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2012年08月03日

『植物はすごい―生き残りをかけたしくみと工夫』田中 修(中公新書)

植物はすごい―生き残りをかけたしくみと工夫 →bookwebで購入

現代日本のビジネス社会は、前に進むことが良しとされ、その結果として続々と発生する矛盾や問題に直面しては、毎日毎日ソリューションの発明を強いられる社会である。私が属しているのはそういう社会である。
立ち止まって考えることさえも困難になりつつある息苦しい環境ではあるが、ビジネスの仕組みや、それを支えるシステム構成の素晴らしさに感動することは多い。完璧に合理的な仕組みが、人間の知性によって作り出されていて、運用中にエラーが起きるとすぐさま原因を究明し、きれいに修正することが出来る。 そういう社会での習慣が身についてしまっている人にとって、本書で感じ取れる「植物のすごさ」は想像以上のものであると思う。


本書から感じ取れるのは、自分の種族以外の動植物をも巻き込んだ、大きな自然の循環である。自ら動き回ることの出来ない植物は、周囲の動物や環境の力を借りて自らの種子を拡散させる仕組みを策定しなければならないが、種子を運ぶ動物の行動や環境の変化によって、運が悪ければうまく子孫を残せないので、自分以外の不確定な要素についてはエラーを許容せざるを得ない。
彼らは途方もなく長い進化の歴史の中で、多少のエラーを許容してなお生き残るための壮大な仕組みを作り出し、工夫を凝らしているのである。寛大である。

たった一部のエラーがすぐさま大問題として顕在化してしまう仕組みの中で、僅かなミスにも怯えている自分の仕事を思うと、何も言わずにそこに生えている草木の寛容さに、畏敬の念を感じずにはいられない。


本書は、多くの身近な植物について実例を挙げながら、植物がどのようにしてからだを守り、逆境に耐えて生きているのかをテーマとした、やさしい解説書であり、文面からは、著者の植物に対する尊敬の念が随所に感じられ、とても心地よい。
渋柿が甘柿になるのはどうしてか、ヒガンバナのイメージとその理由、ハイビスカスの花が鮮やかに赤いのは何故か、など、身近な疑問がストンと腑に落ちるように解説され、とても楽しい。
よく知られた植物の特性に、実は深い理由があったのだと納得するとき、思わず「すごい」と唸ってしまう。
知らなくても生活には困らない知識ではあるが、植物との共存・共生の必要性が大いに注目される昨今、我々人類は、科学的操作によって彼らからの恩恵を享受することばかり考えるのではなく、彼らの進化の歴史に思いを馳せ、苦労の末に進化を遂げてきた植物たちへの尊敬の念を忘れてはならない。
本書はそう思わせてくれる良書である。


(大阪営業部 宇田静香)


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2011年12月27日

『生命はなぜ生まれたのか―地球生物の起源の謎に迫る』高井 研(幻冬舎新書)

生命はなぜ生まれたのか―地球生物の起源の謎に迫る →bookwebで購入

 昔から恐竜や生き物が好きだった。
 与えられた図鑑や絵本の影響が大きかったのだと思うけれど、まあでも男の子としてはごくまっとうな趣味として虫捕りやトカゲ(うちの近所ではカナヘビが主流でした)に凝った。
 中学に行って友だちの範囲が広がると、天文少年たちに初めて会った。『ヤマト』や『999』の影響があったからか、生き物よりも高尚な趣味に思えた。でも道具が複雑で面倒くさそうで、結局は敬遠してしまった。

 小学校の高学年頃だったか、図鑑の後ろのほうの字ばかりのページに、近代以前の西欧世界で考えられていた生物の発生過程として、沼のほとりの石が次第に蛙に変化していく4コマ漫画みたいな図があって、すごく印象に残った。昔の人はこういう迷信が“常識”だったんだと妙に感心し納得したのだが、でもまああの頃の自分の生物誕生のイメージって結局は『妖怪人間ベム』(もちろんアニメ版)のオープニングのような、得体の知れないドロドロからいつのまにか…といった程度でしかなかったように思う。

 高校、大学、社会人と長ずるにつれて、太古の生物のことはなんとなく後回しになっていったが、高校でも大学の教養でも生物を選択したし、勤めてからも恐竜博なんかにはときどき足を運んだ。個人的な“常識”が小学校で親しんだ図鑑類と高校の生物の授業なので、その後の科学の発展による“常識”のコペルニクス的大転換には、ときどきすごい衝撃を受けた。
 なかでも衝撃度で2トップなのが、現在の生物の細胞は大昔にいろんな単細胞生物が共生した結果としてできたという説(たしか雑誌『ニュートン』で最初に読んだ)と、鳥類は恐竜の子孫であり中国辺りで近年ザクザク出てくる羽毛恐竜の化石が動かぬ証拠だというのの2つだった。特に恐竜のほうは、幼心に刻み込まれた恐竜絶滅の哀しみがずいぶん緩和され、スズメやカラスの見えかたが根底から変わった気がする。

