を以て迎えられ、英国ナショナル・トラストの最優秀アウトドアブック賞を受賞した。

コンパスやGPSといった文明の利器がない時代から、人類は大移動を繰り返してきた。その詳細はいまだ知られていないが、伝統社会に残る航海法や古代の神話などから、星などの自然の手がかりを十全に活用していたことは疑いない。問題は、それらの”しるし”に反応する身体を現代人の多くは失っていることだ。本書を読むと、著者自身の数多くの実践、古今の探検家からの見聞、幅広い文献渉猟の成果が散りばめられた豊かな記述に目を瞠る。太陽、月、その他の星々、海、風、水たまり、砂、木、鳥、虫、等々、自然界の諸相を経めぐるうちに、どこかに置き忘れてしまった感覚の回路が開かれるようだ。

科学することを教えてくれる本でもある。風が山を削りとった地形や木の生え方から方位を探るには、その前後の自然現象、因果の鎖への理解が必須だ。星の見え方から方位を知るにも、地球の自転と公転といった重なり合う要因を頭に入れておく必要がある。自然をよく見ること、忍耐強い「観察と推論」の繰り返しから、科学は始まる。現代の複雑精妙を極めた技術を最初から与えられると、「なぜ?」の探究をあきらめて結果だけを利用することになりがちだ。徒手空拳で自分の五感を総動員して自然と向かい合うとき、はじめて科学の原点に触れることができるのかもしれない。その上で、北極星から見て握りこぶし一つ分が緯度10度に相当するといった実践の知恵が生きてくる。

文系のインドア派にも、読みどころはたっぷりある。「神話をただのつくりごととかたづけてはいけない」「古代の人々は、現代の旅人たちよりずっと、周囲を読みとる技能に長けていたようだ」という著者は、神話や文学作品からの引用も散りばめて、自然を観察するノウハウだけでなく、その”美”や”奥深さ”の面も数多く紹介している。「極地探検の記録の多くから、われわれの五感は、さまざまなものが剥奪された状況に直面するほど、研ぎ澄まされていくらしいことがうかがえる」と言うように、ナチュラル・ナビゲーションは、「身体を使う旅であると同時に精神を駆使する旅」でもある。文系と理系といった区別を越える体験だ。

ナチュラル・ナビゲーションとは、著者にとって、単なる実用的な知識、例えば緊急時のサバイバルのためのノウハウといったものをはるかに超えた、「芸術的技法」であると言う。ただ手順にしたがって道を見つけるだけでは、機械に頼るのと同じで奥行きがない。自然界を奥深く理解すること、すなわち自分が移動しようとしているこの「世界を根源から知ること」によって、はじめて「自分の経験を深める」ことができる。「方法を駆使するよりも、その方法がなぜ使えるかを理解するほうが重要」なのだ。ナチュラル・ナビゲーションは、芸術と同様に生存に必要不可欠というものではないかもしれないが、知っておくと「周囲の世界を見る目に、ほかでは望むことができない新たな視点が加わるはず」だ。いわば「地球という豊かな図書館の魅力あふれる蔵書を繙くための鍵」なのだ。

とはいっても、ここまで自然と離れてしまった現代人はいまさらどうしたものか、と疑問を感じる向きもあるだろう。本書の中では、街のにおいや地形、人の流れに注目したナビゲーションも一節を割いて紹介されていて、興味深かった。「建築家や大工がどれほど野心的な建物を建てても、それは所詮、街の中の丘や川に添えられた脚注のようなものだ」という表現が印象的だった。このごろの論壇では、都市や建築の話(巨大モニュメントやショッピングモールをつくる話)が目立つように思うが、こうした謙虚な視点も街づくりには大切なのではないだろうか。どんなに都市化しても、五感を研ぎ澄ませれば、自然のはたらきはいたるところに感じることができる。

現代では、必要ならいつでもかんたんに現在位置や経路を”検索”できるが、人工物に覆い尽くされた環境のなかで、かえって自分がどこにいるのか、どこに向かおうとしているのか、という感覚を喪失しやすいかもしれない。「世界と宇宙の中でのわたしたちの位置は相対的」なものでしかないのだから、旅することは外界との「つながりの感覚」を取り戻すことでもある。著者は、自然を理解しようとするのは時間がかかるし、求めた効果が即得られるものでもないと注意を促しながら、ナチュラル・ナビゲーションを通じて、日常見慣れた風景がある日忽然と異なる姿をあらわす、「感覚が開けていく瞬間」へと読者を誘う。自然の世界を理解するには、部分に分けざるをえないが、「本当は、わたしたちを取り巻く世界で出会うすべてを、いっしょくたに味わうことにこそ喜びがある」。何につけ分断されがちな世界のなかで居心地の悪さを感じている人には、ぜひ本書を旅のお供としておすすめしたい。物理的な旅であっても、なくても。

