« 日本文学(小説/詩/戯曲/エッセイ等) | メイン | 法律/政治/国際関係 »

2012年01月23日

『日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二(洋泉社)

日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ →bookwebで購入

「日本近世は何を護ったか」

 驚くべき本を読んでしまった。
 著者・渡辺京二(敬称を略します。以下同じ)には、江戸後期のユートピア社会を描いた名著『逝きし世の面影』があるが、本書も『逝きし世』に遡る作品として当初は構想されたようだ。室町後期から江戸初期、戦国乱世から徳川の平和社会へと至る時代を舞台としている。ところが、本書を『逝きし世』の世界を思い浮かべて手にすると、大きな肩透かし、というか強烈な「突き落とし」を食らう。とにかくガチガチに硬い。歯応えがあるのだ。『逝きし世』は外国人の日本滞在記から近世社会を描き出したものだが、本書は戦後歴史学が描き出した中世・近世社会像に対し、真っ向からの対決を挑んでいる。

 このガチンコ勝負には驚くほかない。
 本書末尾で、渡辺京二は「しんどい仕事」「難儀乏しからぬ旅」と吐露しているが、大変な喧嘩道中である。まるで「空手バカ一代」と形容したら失礼だろうか。徒手空拳、見知らぬ異国の地で道場破りに挑むような、無謀とも思える旅に読者は付き合わされる、網野善彦、朝尾直弘といった日本中世・近世史の大家を前に、渡辺は「戦後左翼史学は散々馬鹿の限りを尽くしてきた」「戦後の日本史研究には強いイデオロギー性がまとわりついている」と言ってはばからない。
 例えば、網野善彦の有名な所論に「無縁」論がある。中世社会において、領主制の束縛を逃れようとする民衆の「自由」を保証する場として、網野は様々なアジールの存在を提示した。それは、中世社会を家父長制的な奴隷制社会と見なしていた戦後歴史学に風穴を開ける、爽快な所論であった。しかし渡辺京二に言わせれば、網野善彦の主張には中世民衆の自由が武士階級による全国支配の完成を通じ圧殺されたという含意がある、徳川体制が武士領主階級による民衆の徹底的な抑圧体制であるという「古典左翼イメージに固執している」と遠慮なく指摘する。
 渡辺京二はただ闇雲に難詰しているわけではない。論証の仕方は緻密である。網野と同じ史料を読み、その解釈が成り立たないことを述べ、網野の理論構成が古典マルクス主義的であると捉える。そのうえで、マルクスが依拠した共同体論は今日否定されている、原始・太古の人民の本源的な「自由」など何の疑念もなく前提できない、その時代に「人民」がいたはずがないではないか、とパンチを浴びせ続ける。さらに、西洋中世史家の石井進が網野に問いかけた、縁切りとは中世人にとって喜ばしいものではなく「フォーゲルフライ(鳥のついばみに任せられる刑罰)」ではないか、という言葉から、ヨーロッパ中世社会との比較検討へと入り込む。堀米庸三、サザーン、ボスタン、ブルンナー、ホイジンガ、ブローデル、ハインベル。次から次へ「小技」が繰り出される。
 が、ちょっと待って、この人は何ものか!?並の学者をはるかに超える勉強量ではないか。日本史研究についても、笠松宏至、勝俣鎮夫、藤木久志ら「何人かの秀れた史家」の1990年代の新しい研究成果を押さえて所論を展開している。実に手堅いのである。「乱暴狼藉」の実相、武装し自立する「惣村」、「自力救済」の世界、「一向一揆」の虚実…。渡辺京二は、左翼的観念性に囚われた戦後歴史学が描き出した中世・近世社会像に異を唱え、捉え直していく。渡辺の手によって、中世社会の混乱から、近世の秩序ある世界へのダイナミックな変貌が鮮やかに浮かび上がってくる。