 今回縁あって読んだ『生命はなぜ生まれたのか―地球生物の起源の謎に迫る』は、生命の起源が深海底の熱水活動にあり、その具体的なプロセスが世界中の科学者によって着実に解き明かされつつある(しかもそのトップランナーは日本人研究者=本書の著者なのだ!)ということを、素人にもわかりやすく説明してくれる啓蒙書だ。

 暗黒の深海底、特に地殻プレートが湧きあがってくる海嶺付近には熱水が噴き出すところがあって、周囲には変な生物がたくさん生息して独特の生態系を成している、というのも個人的には『ニュートン』だったかで昔出会った“常識”の大転換だった。細胞や恐竜のときのように世界観が変わるほどの衝撃はなかったにせよ、ジャイアントチューブワームの奇天烈な姿は一瞬で記憶に刻み込まれた。

 前置きばかり長くなったが、もちろん本書を読み進めるなかでも、いくつも自分の“常識”がひっくり返っていった。世界観レベルの転換としては、たとえばこんなところだ。

しかし、もはや地質学、地球化学、生物学が渾然一体になってとろとろになってしまった私は、「生命の定義? あんまり最近は気にしてないねぇ。近頃は生命を生命だけで考えたことないしねぇ。生命が生命のみで存在することはあり得ないしねぇ。生命を取り囲み、生命を含んだ環境(生命圏)の在り方やその中のエネルギーとか物質の流れがむしろ重要なんじゃないかと思うしねぇ。…」(92p)

 確かに考えてみると“生命が誕生する”ということは“生命が生命以外のものから誕生する”ということなのだ。だから生命の誕生を探るということは、岩石とか水とかガスとか宇宙線とか、およそ素人の直感では生き物そのものとは根本的に違っていそうな無機物やエネルギーが生命を創り出す、その過程を探るということにほかならない。高校の理科でいうところの、生物、地学、化学、物理の垣根なんかとっぱらわないと、そんな研究はそもそも成立しないのだ。
 先に書いた西欧中世の「石が蛙に」にも、子どもの未熟な頭でせせら笑ったよりははるかに深い含蓄がありえたのかも、などと疑ったことのなかった自分の世界観が揺らぎだす。

 ほかにも、名前だけは耳にしたことがあってその内容は皆目見当がつかなかったアストロバイオロジー(宇宙生物学)という学問の何たるかがちょこっと理解できたり、全生物進化系統樹に化学合成エネルギー代謝の種類を重ね合わせた考察になんだかとても感心したりと、私のような文系デバガメにとって、科学の進歩と最新知見の手触りが臨場感をもって味わえるワクワクの一冊なのだ。
 ところどころ、ご丁寧に「さあここからの説明は難しいよ。(97p)」などと前置きされて難しい議論や化学式も出てくるものの、適宜挿入される親切な図や、それにもまして著者のこんな口調に助けられて(乗せられて?)、なんとなーくついていけてしまうのである。

 水素と酸素が反応したと考えてみよう。ものすごい右下がりの坂になるのがわかるだろう。(※別に図があります=評者注)すごいエネルギーが余るわけだ。だから爆発するんだよ。水素と酸素を混ぜると、ボンとな。逆に右上がりになるのはエネルギー放出量が少なくてエネルギー受入量が大きいので、「おかみぃー酒がたらんぞ酒が」状態で、エネルギーが足りないわけだ(吸熱反応)。(172p)