※なお、同著者の第二作で古今の探検者たちの世界を案内する”The Natural Explorer”も、いずれ紀伊國屋書店出版部から邦訳が出る予定とのこと(担当編集者より)。楽しみに待たれたい。

※関連書として、方向感覚がもっと気になる人には、『イマココ―渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学』(コリン・エラード著、2010年、早川書房)、『なぜ人は地図を回すのか―方向オンチの博物誌』(村越真著、角川ソフィア文庫、2013年)をおすすめしたい。


(営業企画部 野間健司)


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2012年10月10日

『生きる技法』安冨歩(青灯社)

生きる技法 →bookwebで購入

「自己嫌悪ワールド」からの脱出」

今年話題を集めた『原発危機と「東大話法」』(明石書店、2012年1月) という本は、あの「3.11」であぶりだされた日本社会の病理を「言語」の問題として看破したのが衝撃的だった。自らの「立場」のためには、当然のように「名」を偽り、責任の主体を隠蔽し、既定の路線をロボットのように邁進するエリートたち。こんな「いつか来た道」を繰り返させているのが、彼ら自身を呪縛している「欺瞞の言語」の体系であるという慧眼。そこには、学問は意味そのものについて語ることはできないが、それを阻むものの正体になら迫ることができるという著者の深い哲学が込められている。

遅ればせながら、先頃ようやく過ぎ去った長い残暑の中、この著者、安冨歩先生(東京大学東洋文化研究所教授)の一連の著書を読み漁っていた。安冨先生の言葉は、言われるところの「東大話法」とは対極で、学問を積んだだけでなく真摯に自己や他者と向き合ってきた思考の生々しさに惹かれる。中でも、『生きる技法』という本には、自分が立っている地面がすっかり揺り動かされるような感じがあった。比較的紹介されることの少ない本なので取り上げておきたい。

(「東大話法」については、『原発危機と「東大話法」』の続編にあたる『幻影からの脱出』(明石書店、2012年7月)、また普及版でもあり実践編でもある最新著『もう「東大話法」にはだまされない』(講談社、2012年9月)も、それぞれ読み応えがあるので参照されたい。)

『生きる技法』(青灯社、2011年12月)は、この直球すぎるとも思える表題に、著者の本気を感じる。著者によると、エーリッヒ・フロムの名著『愛するということ』の原題The Art of Lovingが意識されていて、すなわち英語ならThe Art of Livingということになる。「生きる」という動詞的表現に、静止した完成形でなく求め続ける生のダイナミズムがみなぎる。本書は著者自身が長年苦しんだ結果、「誰も教えてくれなかった」から自ら見つけるしかなかった「生きる技法」の「まとめ」である。自分のために考えたとも言えるが、読者にも「かなり使える」ことが意図されている。

簡潔な「命題」とその解説がテンポよく書き連ねられた本書は、きわめて読みやすい。しかし、それぞれの「命題」はいわゆる「常識」の逆を行くものばかりである。

「【命題1】自立とは依存することだ」

ふつうは「自立」と「依存」は正反対の概念と考える。まして「自己責任」が叫ばれがちな世の中だ。著者も「自立とは依存しないことだ」と長らく信じていた。それが180度ひっくりかえる体験をした。教えられる例はあった。重度の障害を抱えながら、多くの人の世話になって一人暮らしを実現した人。お金を一切使わなくても、多くの人との信頼関係に支えられて生活できた人。もっとも、これらの人たちは一見特殊で、わがこととして考えるのはむずかしい。

実は著者自身の人生も、公私ともに順風満帆に見えて、生まれたときから目に見えない「呪縛」に囚われていた。そこから自由になるためには、なんと配偶者や両親との関係をも断ち切らねばならなかった。しかし、そこまで勇気を持って踏み出したことによって、依存することに「罪悪感と不安」を感じなくてすむような、新しい人間関係を構築することができた。

こうして著者が考えるにいたった「生きる技法」とは、机上の空論などではない。生々しい実践の積み重ねによって磨かれてきた、切れば血の出るような言葉で綴られている。きわめて簡潔ながら、自分がそれを「生きた」のでなければ、安易に「納得」できる性質のものではない。

「自立」するために「依存」しなくてはならない。とすれば、まず必要なものは「友だち」である。しかし、友だちについても、著者は「【命題2】誰とでも仲良くしてはいけない」という。それはなぜかといえば「破壊的な構え」を持つ人に近づいてしまうからである。「破壊的な構え」を持つ人は、「自分より弱い人を躊躇なく攻撃」する一方「自分より権力を持つ者に(略)躊躇なくこびへつらう」(「東大話法」の使い手でもありそうだ)。誰とでも仲良くすると、必然「破壊的な構え」を持つ人の方に吸い寄せられ、彼らの「支配―被支配」の構図に取り込まれ、あなたの資源を奪われるだけなのだ。

