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2012年05月02日

『Knappe Zeit』Harald Weinrich(C. H. Beck)

Knappe Zeit →bookwebで購入

「生は短いが、本を読む時間は欲しい(笑)」

昔よりずっと豊かで長生きのはずなのに、なんだか物足りない。そう感じている人が多いのでないだろうか。ますます急がされている一方で、生きる意味や目的がよくわからなくなっている。昨年は『暇と退屈の倫理学』が人文書の枠を超えて話題を呼んだが、暇や退屈の再発見は、そんな時代の気分とも関係していそうだ。
さて、その話も気になるけれども、これが終わるまでは待とう、と決めていた本があった。そう思い暮らすうちに、また月日が経って…というのもありがちな話であるが。刊行から何年もかかったが、このほど旅の道中でようやく読み終えたドイツの本をご紹介したい。

ハラルト・ヴァインリヒ著「不足する時間」(Knappe Zeit)は、古代ギリシアから現代まで、限られた生をめぐってものされてきた西洋文学・思想の一大パノラマだ。ホメロスからシェイクスピア、ゲーテからプルースト、果てはガルシア=マルケスまで、あるいはアリストテレスからセネカ、パスカルからフランクリン、そしてもちろんハイデガーまで、まさに縦横無尽。文学や哲学に限らず、神話、宗教、演劇、映画、そして法律、経済までも話が広がっていくのが凄いところだ。

これだけ多岐にわたる内容を要約することはむずかしいが、ライトモチーフはヒポクラテス的な時間とアリストテレス的な時間の対比だ。アリストテレスは、時間を空間と運動のアナロジーでとらえた。過去・現在・未来と、前から後ろへ、直線的に時間が流れていくイメージ。このアリストテレス的な時間は、二十世紀に入るまで支配的だった時間観だが、本書ではハイデガーらとともにこれを批判し、代わりにヒポクラテス的な時間を復権させようとする。

アリストテレス的な時間が近代化を推し進めた一方で、人間の疎外を生んだ合理的機械的な時間観であるとすると、ヒポクラテス的な時間はもっと人間の身体感覚に根ざしている。ラテン系の言語では、「時間」と「睡眠」に当たる語が似ているが、語源的には「鼓動」とも関連付けられるという。すなわち、「脈」を診ることを治療の基本としたヒポクラテス以来の西洋医学の伝統ともつながるのである。

ヒポクラテスの有名な格言「生は短く、術の道は長い」における長/短は、原語では大/小とも解せるという。大人と子供、背の高い人と低い人を比べているようなもので、成長の可能性も入っている。長い修練を要する術の道に対して、短い生では必ずしも到達不可能だと言っているわけではない。

ヒポクラテスの格言にはまだ続きがあるが、この第一文がとりわけラテン語訳(”Vita brevis, ars longa.”)では効果的なレトリックとなって、人口に膾炙していく。ヒポクラテスはアフォリズムの元祖ともなったわけだが、この短い形式自体が短い生に対応する時間の経済だという見方も面白い。

古代ローマ時代のガレノスの注釈によれば、生は短い、ゆえにヒポクラテスは短い言葉で医学の要諦を伝えようとした、ということになる。もっとも、そこで注釈を必要とするということは…情報の洪水に溺れかけている二千年後のわれわれを先取りしていたのかもしれない。

生の短さについては、古代ローマのセネカの考察があまりに有名であるし、「時は金」というメタファーも古代ギリシア以来だ。生の基本的な事実については、二千年前から同じ主題の変奏が繰り返されているのかもしれない。しかし、本書でも言われるように、例えばハイデガーやハンス・ブルーメンベルクを通して、先賢の言葉と現代の認識が響きあうところに立ち会える豊かさ、それを読む喜びははかりしれない。

本書の言語環境の豊かさは、ロマンス語学の碩学である著者の博識に負うところが大きい。もちろん、ドイツの本であるからドイツ語圏の文学や思想も広く参照されているが、ギリシア語、ラテン語から始まって、フランス語、イタリア語、スペイン語(そして英語も)にわたる原典の引用と著者自身によるドイツ語訳が自在に本文に織り込まれているのが圧巻。多言語を自由に行き来できるヨーロッパ的知性には脱帽しっ放しである。

この本を手にした動機のいくぶんかは、かつて大学で「ヨーロッパ文学とは何か」を探究する(今では失われた)専攻に属した記憶が与っている。志に比してあまりに貧弱な語学力しか持ち合わせず今にいたるが、こういう本を読んで勉強しておくのであった…。ここでも不十分な紹介しかできないが、もっとちゃんと読める方に読んでいただきたいという気持ちもあって、掲げてみる次第(英訳もある)。

ウンベルト・エーコの『芸術の蒐集』を思わせる、西洋文化のカタログのような十章の後、本書を締めくくるエピローグは、これまでの「時間」をめぐる思索が交わり合い、旅が終わったような充足感があった。ヒポクラテス的には、生は鼓動であり、音楽のリズムである。最後に、ホフマンスタールとリヒャルト・シュトラウスの傑作楽劇「薔薇の騎士」から、一番の名場面である元帥夫人の独白(「時というものは…」)が引かれているが、その話と符合してとても意味深く感じられた。


(営業企画部 野間健司)


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2012年02月24日

『暇と退屈の倫理学』國分功一郎(朝日出版社)

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紀伊國屋じんぶん大賞2011『大賞』キノベス!2012『第14位』阿部公彦先生による書評(書評空間)と、紀伊國屋では大評判の本書を、さらに推薦したい。

偉大なる先人たちによって自由を求める闘争が成し遂げられた後、私たちはいったい何を為すべきか。
資本の論理の中で、趣味や将来の夢をカタログの中から選ばされる人々は、真に幸福か。
不景気による閉塞感、幸福を追求できない若者・・・。

こういった慢性的な悩みに対して私は、単なる現状追認として「社会構造や経済論理」で説明されてしまうことに飽きていた。そういう類いの言説には、耳にたこができるほどであった。手も足も出せないまま、耳にタコであった。

自分に直接関わるはずの問題でも、「社会構造」や「経済論理」という大きなもので説明されてしまうと、「ああ何だ。私のせいじゃなかった。仕方無いことだ。」と、どこか安心してしまうが、しかし問題は厳然として目の前にあり、単なる「現状追認の思想」は私の役には立たなかったのである。


本書は、筆者自身が言うように、「僕はこんなこと考えてるんだけど、あなたはどう思う?」という問いかけを感じさせるものであり、読者は考えることを促される。それがとても刺激的だった。

幸福を追求する人間にとって「退屈」の問題は深刻であり、本書では、多くの著名な学者の思考に沿って、著者自身の思考が展開される。
『歴史は繰り返す』。19世紀から既に欧米では同じ危機が学者によって論じられていたのである。哲学者や経済学者の思想が多数登場するが、身構える必要はない。本書の魅力は、彼らの思考が、現代に生きる我々の問題として生々しく展開されることであり、学問は象牙の塔ではなく、思考のプロセスとして自分のものに出来ると感じられることである。