 こんなふうにまっとうな科学啓蒙書として十二分に楽しめる本書には、ほかにもふたつばかり大きな魅力がある。

 ひとつは、“科学者列伝”とも呼ぶべき、著者がこれまでの研究者人生のなかで直接間接に知り合った世界中の一流科学者たちへの実感のこもったコメントの数々だ。

ちなみにこのカール・シュテッターは、カール・ウーズに並ぶマイ・スーパースターなのだが、シュテッターにはあまりトキメキを感じず普通に会話できるのは、多分、「彼がほんまもんの変人だから」。そう変人です。(145p)
「大島泰郎恐るべし、さすが学会でいつも女子学生に囲まれて優しく笑っているのに、男子には鋭い眼光で近寄んなビームを出す超大物は違う」と思わざるを得ない。(146p)
ウーズ、ヴェヒターショイザー、ミラー、ド・デューブと言えば、まさしく「生命の起源」論争を、ネイチャー誌上やサイエンス誌上で激しくやり合っていた巨人達であるが、直接話したのはド・デューブだけとは。しかも、その時は「ノーベル賞受賞者かなんか知らんが、もうちっとましな話をしろや」と超ナマイキモードであった。サインもらっておけばよかったと後悔している。(185p)
ラッセルとはある論文を巡って、激しい論争が続いたのだが、一向に聞く耳を持たないおじいさんである。今や、NASAのジェット推進研究所のフェローであり、もう大物になったんだから、広い心を持ってほしいものだ。「ものすごく尊敬していると同時に、はよ引退してくれや」というのが、私の正直な気持ちである。(189p)

なんだか現場感覚があふれまくっていて、とても楽しい。

 もうひとつの魅力が言葉に関するもので、乱暴とも思える端々の言葉づかいもさることながら、研究そのものにおけるネーミングの様子が、これまたとても印象に残る。「ハイパースライム」「ウルトラエッチキューブリンケージ」といった本書の“肝”になる固有名がいかに名づけられていったかは、ぜひ、実際に読んで確かめてみてください。「ハイパースライム」を発見するところは、文句なく感動的です。


(仕入開発部 今井太郎)



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2011年11月10日

『不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生』レベッカ・スクルート著 中里京子訳(講談社)

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 1951年にヘンリエッタ・ラックスという名の黒人女性が子宮頸癌により死亡した。

 治療の際、本人の同意なしに採取された彼女の癌細胞は、自ら増殖し続け、世界で初めて培養に成功したヒト細胞となった。これがヒーラ細胞である。
 ヒーラ細胞は研究対象として理想的な性質をもっていたため、世界中で培養され、生命科学と医学の進歩を支えてきた。癌治療やクローンなどの研究に利用され、偉大なる社会貢献を果たし、一部の企業や研究所には莫大な利益をもたらしているのである。
 しかし、細胞の持ち主であったヘンリエッタの遺族には、彼女の細胞が採取され保存されていた事実すら長い間一切知らさていなかった。彼らは一銭の利益ももたらされないまま、事実を知った今も、充分な医療を受けられないほどの貧困に喘いでいる。
 これが本書に取り上げられる事実である。

 この事実だけでも非常に興味深いものだが、そこには人種差別や障碍者差別、貧困、教育的不平等といったアメリカ社会の根深い問題が絡み合っていて、ヘンリエッタやその子供たちの人生を通してそれらの問題が描かれる。ヒーラという細胞をめぐる、科学と社会と人間の、壮大なノンフィクションである。

 ヘンリエッタや彼女の遺族には、当然それぞれに生々しい人生がある。彼らにはそれぞれ主張すべき権利があり、意見もある。詳しい説明もないままヘンリエッタを亡くし、さらに自分たちの知らないところで「ヘンリエッタを勝手に商売の道具にされていた」という遺族の思いは痛切だが、著者はヘンリエッタの遺族たちの不幸を声高に扇情するのではなく、他の医療裁判の例を引きながら事実を淡々と伝えてくれる。例えば、ヘンリエッタの細胞が世界中に拡散されるきっかけを作った最初の医師の行動は、金銭的欲望からではなく、純粋に医学の進歩を願ってのものだった。

 しかし、だからといって患者の細胞を勝手に利用することが許されるのかと問われれば、私は返答に窮する。もしもヘンリエッタの家庭が裕福で、遺族が「人類のために」と快諾するのであれば何も問題が無いのかと問われれば、それも私には分からない。

 当時の社会背景というものは、厳密には再現不可能である。医学的常識、科学的観点、社会的常識というものは少なからず時流に左右されるものだから、現代日本で満たされて暮らしている私には「そんな状況あり得ない、信じられない」という感想を軽々に口にすることも憚られるのである。厳然たる「社会」と、揺れ動く「人間の感情」とを前にして、途方に暮れるしかない。

 何事も「君の立場に立てば君が正しく、僕の立場に立てば僕が正しい」。
 そこをうまく乗り越えることは果たして可能だろうか。

 時代の要請、人間の感情、何のために何が最も大切で優先されるべきか、ポーズではなく本気で考えなければならない。それも、冷静に自分の立場や利害を離れて多角的に考えることができなければ、様々な場所で多発的に悲劇が起こるのだと、教えられた。


(大阪営業部 宇田静香)



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