対照的に、「創造的な構え」を持つ人は、他人に勝手な像を押し付けず、お互いを人間として尊重しあうが、時には対立も辞さず(その結果)動的な調和をもたらす。そのような人のみが「友だち」と呼ぶに値する。(安冨先生のこれも快著である『生きるための論語』(ちくま新書、2012年4月)を読むと、「破壊的構え」を持つ人は「小人」に、「創造的な構え」を持つ人は「君子」に当てはまる。また、この本では「和」を「動的な調和」をもたらす「対立」とも読み替えているのが興味深い。)

この「創造的な構え」と「破壊的な構え」の区別をより明瞭にしてくれるのが、「自愛」と「自己愛」、「愛」と「執着」の区別である。

・創造的構え ← 愛  ← 自愛
・破壊的構え ← 執着 ← 自己愛(自己嫌悪)

ここでいう「自愛」は文字通り「自らその身を大切にすること」であり、自分を自分としてそのまま受け入れることである。自分を好きになれなければ、人を愛することもできない。逆に、「自己愛」(ナルシシズム)は「自己嫌悪」から発する。他者に押しつけられた像をあるべき姿としてしまった人は、その理想像と自分自身のギャップに耐えられない。それを埋め合わせるために自らを「偽装」して「自己愛」に浸る。その「偽装された幸福」を維持するのは絶えず不安がつきまとうから、自分にない美点を相手に求めて虚しいプライドを満足させる。これは単なる「執着」であって、「愛」とはまるで異なるものだ。自分の勝手な像を押しつけるだけで、相手の真の姿を見ようとはしないのだ。わかりやすい例として、「婚活」(人ではなく「スペック」と結婚するが如き)が挙げられている。

自分を受け入れられずに育った人は、往々にして「自己嫌悪」の裏返しとしての「幸福の偽装工作」に走ってしまう。そのような「幸福」を押しつけられて育った子どもは、そこに嘘のにおいを嗅ぎとる自分は「悪い子」だという「自己嫌悪」を抱えて生きることになる…この「自己嫌悪」は再生産され続けるのがポイントだ。思うに、この「自己嫌悪ワールド」の罠は、「東大話法」本の中で著者が厳しく告発して止まない、日本社会の閉塞状態を招いているところの「立場主義」と一連なりのものなのだ。自分をも他者をも愛せない人にとっては、人間を軽視し「立場」を死守する、誰もが自分を殺して生きる体制こそ望ましいものだからだ。

この『生きる技法』は、著者自身がいかに典型的な「自己嫌悪ワールド」の住人であったかを赤裸々に告白している、ちょっと重たい本でもある。しかし、そこからの困難な「離脱」の道のりを語る、その語り口のふっきれた晴朗さは救いだ。これこそ、著者が多くの人に「依存」することで得たのであろう「自立」の境地を示すのだろう。この本のとりあえずの結論めいた「【命題11】幸福とは手に入れるものではなく、感じるものだ」という著者の言葉は、全体を読まなければ何のことだかわからないだろう。しかし、この「感じる」ということがわかるかどうかが本書の鍵なのだ。

「人生の目的は、どんな言葉でも表現することができない」「表現できたと思うなら、それは何かを押し付けられた結果に過ぎない」という「命題」にはドキっとさせられる。著者によれば、「人生の目的」とは他の誰のものとも異なる、その人自身の「道」が行き着くところで、本来「見えない」ものなのだ。「自己嫌悪」の病にはまった人は、この「道」、著者の言い方では「自分の身体が教えてくれる進むべき、あるいは成長すべき方向」をそもそも「感じる」ことができなくなってしまう。著者自身が定量化された「目的」を次々と達成してもそこに「喜び」はなく、ただただ「ほっとする」という虚ろなエリートだった。本書は、それを乗り越えて「感じる」基体である「自分の身体」を取り戻すことの、またそれを言語化することの、不可能を可能にした稀有な記録であり、「呪縛」から解き放たれるための実践の導きとして、おすすめしたい。

※本書と密接に関連する著者らの研究プロジェクトから生まれた書籍シリーズ「叢書 魂の脱植民地化」が同じ青灯社から発刊されている。関心ある方は深尾葉子『魂の脱植民地化とは何か』をチェックされたい。


(営業企画部 野間健司)


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2012年07月09日

『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』木暮 太一(星海社新書)

僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか? →bookwebで購入

「マルクス『資本論』から考えるこれからの働き方」

 ホントに見事なタイトルである。思わず肯いてしまう人もいることだろう。

 しかし本書は、ありがちな「転職」や「独立」や、ましてや「サボリ」を勧めるような類の本ではない。マルクス『資本論』を手掛かりに、労働の本質を捉え、「僕たち」の働き方を考え直そうと試みる、だいぶ射程の長い本だ。著者は『資本論』とロバート・キヨサキの『金持ち父さん 貧乏父さん』の二冊を深く読み込んで考えた成果だといっているが、『金持ち父さん』が料理のトッピングソースだとしたら、肝心の食材でより多くの血肉になっているのは『資本論』であろう。

 著者は、例えばこんな問題を立てる。
 ・なぜ僕たちの「年収」は「窓際族」のオジサンたちよりも低いのか
 ・なぜ僕たちは「成果」を2倍上げても「給料」は2倍にならないのか
 ・なぜ僕たちの「人件費」は「発展途上国」よりも高いのか
 給与が不平等で、成果に見合っていない、という巷間よくある問題だ。

 だが、これらの疑問に対し、著者はマルクスの資本主義経済の分析を介して、企業は成果に対して報酬を支払うわけでない、と説明する。企業は労働者が生活していけるだけの社会的な「必要経費」しか支払わない。だから、二十代の独身者より、家族を抱えるオジサンたちの給料の方が高いのだし、発展途上国より生活費が掛かる日本で働く労働者の給料の方が高くなるのだ。

 企業の利益は、労働者から「剰余的価値」を引き出すことで生まれる。「剰余的価値」とはマルクスの用語で、詳しくは本書の分かりやすい解説を読んでもらいたいが、労働者が「必要以上に働いた分」である。労働者は企業や組織の中で、限界ギリギリまで働かなければならない。だから、年収300万から1千万円の仕事に転職できたとしても、楽々と左団扇で暮らせるわけではないのだ。ネズミが車輪の中を走る「ラットレース」が永遠に続く。これが「搾取」である。

 そこでマルクスは、労働者を搾取から解放するために「共産主義革命」を唱えた。一方、小粒になるが、キヨサキの『金持ち父さん 貧乏父さん』は「投資(不労所得を得ること)」の必要性を唱えた。この両者に対して、著者は大学を卒業する際、どちらも現実的ではない、と考えた。ここが著者の真骨頂だ。とっても現実的である。

 著者は十年間、企業社会で働きながらこう考えた。
 ・「自己内利益」を考える
 ・自分の「労働力の価値」を積み上げていく(資産という土台を作る)
 ・精神的な苦痛が小さい仕事を選ぶ

 売上300万で利益が100万の仕事と、売上1千万あるが利益が50万の仕事と、どちらが良い仕事であろうか。働く人にとっても同じだ。もらえる収入から「必要経費=精神的な肉体的な苦痛やストレス」を差し引いて、自分の中に残る「利益」を考えてみよう。「売上」が多いことは華やかに見えるが、それよりも内実の「利益」から捉える方が良いはずだ。

 また、短期的な損益計算だけではなく、長期的に利益を生み出す土台=資産を見ることが大事だ。働く際にも「BS思考=貸借対照表的な考え方」を採ってみよう。一年間、すり減るように働いて100万円の利益を得ても、続かなければ意味がない。毎年すり減り続けるだけだ。それより、最初は少額の利益しか得られなくても、自分の中に利益が上積みされ、資産がかたち作られていくような働き方を心掛けることが大切だ。

 業界を選ぶ場合にも、インターネット業界のような日進月歩で変化の激しい世界より、例えば建設業界のような変化が乏しいところで働いた方が、かえって資産を醸成しやすくて良いのだ、と著者は説く。良心的なアドバイスではないだろうか。

 本書でいう「僕たち」とは、著者より若い二十代・三十代前半の若者を指しているのだろうが、ひと回り違う世代の評者にとっても、本書は説得的で、十分に魅力的であった。それもそのはず、本書でいうことは、街場のオヤジたちが言わずと実践してきたことなのだ。だが、こんなことを教え諭すオヤジたちがいなくなってしまった。なぜいなくなったのか。それはまた別の問題だが、本書は街場にあった真理を、丁寧に掘り出してくれた本なのである。本とはそういうものだ。多くの人におススメしたい。

 最後に、本書は「次世代による次世代のための 武器としての教養」をうたう星海社新書の一冊になる。「旧世代」扱いされた読者には煙たい思いがするが、本当の狙いは違うだろう。この新書シリーズからは、他にも、山田玲司『資本主義卒業試験』のようなラディカルな本が出ている。『僕たちはいつまで』とはまた違った切り口で、資本主義社会での生き方を問い直す「前代未聞の哲学書」である。こちらも世代とは無関係に、併読をおススメしたい。


(カタロギングサービス部 佐藤高廣)



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