本書は通読しなければ意味が無いが、「自分以外の者の世界観」が論じられる第六章が特に印象的だ。ユクスキュルの「環世界」。
【生物はそれぞれ独自の世界を生きていて、それは人間も他の動物も同じ。ただ人間は他の動物に比べて、容易に複数の環世界を行き来できる。】という説が展開される。会社では社員としての世界観、家庭では父親としての世界観をもって生活している、というイメージである。筆者はそこにも退屈のメカニズムを考察し、人間特有の可能性を見出している。
人間特有の絶望と希望が見いだされる過程が非常に刺激的で、「暇と退屈の」という書名から連想される以上の知的衝動を味わえる。

暇な人も忙しい人も「退屈」している現代社会で、人間性を手放さないために、本書をお勧めしたい。「暇」な人も「忙しい」人も、退屈を打開出来るかも知れない。


(大阪営業部 宇田静香)



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2011年03月07日

『哲学への権利』西山雄二(勁草書房)

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「終わりなき学問」

「脱構築とは制度という概念がつねに問題となる制度的実践である」―ジャック・デリダ

 こう聞くと、「ああもう無理。哲学は難しい。何のこっちゃ分からない。」と拒絶反応を示してしまう人が多いと思う。私もその一人だ。
 しかし哲学とは本当はもっと寛容で、今の社会や考え方に寄り添って生きているもので、決して完結した象牙の塔ではない。
 ということが、本書を読んでよく分かった。


 本書はDVD書籍である。
 映画「哲学への権利―国際哲学コレージュの軌跡」は、1983年にジャック・デリダ、フランソワ・シャトレらがパリに創設した半官半民の研究教育機関「国際哲学コレージュ(CIPh)」をめぐる初のドキュメンタリー映画であり、著者・西山雄二氏が国際哲学コレージュの歴代議長や新旧のプログラム・ディレクター7名へのインタヴューを通じて、大学・人文学・哲学の現在と未来を描き出す。
 インタヴューではこの研究教育機関の独創性を例として、収益性や効率性が追求される現在のグローバル資本主義下において、哲学や文学、芸術などの人文学を、いかなる現場として構想し実践するべきかが問われる。そして書籍には、映画の上映会を経た著者のエッセイが、映画の内容に即して綴られる。「哲学に、何ができるか」ということが、真摯に、丁寧に問いかけられている。

 近年、大学は学生を顧客として「社会に通用する知識や教養」を強く求められ、「就職予備校」化の傾向にあるように思える。そんな傾向の中で、人文学は社会に対する有用性を疑問視され、自らの存在意義を声高に主張しなければならなくなっている。

 人文学は、自然の普遍性と政治経済のグローバル化の狭間で人間性を探求することが課題となる。このような困難な課題に対応するため、昨今の大学では「学際的」というキーワードのもと、異なる研究分野間の交流が新しいアカデミズムの潮流として幅を利かせている。
 これに対し、国際哲学コレージュの理念の一つに「領域交差(インターセクション)」というものがある。これは、哲学とその他の研究分野をセットにしてパッケージ化するということではなく、「哲学が哲学である為には、決して孤立してはいけないという意味です。」と、インタヴューイーの一人クレマン氏は言う。他の領域に対して「○○の哲学」という形で哲学が理想的な答えを示すのではなく、他の分野で表現されることに照らし合わせて哲学は永遠に、自らを問い直さなければならないというのである。

 「人文学は意味や有用性を導き出すというよりも、むしろ、生きることの臨場感や立体感を提供する分野であり、人文学がもたらす情動は生きることの方向性を示唆する。」と著者は言う。「私が生きる」ために「私とは何か」と問うのだが、常に変化する世界の中で、「私」自体も刻々変化する。だから哲学は「問い続ける」ことが必須であり、この「問い」は学問として大学在学中に完結するものではなく、「問い続けなければならない」終わりなき学問なのである。

 1983年の創設以来、「哲学を、専門家の研究対象として閉じ込めておくのではなく、日々変化し再構成するものとして実践しよう」という活動が、脈々と引き継がれているのが「国際哲学コレージュ」であり、この機関では、教師となる条件、受講者となる条件はほとんど無く、教師は無償でプログラムを展開し、受講者は無料で参加できる。このことは長所でもあるが、同時に多くの問題を孕んでいる。もちろんアカデミックな「知」を社会に対して開くことに付随する困難は多岐に渡る。(無償性・価値の問題、場の問題、受講者のレベルの問題、・・・)

 しかしそれらの問題に真摯に対峙し、考え、実践している人々の姿がこの映画には生き生きと表現されていて、新鮮な感動を覚えた。
 そもそも私がこの本を読んだ契機は、2011年2月23日、大阪・アートエリアB1にて行われた、著者と鷲田清一氏(大阪大学総長)との対談イベント「哲学と大学の未来」に参加したことである。このイベントは「ラボカフェ」といって、大阪大学コミュニケーションデザイン・センターによって主催されている社学連携事業のひとつである。
 既にこんなに身近に、在野での学問の実践が生き生きと行われていることが、私にとっては驚くべき体験であった。

 大学での研究・教育活動を支援する職業に就く者として、大いに啓発された。
 デリダの思想の詳細や、その他むずかしいことは私には全く分からないが、そんな私にとっても、本書は、閉塞感漂う今の社会で、希望を捨てずに頑張る力を与えてくれるものであった。本書の読者は、その職業や興味の分野に関わらず、それぞれの思考を啓発され、何かを見出し実現するポジティブなパワーを得ることが出来るはずである。

 (参照)
 公式HP 映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」
 http://rightphilo.blog112.fc2.com/
 大阪大学コミュニケーションデザインセンター
 http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/about/


(大阪営業部 宇田静香)



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2011年02月14日

『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル(早川書房)

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「今、「正義」を問いただす」

 昨年(平成22年)の上半期も終わりに近づいた頃、1冊の本が正に「革命的」とも言うべき一大ムーブメントを起こした。

 ハーバード大学教授マイケル・サンデル氏が、自身が大学で講義する政治哲学の授業を書籍化した「これからの「正義」の話をしよう―今を生き延びるための哲学」がそれだ。平成22年4月から6月にかけて、「ハーバード白熱教室」と題してNHKで放送された事も記憶に新しいのではないだろうか。(テレビ放送された「ハーバード白熱教室」は、後に、DVDとして発売された。)

 本書は「正義」について書かれた政治哲学書であるが、「正義」とか「哲学」だとかと言うと何か小難しい事が書いてあるのではないかと思う人もいるかもしれない。確かに、「正義とは何か」や「公平さとは何なのか」、また、私達にとって「何が正義なのか」、「正しいとはどう言う事なのか」と言う問いには簡単には答えられるものではない。

 しかし、サンデル教授は解りやすい例えを用いて、最も基本的で重要な問題を様々な角度から捉え、「正義」や「公正さ」を説いている。

 例えば、「5人を助けるために1人を殺すのは正しいのか?」や「遭難して食料が尽きた状態で、3人が生き延びるために体調を崩した1人を殺し食べるのは正しいのか?」、また、「大学入試でのマイノリティに対する直接の優遇措置は公正なのか?」などだ。