 驚くことはまだある。
 本書の終章は「日本近世は何を護ったか」である。通常の歴史書であれば、徳川の平和社会の成立を書き終えて、めでたしめでだし、『逝きし世の面影』のユートピア社会へと続く、で終わりであろう。ところが「何を護ったか」。どういうことだろうか。
 訝しく思いながら読み進めると、急転する。徳川の幕藩制権力は、イヴァン・イリイチのいうヴァナキュラーな(暮らしに根ざした固有の)自立・自存の枠組み、文明としての生活実体を統制・管理する志向を持たなかった、という。幕藩体制を絶対主義国家と捉える見方もあるが、それは単純な意味で近代への過渡であったのではなく、連続面と同時に断絶面があり、断絶面の方が重大な意味がある、として、カール・ポランニーの市場経済批判が引き出される。
 ポランニーは、市場価格によって統制される経済システム「自立調整型市場」の本質は、土地と労働を商品に転化するところにあり、それは人間関係を解体し、人間の自然環境に絶滅の脅威を与える結果を生み出さずにはいられない、と説いた。ポランニーの所説を踏まえ、渡辺京二は、徳川期では全国市場が成立していたが、幕藩制国家の干渉により土地と労働は全面的に商品化されることは決してなかった、とする。すなわち「何を護ったか」、徳川期の国家は産業と商業に全般的な繁栄をもたらしながら、人びとの自立・自存の基盤、ヴァナキュラーな社会的「共有地」に干渉せず、その価値の存続を許していたのだ、と新たな視点を提示する。
 読者は「なるほど」だけでは終わらないはずだ。その社会はもはや存在しない。つまり「逝きし世」である。では、近代をとうに過ぎた現代社会とは何であろうか。読者は、深い問いを突き付けられることになる。
 渡辺京二の肩書は「日本近代史家」とされている。自称のようだが、日本史学の枠組みを大きく踏み越え、縦横に議論を展開する本書でわかる通り、渡辺はそのような呼称に収まる著述家ではない。しかしまた、渡辺京二が問題としていることは、われわれ「日本人」にとっての「近代」である。ゆえに「日本近代史家」は正しいのだ、とも思われる。

 最後に驚くことに、本書『日本近世の起源』はいまや945円で手にすることができる。原本は2004年2月、弓立社から2,940円で刊行され、2008年7月、洋泉社のMC新書として復刊された。このときは1,890円であったが、同じ洋泉社から刊行の『黒船前夜』が2011年の大佛次郎賞を受賞したことを記念し、『日本近世』『神風連とその時代』『人類史とは何か』を併せて廉価版の「渡辺京二傑作選」として再刊された。三作は「日本近代史家」渡辺京二の真骨頂というべき、大変な傑作、労作である。出版社・洋泉社の驚きの英断であり、気概であろう。


(カタロギングサービス部 佐藤高廣)


→bookwebで購入

2011年10月11日

『民俗学とは何か―柳田・折口・渋沢に学び直す』新谷 尚紀(吉川弘文館)

民俗学とは何か―柳田・折口・渋沢に学び直す →bookwebで購入

「柳田国男による新しい歴史学」

 本書は民俗学の素晴らしい解説書である。評者は長年にわたり、民俗学周辺の著作を食い散らかしながら、民俗学とは何か、はっきりと分からないままできた。民俗学と文化人類学・民族学とはどう違うのか、歴史学との関係はどう考えるのか、柳田国男と折口信夫、また渋沢敬三や宮本常一、その後に出てくる宮田登氏や福田アジオ氏ら、数多の民俗学者はどういう関係にあるのか。本書を読むことで長らくの疑問が氷解し、満足感で一杯になった。著者の新谷尚紀氏に、深く感謝したい気持ちである。

 著者は語る。──日本民俗学はフォークロア(民間伝承学)でもないし、文化人類学でもない。柳田は昭和10(1935)年8月、民俗学の研究組織として「民間伝承の会」を創設し、学会誌として『民間伝承』を発刊した。この命名がとても紛らわしいのだが、民俗学は伝説や昔話の研究を行う学問というわけではない。柳田は民間伝承の研究によって、国史の中で跡をとどめることのなかった、名もなき民の姿を復原し、歴史の中に位置づけ、今日の生活に対する反省と、未来への判断のよりどころとすることを願い、新たな学問を作り出した。
 つまりこれは、文化人類学ではなく、歴史学である。狭義の歴史学はいわゆる文献史学であるが、そのアンチテーゼとして現れたのが柳田国男の民俗学であった。遺物資料を扱う考古学、民俗資料を用いる民俗学、そして文献史学、この三者が連携協業して開拓し、再構成していく歴史学が広義の歴史学となる。柳田による新しい歴史学、それは民俗を歴史資料として読む解く生活文化の変遷論であり伝承論である。列島規模での比較研究に基づき見えてくる地域差・階層差・時差をとらえる立体的な歴史学であり、さらに「ハレとケ」「常世とまれびと」等の分析概念を抽出する学問世界は、社会学や文化人類学にも通じあう世界となった。──実に、明解である。