 この他にも過去の事件や災害などの具体例を挙げながら、幸福、自由、美徳の3つの観点から「正義」に迫っている。また、本書のような難しいテーマでも面白くし飽きさせない理由は、サンデル教授が次々と繰り出す具体例が身近な上に、「正義」へとアプローチする姿勢が真摯であり、彼の言葉が明確であるからではないか。

 私自身、本書を読んで「正義とは何か」を問う事は、自分が信じるものが果たして本当に正しいのかを問う事と同義であると感じた。もちろん、自分自身の「正義」が他の人の「正義」と必ずしも同じであるとは限らない。だからこそ、「正義とは何か」を考え続け、議論し続ける事が重要であるのだとも感じた。

 皆さんも本書を読み、また、DVDとして発売されている「ハーバード白熱教室」を見て、「正義」と何なのかを考え、「正義」に関する自分自身の見解を批判的に見つめ直し「正義」対して自分が何を考え、またなぜそう考えるのかを見極めてはどうだろうか?見極めた先に、「いまを生き延びるための哲学」が存在するかもしれない。


(新宿南店仕入課 西山純一)



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2011年02月02日

『The Bed of Procrustes : Philosophical and Practical Aphorisms』Nassim Nicholas Taleb(Random House)

The Bed of Procrustes : Philosophical and Practical Aphorisms →bookwebで購入

「現代のニーチェ(?)の言葉」

2007年に原書が出た『ブラック・スワン』の衝撃は忘れられない。その年の大晦日に徹夜して読了したが、その後、完徹の読書をしてないような気がする…。

2009年に邦訳が出たとき、ビジネス書として売り出されたのは少し残念だった。そういうカテゴリにおさまらない本だと思うからだ。

白鳥は白いものだと誰もが思っていた。オーストラリアで黒い白鳥が発見されるまでは…。千の実例から得た「真理」も、たった一つの反例で崩れ去る。

災害やテロだって、そうだ。ずっと起こらないから今日もだいじょうぶだと思う。しかし、今日起こるかもしれないのだ。今年10周年を迎える9.11を想起しよう。

「ありえない」と思うからこそ、実際に起こったときの衝撃ははかりしれない。そういう現象を「ブラック・スワン」と呼び、従来の学問では対処できないと看破したのがこの本だった。著者の証券市場のスペシャリストとしての豊富な経験、数学・経済そして哲学・文学にわたる博識が縦横に発揮された、とびきり面白い知的読み物。意表を突く挑発的な筆運びの連続に、とにかく読まされてしまう。

しかし、『ブラック・スワン』の真の魅力は、偶像破壊的でありつつ(とりわけ現実の経済を予測できない従来の経済学への批判は辛辣を極めるが、先般の金融危機により著者の確信は強められただろう)、単なる懐疑主義(著者が嘲笑するポストモダニズムのような)にはとどまらず、どこまでも錯誤に陥りやすい人間性(行動経済学が明らかにするような)を自覚した上で、わたしたち自らの実践としていかに「ブラック・スワン」とつき合うかを示唆するところだ。

そこには、紛争の地レバノンで、砲火の音にさらされながら数々の古典を読破したという著者の特異な知的遍歴も反映している。かつてはヘレニズム文化が花咲き、長きにわたって多様な宗教・民族が共存していた彼の地も、短い現代史の間に終わりなき争いに巻き込まれてしまう。「ブラック・スワン」の経験の原点であり、のちに誰も予想しなかった市場の大暴落が起きても、著者は既視感を覚えるのだ。

近代の知は、人間が知りうることの範囲を広げはするが、知りえないことについても知りうるという傲慢を育む。知りえないこととどう向き合うかは、先人たちの方がはるかに深く考えていた。アリストテレスからモンテーニュ、ポパーからマンデルブロート(フラクタル理論で有名)にわたる古今の洞察を武器に、驕りやすい今日の知性に痛撃を加える著者の姿には、現代のニーチェとでも呼びたいような畏敬を覚える。

その著者が、ついに「哲学的実践的警句集」という副題を持つ本書を出した。おりしも日本では『超訳 ニーチェの言葉』の大ベストセラーという現象があった。ニーチェの著書から断片を(毒消しして?)切り売りすることには議論もあるが、忙しいビジネスマンの知的サプリとして歓迎されたのだろう。なんとなれば、寸鉄人を刺す古代の警句(アフォリズム)の伝統を近代に蘇らせた中興の祖がニーチェであり、そういう受容もありうるわけだ。そして、そのニーチェを半ば愛し半ば憎むという著者がその衣鉢を継ぐことに不思議はない。

題の「プロクルステスのベッド」は、ギリシャ神話にちなむ。宿の主人プロクルステスには、旅人の足がベッドより少しでも長ければ切り落とし、短ければ引っぱって伸ばす奇癖があった。最後にはテセウスに同じ方法で退治されるのだが、ここでは現実を思い込みの型に当てはめて解釈し道を誤りがちな人間の性になぞらえている。

(これと似た話をある戦争体験者に聞いたことがある。その方は兵隊に取られて、軍服を着せられたのだが、サイズが合わなかった。それを上官に言うと「おまえが服に合わせろ」と言われたそうだ。「これじゃ日本は負けだと思ったよ」とその方は述懐された。)

ここでも、「プロクルステスのベッド」的な状況に陥りがちなわたしたち(特に制度化された学問やジャーナリズム)への批判は辛辣を極める。それは、警句というかたちをとるがゆえにいっそう効果的だが、著者が「あとがき」で言うように、「技術に合わせて人間を改変し、雇用の都合に倫理を当てはめ、経済学者の理論通りにお金を使わせ、ある物語の型に人間生活を押し込める」(p. 107)本末転倒な状況への根底的な批判なのだ。しかも、その根っこには「2500年もの間、誰もその影響から私たちを守ってくれる強靭な知性が現れなかった」というプラトン的な理念化の魔力があるのだから、いくら批判しても足りないわけだ。

しかし、警句の魅力は、そのような「毒」の部分もさることながら、「あるある」と思わず頷く人間的洞察や、はっとした後に思わず笑いがこみ上げてくるような(人間的な、あまりに人間的な)観察にも求められる。本書は、「偶然、成功、幸福、ストア主義」「強さと脆さ」などのゆるやかな章題で区切られ、それぞれが著者の思索の体系にリンクしているようだが、気まぐれに部分を取り出して面白がるのも、警句の立派な楽しみ方である。ここでは、気になったいくつかの言葉を、散漫を厭わずに挙げておこう(順番はバラバラ)。