 本書には具体的なエピソードも豊富である。──柳田国男は、民俗学を「象牙の塔」である大学の中に閉じ込めるのでなく、国民が広く研究に参画でき、広く共有された学問知識となっていくことを願い、あえて「民間伝承」と名乗った。しかし、他の学問との交流を行うにしても、科学研究費の申請にしても、「民間伝承の会」という名前では不都合である。「日本民俗学」への名称変更は避けらない事態となった。だが、畏れ多くて誰も柳田に言い出せない。女婿の堀一郎も説得できない中、期待に応えざるを得なかったのが折口信夫であった。
 昭和24(1949)年3月、折口は柳田の肖像画を届けに訪れ、談笑後、おもむろに名称変更のことを懇願した。それを聞いた柳田は烈火の如く怒り、テーブルにあった本を叩きつけ、「折口君、僕がどんな思いでこの民間伝承の会を作ってきたか、君なんかに分かってたまるか」と語気鋭く迫った。誰も見たことのない恐ろしい顔だった。折口は間をおいて静かな低い声で「一番よく分かっております。誰よりも一番よく分かっておりまます」と心にしみる返事をした。柳田は憮然としてその場を立ち去ったが、これは儀式であった。その後、別室の柳田はニコニコしながら「折口君はもう帰りましたか」と語ったという。柳田と折口には誰も入っていけない深い信頼と師弟の愛情友情があった。
 
 柳田国男は折口信夫のことを大変高く評価していた。柳田が73歳のとき、折口と自分との「智恵の開きの二十何年の差は情けない」「最初から信用しきつて居た方がよかつたと、思ひ当ることが毎度あつた」と語っている。柳田は折口のことを常に厳しく批判したが、それは折口の方法では一般の研究者には真似ができない、学習できない、という点につきたからだ。折口の文献や民俗への着眼と分析、立論は正確であったが、とても一般の人間にはできない、民俗学の後継者が育たない、巨大な国史学に立ち向かうためには、質的にも量的にも豊富な事例蒐集と、その帰納論的な分析の手続きが不可欠であった。聡明な折口はそのことを十分に承知し、柳田の独創性に啓発され、学恩への深い感謝の念を抱いていたという。──なるほど。

 著者は、日本民俗学は柳田と折口という二人の巨人を軸として誕生した学問である、と捉える。それを背後から協力し、経済的にも支援したのが渋沢敬三であった。渋沢は大正15(1925)年、私的な研究所「アチック・ミュージアム」を設立し、民具類の資料の蒐集整理と水産史の研究に着手した。アチック・ミュージアムは、いくつかの変遷の後、現在は神奈川大学常民文化研究所として運営されているが、渋沢は自身の研究の一方、多くの有能な人材への支援を積極的に行っていた。
 その中でも、とりわけ有名な民俗学者が「旅する巨人」宮本常一だろう。渋沢は宮本の不安定な生活と世俗の誘惑に乗りやすい人生のほとんどを大きく支え、守り育てた。渋沢は宮本に「君を軟禁する。私の許可なしに旅もしてはいけないし、他からの仕事も引き受けてはならない」「私は君の防波堤だ。君は防波堤がなければすぐにこわれてしまう」と諭したという。そして「どのようなことがあっても命を大切にして戦後まで生きのびてほしい。敗戦ともなってきっと大きな混乱がおこるだろう。そのとき今日まで保たれてきた文化と秩序がどうなっていくかわからぬ。だが君が健全であれば戦前見聞したものを戦後へつなぐ一つのパイプにもなろう」という言葉を残した。──その通りとなった。

 著者は、現代日本の民俗学がもっとも取り組む必要のある課題の一つは、およそ1955年から1975年にかけて起こった日本の高度経済成長と、それによる生活の大変化に関する研究であり、それを同時代的に追跡し分析していくことにある、という。評者は深く共感する。柳田国男が昭和4(1929)年から5年にかけて『明治大正史世相編』に取り組んだ意図や、そもそも民俗学を創設した意図にも通じるものだろう。
 その実践例として1997年から98年にわたって行われた共同調査『死・葬送・葬制資料集成』や、2007年度から2009年にかけて実施された国立歴史民俗博物館の「高度経済成長と生活変化」が挙げられている。この課題への取り組みは途上にあろのだろうが、やはりこれでは物足りない感がする。毎年3万人を超える自殺者を生むような不安な社会がどうして生まれたのか、社会経済要因やメンタリティにも深く踏み込んだ学問研究を望みたい。都市生活やサブカルチャー研究の成果への参照も必要になるのではないだろうか。過剰な要求かもしれないが、本書を読んで、民俗学の今後の活動に大いに期待したくなったゆえである。


(カタロギングサービス部 佐藤高廣)