「本当に嫌なときの方が”ノー”とは言いにくいものだ。」

「”よい聞き手”と言われるのは、たいてい、技巧的に洗練された無関心の持ち主である。」

「土地や製品が広告より劣るのは、ままあることだと受け入れる。しかし、人が第一印象より劣るのは許せなかったりする。」

「個人が自慢すると、ひどい悪趣味と見なされる。しかし、国家がそれをやると、”国の誇り”ということになる。」

「科学に人生や生に関わる事柄を説明させるのは、文法学者に詩を説明させるようなものだ。」

「愛と幸福のちがい。愛について語る人は、たいがい愛に生きている。だが、幸福について語る人は、たいがい不幸である。」

この警句の後には、「幸福についての学術会議に出席したら、学者たちは誰もが不幸そうだった」というものもあった。

「真の文学」を愛するこの著者は、本の世界についても、一家言も二家言もある(”The Republic of Letters”という章に以下の言葉が見られる)。「ある種の本(真の文学、詩)は要約不可能だ。また、ある種の本は10頁ほどに要約できる。しかし、大部分の本は要約すれば0頁だ」とは、大変キビシイ。「いわゆる”ビジネス書”とは、深みも文体も経験的厳密さも言語的洗練も欠いた書き物のために書店がつくったカテゴリである」と言われると、本好きのみなさんは頷くのかな。ノーコメント!(笑)

出版物の洪水もよく批判されるところであるが、誰もが使うネットとの付き合い方もむずかしい。「情報爆発の時代とは、言語的失禁症に似ている。やたらと話せば話すほど、ますます聞く人がいなくなる」というのは言いえて妙だろう。いささか不穏当だが、「物理的に相手を殴れば、スッキリする。しかし、ネット上で悪口を言っても、自分自身を傷つけるだけだ」というのも一面の真理である。新聞を一切読まず、ジャーナリストからメールをもらうと沐浴して身を清めるという著者ほどでなくても、自分の身の丈に合った情報の生態系を考えないと、溺れるままになってしまう。

本書の金言をもう一つ。ここだけ原文で引用する。"You exist in full if and only if your conversation (or writings) cannot easily reconstructured with clips from other conversations." (p. 41)

そのような存在を得たい人には、著者の言う「哲学者であること」は有効かもしれない。「哲学者になりたければ、まずゆっくり歩くことから始めよう」とはユーモラスだが、思考のリズムは生き方の問題なのだ。『ブラック・スワン』にも、走って電車に乗らないことにしただけで考え方が変わったという話があった。判然としないものに既知のパターンを当てはめるのは人の常だが、判断を引き延ばし、知らないということに意識的になれる人には、もっと広い世界が広がっている。

その毒舌にもかかわらず、著者のすすめは、決してシニカルな懐疑一辺倒といったものではない。アリストテレス的な、古典的美徳(勇気、エレガンス、博識)を目指す生き方である。その意味で、本書の底に流れる精神は、「哲学的」かつ「実践的」なのだ。それにしても、サンデル教授の正義論を読んでも、アリストテレスに帰った方がいいらしい。そんな感じで、『超訳 ニーチェの言葉』を手にしたビジネスマンが、本書によっても思わぬ方向に導かれると面白いではないか。


(洋書部 野間健司)



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2011年01月11日

『量子の社会哲学―革命は過去を救うと猫が言う』大澤 真幸(講談社)

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 去年読んだいくつかの本に共通して出てきたモチーフが“量子力学”だった。――めでたく大団円を迎えた沖縄SFマンガ『ナチュン』、三島賞受賞の『クォンタム・ファミリーズ』、ベストセラー『宇宙は何でできているのか』。
 『ナチュン』や『クォンタム・ファミリーズ』では、瞬時に複数個体の意識が重なり合ったり時間旅行ができたり、量子ってつければ何でもアリ?!と何だか妙にワクワクするというか狐につままれるというか、まあ楽しくお話にハマれて良かったのだが、ちゃんとした科学啓蒙書である『宇宙は何でできているのか』を読んでみても結局、もうこの超わけわかんなさが痛快!という境地にしか辿り着かず、量子力学の摩訶不思議な魅力はいや増すばかりだった。

 それで、今年最初の読了本になるだろう1冊に選んだのが本書『量子の社会哲学』である。去年あれだけ下準備(?)したのだから、なんとか歯が立つだろうと思って読んでみた。結果、歯が立ったのかどうかは今のところかなり疑わしいが、引き込まれるようにぐいぐいと読み進まされ、いくつも興味深い知見が得られもし、そしてやっぱり、量子力学ってわけわかんないけど魅力的だと感じている。

 本書の基本的な構成は、ニュートン以降の科学革命を同時代の人文社会科学的な知の変革の歴史と重ね合わせていくというものだ。ニュートンと中心遠近法やデカルトが、アインシュタインと印象派や探偵小説やフロイトの精神分析が類比されるあたりまで(ちょうど頭から3分の1くらいまで)は、まだなんとなくついて行けるような気がする。が、

ニュートンの物理学は、宇宙を外部から観測する超越的な視点を前提にしていた。アインシュタインの相対性理論が、そのような超越的な視点を排除したわけではない。(中略)言い換えれば、光の超越性は、アインシュタインの理論において、真に確立したと言える。(中略)相対性理論の段階では、まだ、ニュートン的な段階からの真の断絶はやってきてはいない。第一の科学革命の成果からの真の離脱は、その後に、つまり量子力学の登場したときに生ずるのである。

という高らかな宣言とともに第Ⅳ部以降展開される議論のなかで、量子力学そのものには到底想像力がついて行かず、結局『宇宙は…』のときと同じワクワクするような眩暈の感覚がもたらされるばかりだ。

 たとえばひとつだけ、たぶんその筋では有名な話なのだろうが、副題にも出てくる「シュレディンガーの猫」について。

そこにあるのは、「実際には猫は死んでいるか生きているかのいずれかなのに、われわれはそれを知らない」という状態ではない。そこには、「五〇%生きており、五〇%死んでいる猫がいる」と考えざるをえないのだ! これが量子力学の教えである。しかし、それはどんな猫だろうか?

ほんとに、どんな猫なんだか……。

 もちろん量子力学そのものがちんぷんかんぷんなのは当然で、もっぱらそういうのを体験したければ専門の教科書を読むのがいいだろう。本書の後半は、量子力学の神秘的だが科学的ないくつかの知見が著者の脳裏に呼び覚ました、同時代の人文社会科学における知的営為を列挙することに費やされる。ピカソ以降のキュビスム、フロイトのユダヤ教起源論、レーニンの革命論、カール・シュミットやベンヤミンの社会論など、どれもが量子力学と何がしか同型なのだ、と。

 それぞれの議論は難解だし、それってこじつけじゃないの?と眉唾感がよぎったりもする。けれどよく考えてみると、そういう眉唾の感覚のほうが深刻な偏見かもしれない。確かに20世紀の初めから文化も社会も国家も経済も、人間のあらゆる社会的活動はどこか根本的に変質してしまって、しかもその変質には一定の傾向のようなものがあると感じられる。モーツァルトやベートーベンのような(荘厳に過ぎ、神や人間を礼賛するに率直過ぎ、喜びも悩みも悲しみも全てがストレートで大袈裟に過ぎる?)音楽がもはやこの現代に新たに生み出されることはないだろうと、実感をもって了解できてしまう現実がある。
 そしてもちろん、そのような変質が量子力学の誕生を原因とするのだ、ではただのトンデモで、本書が捉えようとしているのは、量子力学の誕生という物理学の変質も含めた、それら前世紀以降の人間社会諸側面の変質を貫いている同型性――徹底した不確定性・決定不可能性、普遍性や因果関係や時間性のゆらぎといった繰り返し出てくるパターンそのものだ。読者は、そして著者自身も、そのパターンを取り出し並置し吟味・鑑賞することで、とびきりの知的興奮と得も言われぬ不安定な感覚を体験していく。