→bookwebで購入

2011年08月04日

『バターン 死の行進』ノーマン,マイケル ノーマン,エリザベス・M.【著】 浅岡政子 中島由華【訳】(河出書房新社)

バターン 死の行進 →bookwebで購入

「日米戦争を交互の視点から捉える」

 アジア太平洋戦争におけるフィリピンでの日本人戦没者は50万人超であるという。凄まじい数字である。ただ、日本人は忘れがちだが、フィリピン人の犠牲はさらに上回り、当時の人口の7%に当る110万人の死者が出たという。他人の土地である。とんでもない数字と言うしかない。
 フィリピンでの日米戦争は、1941-2年の日本軍がフィリピン諸島を占領する前期と、1944-5年に米軍が反攻し、日本軍が殲滅される後期とに分けられる。後期については、大岡昇平『レイテ戦記』等の記録文学や、山本七平『私の中の日本軍』等の体験に基づく論考など、数多くの記録や小説が残されている。余りにも凄惨な戦いだったからである。学徒兵も多数動員された。しかし前期の戦いに関するものは、目にすることが少ない。先日、集英社から刊行が始まった『コレクション 戦争×文学』の第1回配本『アジア太平洋戦争』で、野間宏の短編「バターン・白昼の戦」が収められているが珍しい。前期の戦いも変わらず凄惨であった、とりわけアメリカ・フィリピン軍にとって。

 「バターン」とはマニラ南部にある半島であり、太平洋戦争初期、フィリピンへ進攻した日本軍と米比軍との間で激戦が交わされた地である。戦闘後、日本軍が「死の行進」を惹き起こしたことで「バターン 死の行進」とセットで呼ばれ、本書の和訳タイトルにもなっている(原題は"Tears in the Darkness"「暗涙」である)。日本軍は投降した米比軍兵士たちを、酷暑の炎天下、捕虜収容所まで約100キロの道程を徒歩での移動を強い、多数の死者を出した。本書では「戦争史上もっとも悪名高い」事件と記されている。
 本書『バターン 死の行進』は、アメリカ人ジャーナリストと歴史学者の夫妻が、十年以上の歳月をかけ、「死の行進」とそれに至るまでのフィリピンでの日米戦争、また行進以後の捕虜収容所の真相に迫ったノンフィクションである。日本人にとっては糾弾調の内容を恐れるが、至って公平に冷静に書かれている。「行進する」側と「させる」側、双方の視点で検証しようとしており、アメリカとフィリピンだけでなく日本人にもインタビューを行っている。その数は400人以上になったという。

 簡単に一行で済まされることが多いが、日本軍は楽々とフィリピンを占領したわけではない。1941年12月、本間雅晴を司令官とする第14軍はルソン島のリンガエン湾へ上陸、マニラへ進攻し、バターン半島での戦闘に至る。米比軍は首都マニラを無血開城したが、バターン半島には7万人以上が撤退し、豊富な物量で頑強な抵抗を示した。一方の第14軍は、大部分が蘭印・ビルマ作戦に抽出されてしまい、残存部隊と新たに派遣された老兵からなる旅団が当らざるを得なかった。日本軍は米比軍に包囲され全滅する部隊が出るなど、夥しい死傷者を出している。その様子が日本軍の兵士の視点からも描き出されていて、貴重である。
 1942年4月、米比軍は降伏するが、45日で攻略する大本営の目算のところ150日を要し、この不首尾から司令官の本間雅晴は更迭され、予備役へと編入されてしまう。この苦戦が日本軍の兵士たちの中に怨恨を生み、「死の行進」の原因の一つともなった。

 「死の行進」は、米比軍の食糧不足による栄養失調とマラリア等の疾病が蔓延する中で、日本軍による徒歩移動と虐待が追い打ちをかけたものであった。ここでも陰で立ち回っていたのが、悪名高い辻政信である。当時は参謀本部作戦班長であった。辻はバターン半島各地の野戦司令部を訪ね、戦場の連隊長に対し、捕虜を「情け容赦なく扱う」よう指示し脅していた。「情け容赦なく扱う」とは「殺す」ことである。このときは連隊の側から「正式命令ではない」と拒絶にあったというが。
 もちろん「死の行進」は辻一人に起因するものではない。日本軍の中に人命軽視や捕虜を侮蔑する発想があり、士官・将官にも国際条約への無理解・無関心があった。本書では当時の日本人たちを「地球上でもっとも視野の狭い人々」と記している。これに関して、日本軍の兵士たちが、なぜ殴ったのか、虐待したのか、その証言はなかなか聞くことができない。加害証言を得ることは難しく、BC級戦犯裁判の問題にも関わってくるからだろう(その点において、飯田進『魂鎮への道―BC級戦犯が問い続ける戦争』は稀有な記録である)