 あとがきの以下の文章が、本書に充満するある種の熱気、“ぐいぐい読まされる”感の源を明らかにしていて、印象深かった。

私は、今まで何冊かの本を書いてきたが、本書ほど、自由な気持ちで書いたものはなかった。その意味で、執筆は、たいへん楽しかった。

量子力学への興味は尽きない。もちろんSFも楽しいが、そのうち、もっと突っ込んだ入門書にも挑戦してみたい。きっと歯が立たなくて、高校時代に数学に身を入れなかったことを後悔しつつ投げ出すことになるだろうが、それはそれで構わないのだと思う。


(販売促進部 今井太郎)



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2010年12月28日

『The Meaning of Friendship』Mark Vernon(Palgrave Macmillan)

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「友情の意味」

友人のいない人生ほど、さみしいものはない。恋人がいなくても、友人がいれば人生は生きるに値する。恋人とちがって、友人のあるなしは、いくつになっても大事である。定年後、職場外の友人もなく暇を持てあます夫を見て、妻がストレスを爆発させる話はよく聞く。人間誰でも最後は「おひとりさま」だとしても、共に語らい生の意味をたしかめ合う仲間は必要だ。

しかし、友情とは、かくも私たちにとってかけがえのないものであるのにかかわらず、それについて落ち着いて考える契機はなかなか訪れない。日常の次元では(しばしばメディアを通した他人との比較というかたちで)友人が多いか少ないか、役に立つか立たないかばかりを気にしがちだ。

そうこうするうちに、世の中の人間関係を見る枠組み自体も変わる。社会学でいう「親密圏の変容」(ギデンス)も気になるし、SNSや画像共有サイトが脚光を浴びる昨今では、ウェブ時代の人間行動を規定する新たな権力「アーキテクチャ」の理解が不可欠らしい。心理学や脳科学の発展もすさまじく、愛や宗教の起源も進化論的に説明できてしまうと言われている(本当か?)。なんだかもう現象を追いかけるだけで忙しく、ますます「哲学」の出番などなさそうである。

そんな時代に、敢えて「友情の哲学」を掲げたのが本書だ。「友情論」というと今では古色蒼然たる感じで、実際、何年もそういったタイトルの本は出ていない。しかし、英国で一般向けの哲学書をいくつも手がけた著者のアプローチは、新鮮で親しみやすく、ニュアンスに富んでいる。なお、彼は「労働」「私」「欺瞞」など現代人の気になるテーマについて人気哲学者がそれぞれ一冊を書き下ろす”Art of Living”という瞠目すべき哲学叢書(Acumen社刊)の編者でもある。本書は、2005年に刊行されて「インディペンデント」紙のブックス・オブ・ザ・イヤーに選ばれた著書『友情の哲学』の新版として、内容をアップデートして改題し、新しい章を加えたものである。

最初に、加えられた終章「セルフヘルプを超える友情」から行こう。「セルフヘルプ」とは、明治の日本にも影響を与えたスマイルズ『自助論』(1859年)の原題だが、これが原点となって生まれたジャンルのことでもある。以来150年、この日本でいう「自己啓発書」のジャンルは、アメリカを中心に巨大産業として栄え続けている。成功して「リッチ」になったり「セレブ」になったりしたい人だけでなく、人間関係でストレスを抱える人たちも、こうしたハウツー本に救いを求める。残念ながら、まず哲学の門を叩くことはない。これはこと友情のためには実に不幸なことだと著者は言う。

このジャンルの本では、たいてい「自分」が世界の中心にいる。大ベストセラー”How To Win Friends And Influence People”のタイトルが示すように、友人であろうが、自分を主人公とする物語の中では単なる脇役、宇宙の中の小っぽけな星にすぎない。自分が何かをするのに役立つ存在、人生の局面毎に使い分けすべきリソースでしかない。しかし、逆の立場で考えればわかるように、自分がただ利用されているだけの存在だと気づいたとき、友情は終わる。

セルフヘルプの氾濫やゲーム理論の流行の中で見過ごされがちなのは、人間は利己的な動機だけで助け合うわけではないということだ。しばしば、ダーウィン自身の考えとは異なる進化思想の系譜(ダーウィニズム)の中で強調されがちな、一見利他的と見える行動も生存に有利だから選択されたという説明は、150年前にダーウィン自身が否定していた。著者は、人間に限らずボノボやチンパンジーの間にも共感(ないし友情さえも)が観察されるという『共感の時代へ』(紀伊國屋書店出版部)の著者フランス・ドゥ・ヴァールの研究に共感を示しながら言及している。

ここで、近代の150年より、古代の2500年前の知恵に遡ると、アリストテレスの友情論はいまだ多くのことを教えている。アリストテレスは、友情(友愛)を三種類に区別した。一つは何かをして役に立つ、つまり有用性にもとづくもので、今日でいえば職場の人間関係が典型的だ(本書の第一章「職場の友情」で詳述されている)。もう一つは共に何かをすること、快楽にもとづくもので、趣味を同じくする人や、恋人や夫婦にも当てはまる(本書の「友人と恋人」の章を参照)。最後の第三のものがもっとも重要だ。これは利害得失とは関係なく、互いにその人のあるがままを愛することである。他者を自己の鏡として、よりよく知ろうとし、また自分を他者に開くことで、わたしたちは自分以上のものになることができる。そのような結びつきは、実践的には少数者の間でしか不可能だが、ポリスにおける市民の政治の礎としても重要である。

そうは言っても、簡単ではないだろう。アリストテレス以後、友情について論じた哲学者が意外と少ないのは、友情という主題の扱いにくさを示している。本書で遡上に上るのは、親友との死別を経てキリスト教改宗とともに友情を神への愛の妨げになる利己的なものとして下位に置いたアウグスティヌス、逆に友情を神の愛のあらわれとしてその利他的な契機を救い出そうとしたトマス・アクィナス、友情は差別的であり無差別的な隣人愛に劣ると見たキルケゴール、自身ワーグナーとの訣別を経験し友情について辛辣ながらも的を得たアフォリズムを数多く残したニーチェ、異性の友人マーガレット・フラーとのスピリチュアルな結びつきを感じていたエマーソン、同性愛者の権利と友情の問題を別個に考えていたフーコーなどである。

時代とともに、友愛で結ばれた市民の政治を理想とした古代ギリシャ(同性愛の原点でもある)から、神の愛との関係が問題となる中世キリスト教世界、公私の空間の分離とともに親密性の表現が行き場を失って漂う近代の世俗化された社会まで、友情の意味は揺れ動いてきた。今日では、友達同士のような親子や夫婦が問題視されたりするが、異性/同性との性愛を伴う/伴わない友情のさまざまなヴァリエーションは既にあった(読み物として本書が面白いところでもある)。友情は、婚姻などの制度的な紐帯の外にあるがゆえに、極めて多義的であり、社会的な価値とそぐわないことも多々ある。本書はそうした友情の約束と脅威の両面に光を当てている。

それにもかかわらず、著者が最近のさまざまな文化事象や社会調査なども視野に収めながら、古今の哲学者との対話を通して救い出しているのは、いつの時代にも妥当する友情のコアな価値である。本書には、時宜に即した新章「オンラインの友情」が含まれているが、著者の見るところ、インターネットの普及によって人間関係がどのように変化したかは、本質的な問題ではない。親友がいないと感じる人が増えていたり、逆にオンライン、オフラインともに交友関係が活発な人が増えているという調査結果もあるが、言われるところのインターネットの明も暗も、ともに近代的メディアから連綿と続いている変化を一気に加速させたものといえる。遠くの他者に数多く即時的に出会うことは容易になったが、出会ってからのむずかしさは、昔も今もそう変わらない。プラトン描くソクラテスが孤独に挑んだ友情の困難は、現代人のものでもある。


(洋書部 野間健司)



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2010年09月22日

『44 Letters from the Liquid Modern World』Zygmunt Bauman(Polity)

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「リキッド・モダンの世界からの44通の手紙」

このごろ思想界で大モテのオジイサンといえば、ポーランド出身の社会学者ジークムント・バウマン(英リーズ大学名誉教授)。1925年生まれというから、今年で御年85歳か。著書がどんどん訳されているし、また今でも書いている。

バウマンを一躍有名にしたのは、今という時代を「液状(liquid)化」というキーワードで捉えたことだ。 「リキッド」“Liquid”を頭に冠する一連の著作は、『リキッド・モダニティ―液状化する社会』(“Liquid Modernity”)から始まって、『リキッド・ライフ―現代における生の諸相』(“Liquid Life”)、“Liquid Love”“Liquid Fear”(未邦訳)など、そのたびに注目を集めてきた。

<固体(solid)=確固としたもの>から、<液体(liquid)=覚束ないもの>へ。確固とした構造から、流動的なネットワークへ。これは概ね、多くの論者が指摘するモダン(あるいは前期近代)からポストモダン(あるいは後期近代)への変化に対応するだろう。「流動化」と言ってもいいかもしれない。

社会の流動化は、「自由」を求める個人の欲望を最大限の可能性に開く。それはもちろん肯定的な要素も大きく、とりわけ経済活動の自由に開かれている。いつでも、どこでも、誰とでも。瞬時に提供可能なモノやヒトのサービス。効率とスピードは産業のあくなき要請だ。それに乗って、誰のどんな欲望でも満たされれば、それでハッピーではないか。

といっても、これには光と影がある。何でも交換可能というならば、ユーザーだって交換可能なのだ。近代は「自己」の探求とともに始まるが、今は消費が自己表現そのもの(You are what you buy)という言挙げがあふれている。もちろん、本当は買うのが誰であってもよいのだ。絶え間なき消費、マネーを回転させることが、この金融中心の社会を支えている。わたしたちはそのために「動員」される、顔のない存在に過ぎないとしたら?

「リキッド・モダン」の世界では、かつてリアルだった(と感じられた)もの、人間同士の紐帯も、愛や恐怖さえも、その固有性を許されず、常に流れ去り、「液状化」していく。われわれは自由を得れば得るほど、おのれがただ漂う存在に過ぎないことに気づき呆然とする。

近代とかポストモダンとか、そんなむずかしい議論は社会学者に任せておけばよい。それより、われわれ自身はそんな時代をどう生きればいいのだろう。幸いに、このごろのバウマンは、わかりやすい言葉で自分の考えを語ってくれている。

今夏刊行された本書“44 Letter from the Liquid Modern World”(Polity)は、2008年から2009年にかけて、雑誌“La Republica delle Donnne”に連載された短いコラムをまとめたもの。一編一編がバウマンから読者に宛てられた「手紙」というスタイルをとっている。ここでのバウマンは、シニカルな社会批評家というよりも、一個のモラリストといってよいと思う。

始めに、標題の「リキッド・モダンの世界」とは、著者と読者が共に属している「この世界」のことなのだと言明されている。「その世界を私が“リキッド”と称するのは、あらゆる液体と同様、とどまることを許されず、そのかたちをたちまち変化させずにはいないからだ。」このあたりのバウマンの文章を読んでいると、思わず「行く川の流れは絶えずして」という日本人なら誰でも知っている『方丈記』の冒頭が頭を掠める。これが英語であることの不思議。

この世界では、昨日と今日ではまるで別世界ということが毎日である。それが今を生きている証であるかのように。これにまたニューメディアがもたらした情報量の爆発的な増大が拍車をかける。しかし、この情報量が本当に必要なのか。今日のニュースは明日忘れられ、今朝のつぶやきはもう誰からも省みられない。これを要するにムダばかりではないのか。大量生産、大量廃棄されるゴミにも似て。

日々の情報の洪水に足をすくわれずに、われわれにとって意味あるメッセージを仕分けること。この手紙の目的はいわばそのための処方箋なのだ。もっとも、この世界は常にうつろい、われわれはその中を漂っている存在にすぎない以上、これも漂流の“旅の記録”でしかない、とバウマンはアイロニカルな前置きを忘れない。

バウマンは自らのアプローチをこう説明する。日常の“ありふれた”(ordinary)事象から出発して、ふだん見過ごしがちなその“途方もなさ”(extraordinariness)を明らかにすること。これだけ聞くと、よくある「生活世界」の生き生きとした意味を取り戻すみたいな話かなあと思ったりする。

たしかに、バウマンがここで挙げる事例の多くは、たいていの“先進国”で見られる“ありふれた”現実だ。しかし、その先に生き生きとした“日常の輝き”といったものはもはやない。投資ブームに踊った人たち、流行に乗せられる若者たち、端末で「つながり」合わないと片時でも不安な人たち、やたらとやせたがる女たち…。バウマンは世間話でもするように、その背後にあるものを冷静に読み解き、情報と商品の海に人を沈めていく消費社会の呪縛を解いていく。

横道にそれると、グローバル化の功罪の“罪”の一つは、海の向こうには自分たちより高い文化(を裏づけとするモラル)があるという幻想(憧れ)を奪ったことかもしれない。日本のバブルの後に欧米の金融危機を見ると、「強欲」はいずこも同じじゃないかと思う。わたしたちは幻想の欧米人を自己内面化して自らを律してきた面があったが…。最近の若者は洋画を観ないとか海外旅行に行かないというが、そのことをただ憂慮しても仕方がない現実が進行している気がする。「人間みな同じ」であることの希望と憂鬱…。

さて、このバウマンの「手紙」を貫く特色に、若者に注ぐ視線のやさしさがある。世界中を揺るがした(とされる)金融危機のさなかで書かれたこともあって、若者たちは今、豊かさにあふれて育ってきた人生で初めての苦難を経験していると言う。そのあたりは十数年前から“氷河期”が続く日本と少々事情が異なるが、電子メディアを自明として育った彼らに上の世代はかつてないジェネレーション・ギャップを感じているというのは共通だろう。しかし、バウマンは彼らを取り巻く社会の体制に注意を払い、ときには自主的に考える若い読者の手紙を積極的に取り上げて賛意を表する。なかなかできないことである。

本書の話題は多岐にわたるが、それぞれ、今ここにある問題から、この世界の病巣を探る手つきの何気なさが魅力的だ。自らが病んでいることを自覚しなければ治療もありえないが、声高な宣告が逆効果になることも多々ある。“ゲーテッド・コミュニティ”をただ批判するのでなく、自由とプライバシーの悩ましい関係や、そもそも“リスク”は計算可能なのかを考えることで、その空しさに思い至る。あれほど世間を騒がせたインフルエンザは何だったのか、はたして「オバマ現象」は本物だったのか…時を経て冷静なコメントを読むと、頷くところが多い。人間は愚かなことを繰り返す生き物だ。

何が“愚か”といって、戦争を代表とする極限状況下では、人間は人間に対していくらでも残酷になれることが示されてきた。それも、SFが描くような何か人間外の存在が悪を働くというのでなくて、昨日までの善良な隣人あるいは自分自身がそうならないという保証がどこにもないことこそ最大の恐怖だ。自分だったら抵抗できるかというのは究極の道徳的問いだろうが、ミルグラムとかの心理実験の示すところでは覚束ない結論になりそうだ。

統計上そうならモラルなんて議論したって仕方ないという見方が成り立ちやすい。ここでバウマンは、没後半世紀、いまだ現代の予言者であり続けているアルベール・カミュを召還する。カミュは『反抗的人間』『シシュポスの神話』で正反対の人物類型を描いた。しかし、「われ反抗す、ゆえにわれらあり」と語ったカミュにとっては、人間の美も悲惨も両方手放さないことが生の条件である。無関心で塗り固めた自己肯定でもなく、自殺へといたる諦めでもない、中間の地点に踏みとどまること。それこそが真の反抗なのだから。

“論壇”馴れした人は最後のいまや時代遅れとも見えるヒューマニスティックな議論の展開に戸惑うかもしれないが、近頃の“人文書”になかなか見られなくなった“人間的”な要素は、“言葉の力”を信じるならば立ち返るべき原点ではないのだろうか。ここでのバウマンは、古きよき欧米の“知識人”として、ごくふつうの人たちに向けて語っている。その言葉ができるだけ広く届けばよいと思う。通勤電車で読み継ぐのにちょうどよい分量だった。


(洋書部 野間健司)



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2009年12月09日

『神と仏の出逢う国』鎌田東二(角川学芸出版)

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「神仏でにぎわう年末年始に!」

まさに「師走」の慌しさが追いかけてくる。しかし、これを乗り切れば、一年間おつかれさまでした、となる。
年末年始は、にわかに神とか仏が気になるシーズンだ。クリスマスという異国の神のお祭りもあるのでなおさらだ。

お寺に行くと、すぐそばに神社があったりする。あるいは、神社の中に別の神社があったりもする。日本の神と仏はやたらと混ざり合っている。

学校の歴史の授業で習った「神仏習合」ということなのだろうが、純粋を好む人には気持ちが悪い。少なくとも西洋の「宗教」という概念では理解できないような精神風土が日本にはある。

とはいえ、世の中では「仏」を求める人は仏だけを、「神」に焦がれる人は神だけに打ち込んでいるのかもしれない。後者は特に「国家神道」のイメージが邪魔をして、知識人であればあまり足を踏み入れない領域に見える。

神道は日本の基層にある民間信仰すなわちアニミズムであるが、明治政府の宗教政策によって「宗教」ではなく「習俗」ということになった。その結果、日本人の多くが「無宗教」を自認するにいたる「ねじれ」が、阿満敏麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)他に詳述されている。

近代化とともに「宗教」そのものが変容を遂げ、過去と現在をつなぐ精神的な紐帯が空洞化する。近代に合わせてつくりあげられた新しい「宗教」の虚妄性が明らかになるとき、われわれは「宗教」そのものを忌避するにいたる。そして空虚な「祭り」だけが残る。それはまさに「習俗」だ。

そんなモヤモヤに答えてくれそうな本があった。鎌田東二『神と仏の出逢う国』(2009.09 角川選書)である。

著者のことは別の本で知った。京都大学こころの未来研究センター教授であり、かつ法螺貝や横笛やギターなどの楽器に通じ「神道ソングライター」の肩書きで活動している。先祖は源義家の重臣だとか。面白い方である。

神仏習合を「出逢う」とやわらかく表現してるが、本書で打ち出されているビジョンは、すこぶる壮大なものだ。

まず神道は日本的精神性の大元にあるものだ。そこに伝来の仏教を受け入れた。当初から「仏」をも一つの「神」と見ていた日本的霊性の原点が明らかにされる。

以来、律令の昔から、(基本的に)現在にいたるまで、神と仏の両者は、互いに寄り添って、日本人の宗教観をかたちづくってきた。近年では、特定の教団を念頭としない宗教性を「霊性」(スピリチュアリティ)と呼ぶことが広く行われているが、著者の立場も、神道と仏教は、かたちは異なっても共通の霊性で結ばれていて、いわばモードの違いとして両者を位置づける。

著者は「神は在るモノ、仏は成る者」と表現する。神道は自然から発し、仏教は人間から発する。かたや常住、かたや求道。アプローチはちがっても、補完し合っているのだ。

そして未来へ。神仏はより「共働」を深めて、人類の普遍的霊性へと開かれていくとする。そこでは、宗教観の差異を超えて、平和や環境といった人類共通の課題に向けて、宗教者が手を取り合って行く。

本書の過半では、そこにいたるまでの日本の神と仏の歴史がスケッチされている。著者の力業で、ぐいぐい読ませる。

それはまさに、時代時代の政治権力を支える「神話」と不可分であった。

空海らの天才的なビジョンによって成立した、在来の土俗の神と国家鎮護を担う仏教の体制から、骨肉相食む末法の中世は、根源的一者を求める、伊勢神道、吉田神道、鎌倉新仏教のルネサンス。

それが近世、天下統一を成し遂げた徳川幕藩体制下では、東照権現ネットワークの下、宗教本来の活力は骨抜きにされる。

そして迎えた明治維新。明治政府は、信教の自由という西洋の基準を受け入れた一方で、「神仏分離令」、次いで悪名高い「廃仏毀釈」に走り、日本の宗教的古層を破壊する。神道は習俗であって宗教ではない、という不思議な論理は、大日本帝国憲法に成文化される天皇の「かつてない神格化」とセットだった。

それはまた、後の「国家神道」イデオロギーの元凶として(水戸学とともに)名指されることの多い「国学」の敗退でもあった。島崎藤村の名作『夜明け前』のドラマでもある。平田篤胤は霊界の研究にも打ち込んでいたというのが興味深い。その失われた「国学」の可能性を、柳田国男と折口信夫という極めて対照的な個性が引き受けた事実は注目されてよい。

そして、現代とは、「神」にとって、どういう時代だったのか。「憲法九条」にまで話が及ぶ著者の持論を、今上天皇ならば、どう聞くだろうかと興味を惹かれる。平和な世を願ってつけられたはずの「平成」は大乱世の始まりというのはその通りであろう。「失われた二十年」に続けて、何をなすかが問われている。

著者は、今こそ、神か仏かではなく、両者を包み込むスピリチュアリティ(霊性)を、と唱える。そのきっかけとして、寺社の別なく、まずは自分の足で聖地を歩いてみることをすすめている。実際、近年、伊勢神宮から比叡山延暦寺までの「神仏霊場百五十ヶ所」巡りが人気を集めている。

筆者も、ふとしたきっかけで、寺や神社を訪ねることが多くなった。歩いてみれば、そこここにある。むずかしいことを言わないで、歴史や先人の息吹に目覚めてみれば、見えなかったものが見えてくる。


(洋書部 野間健司)


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2009年10月31日

『マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統』ポーコック,ジョン・G.A.(名古屋大学出版会)

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良い行為もしくは正しい行為は、たとえ、それが神と人間に知られることなく、隠されたままだとしても、良い行為、正しい行為であるだろうか?(ハンナ・アレント「政治の季節」筑摩書房)

再びマキャヴェベリが静かなブームである。どうにも不安な世情であって、このとびきりの姦計家の言葉(傭兵信ずることなかれ)はたしかに身につまされる。しかし主著「君主論」はどこまでも虎穴における虎子のべからず集であって、凡人がここに何かを求めるのはお門違いというものだ。
。。。。従ってまさに厳密な意味において行為は<徳>である。世界が不安定化し、予測のつかぬ脅威がたえないとき、行為するー正統の構造に含まれていない何事かをなすーということは運命に形相を与えることであった。攻撃が価値の大部分であった。マキャヴェリが繰り返し<運命>を女性として描写するのはこれがあるのであって、確かにかれも耽っていなくはないとはいえ、エロティックな空想からではないのである。<運命>は力ずくで獲得できるかも知れない。しかしあなたが時間のなかで行動しなければーこれらの語は注意して受け取らなければならないー、彼女はあなたを滅ぼすだろう(159頁)。

いかんとも高尚な文章であって、その言わんとするところを簡潔に示そう。偉人であっても凡人であっても個人の徳(人徳)には限界があり、つまりその肉体性の限られた時間で生み出される徳には「何の意味もない」ということ。しかしそれでは身もふたもないこと。超克するために不死性としての共和国概念を考える人たちが現れること。

不死の救世主を抱く一神教の世界、キリスト教社会の中にあってこの甚だしく倒錯したユートピア像と異端性は隠しおうせない。それでも、シャルルⅧ世率いるフランス軍の到来を間近にしたサヴォナローラは、お家芸の陶酔と熱狂の弁舌を振るいはじめる。

「神は自ら罰するところの者を愛したまう、フィレンツェに神が訪れたまう、フィレンツェは選ばれし国がためなり」

要するに完全に狂っているのだが、サヴォナローラ当人にとっては敵軍の到来さえもが祝福された運命であり、その強烈な情熱が共和国フィレンツェの人心を熱狂に巻き込んだ。人間の自己複数性(plurality)から逃れ得て、自己一元化できる存在は神だけだ(同アレント)。この神権政治家にとって<北から来た王>はまさにダンテのエコーである待望の「神の鉄槌(flagellum Die)」に他ならず、神の予言が~それが良いことであろうと悪いことであろうが、かれにはどうでも良いことだ~成就されることへの倒錯的な興奮に身も心も包まれている。

。。。しかし個人が永遠の現在nunc-stansを知性の行為として主張しようと、あるいは信仰の行為として主張しようと、明らかだったのは、彼はそれを共有できないし、時間におけるある瞬間(moment)は他の瞬間に囚われている知性にとっては知ることができないということである。またそのような知性には究極的な重要性もなかった。。。。。すなわち、永遠は時間の生み出すものと恋に落ちるかもしれないが、しかし、時間の愛は受動的で不活発なのであった。(p.6)

習慣を捨てるのは~それが良いものであろうと悪いものであろうと~難しいものだ。道で先を譲る、婦人のためにドアを開ける、ホスト役に徹する。。。彼地で良しとされることが此地で奇異に映る。別段不思議な話ではないが、つまりは生身の人間であって変えることは容易ではない。何年も前からそうしたことを感じてきた。ホッブス的「万人の恐怖」が存在しない世界~つまりある制限と枠での平等の中~において「公的生活を律する徳とは、世界の中では孤独ではないと感じる喜び」(同アレント)であろうし、自己の複数性から逃れ得ないわれわれにとって、人間間にある中間的空間にだけ自由があるのだ。

(官公庁営業部 林茂)


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2009年08月27日

『ディオニュソスの労働―国家形態批判』アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート(人文書院)

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 神は、ディオニュソスに対して、山頂に石を積み上げる永遠の労働を命じた。石は頂上に積むたびに崩れ、山麓まで転げ落ち、いつまでたっても苦役は終わらない。同じように、「長い目で見ればわれわれはみんな死んでいるだろう」(J.M.ケインズ)から、不死である道徳体=政府国家は基礎的慣習を保証する機能を持たなければならない、と結論するに至る。ケインズ主義において国家が自ら生産的な主体とならなければいけないことを自認する瞬間であって、このミッション遂行においては、最高に効率的な遂行形態=戦争、と、曖昧で平和的な遂行形態=公共投資、は、徳のありようとしては本質的な違いはないのである。金融危機解決のための財政主導が各国で叫ばれたとき、われわれは戦争の到来を触覚すべきであって「100年に一度の危機」を連呼する政治家に対しての免罪手形など容易に与えるべきでないということを、今一度ケインズを読むことから認識する必要がある。

 同僚の誰かが協働の呼びかけをしたときに受ける感覚は、嫉妬や引け目のようであってはいけない。われわれ一人一人が学習できることなど限られているのだから、聡明な人間ほど耳と心を大きく開いて、まるで他人が自分のために働いてくれているように―それはきっとただの思い違いなのだが―錯覚できる確信犯の才能を有している。処世術としてのそうした真実。フラットな組織に属している人びとが、日々をどう感じて暮らしているのか。<フラット>とはホームレスと金持ちが共にいるミクロコスム、つまり明白な差異の別名であって、学校教育のせいにはしたくないけれど、そうした手解きは受けていない、と叫びたくなるはずだ、と思っていたら、どうもそうでもないらしい。

 そうしたことに気付くための本だ。楽に生きたい人は読まない方がいい。ミクロコスムとしての世界は自分の手である程度は決められる。時間はあなたを待ってはくれないが、それは今のあなたにはどうでもよいことだ。


(官公庁営業部 林茂)


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