 加害者側の証言は、本書も同様にほとんど記載がないが、唯一、日本国内の炭鉱で捕虜を使役していた監視役の話が載せられている。当時、17-8歳であった彼の話では、イギリス人捕虜は規律的でよく働いたが、アメリカ人捕虜は一筋縄では行かず、彼を「小僧」扱いして「無視」した。一人前であることを示すために殴ったという。
 殴られる側の米軍兵士が本書の主役であるベン・スティールである。彼はモンタナ州のカウボーイだったが、生活のため陸軍航空隊に志願し、フィリピンへ赴任する。バターン戦を経て、日本軍の捕虜となり、「死の行進」を経験する。虐待の続く捕虜収容所と強制労働に耐え、遂には労働力として日本本土へ移送される。輸送船は人間がすし詰めにされた「地獄船」であった。日本では炭鉱労働を強いられ、広島のキノコ雲を目撃する。大変な体験だろう。戦後、彼は美術教師となり、日本人学生を教える機会があり葛藤するが、やがて憎悪の念が消えていることに気がつく。日本人としては、ホッとするエピソードである。

 本書の後段は「バターン 死の行進」の責任を問われた本間雅晴裁判の話となる。著者は、戦友を置き去りにしてフィリピンから逃走したマッカーサーに厳しく、道義的、政治的な責任はあっても法的な責任のない本間雅晴の方に優しいといえよう。マニラ軍事法廷をマッカーサーの「報復裁判」であると批判し、教養のあった本間の人となりと、その夫人を詳しく紹介する。本間の評伝である角田房子『いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝』が品切れとなって久しいので、現在、本間雅晴について読める著作は本書程度になる。ただ、戦犯裁判が本間裁判だけで終わり、一般のBC級戦犯に何も触れられていない点は不足の感がする。戦犯問題まで踏み込むと、一冊の範囲を大きく超えることは確かだろうが(BC級戦犯裁判について、最近の書籍では、中田整一『最後の戦犯死刑囚―西村琢磨中将とある教誨師の記録』が手に取りやすい。真摯に書かれているが、当書評空間では早瀬晋三氏から「戦争を知らない世代に推薦できるような本ではない」と手厳しい批判が寄せられている。併読をお薦めする。)

 アジア太平洋戦争は、とにかく膨大な犠牲者を出し、この地域に大きな傷跡を残した。本書を読んで、その一部を知るだけに過ぎないが、それでも知ることには意味がある。米比軍と日本軍、双方の視点から公平に捉えようとした本書は好著であり、足掛かりとして、ぜひトライしてみてほしい。


(カタロギングサービス部 佐藤高廣)


→bookwebで購入

2010年08月13日

『ノルマン騎士の地中海興亡史』山辺 規子(白水社)

ノルマン騎士の地中海興亡史 →bookwebで購入

王(女王)を選ぶ際に諸侯たちは、外国人だから、異教徒だから、まだ幼いから、体がデカイだけで馬鹿だから、辞めさせ易いはずと甘く考える。しかし一旦王権を手にするや、したたかな才覚を現す者が歴史に名を残すのだ。

ノルマンのイメージがわかり辛い向きのために、まずはヨーロッパの主要なノルマン遺跡を挙げておこう。まず有名なのはモン・サン=ミッシェル。世界遺産であってフランス観光の目玉のひとつ(因みにパリのオプションツアーで行くのは遠いし単調なバス旅だからあまりお勧めしない)。他には、シチリアのモンレアーレ、パレルモのノルマン宮殿、バイユー刺繍、カンタベリーの地下聖堂、などが良く知られたところ。南イングランドにもノルマン系地名やノルマン様式教会が多く残る。とりわけ退屈な世界史の授業で誰もが習ったであろう「ノルマン・コンクエスト」はノルマン王ウィリアム(ギヨーム)がヘイスティングスの戦いでハロルド王を倒しイングランド王となる物語だが、難攻不落のこの国を征服したのは前にも後にもこの王ただひとり。前述のバイユー刺繍にはこの戦争物語が長さ70mの絵巻物のように描かれていて(マチルダ刺繍と現地では言う)、彼らの遠い先祖、北方ヴァイキングの元来非文字文化がこの語り様にあらわれているとするのはMusset著The Bayeux Tapestry(Boydell)。

そんな北方にいたノルマン人が、どのようにして遠くイタリア南部及びシチリア島を支配するに至るのか?それが本書で「事実は小説より奇なり」と紹介し「起源においてきわめてロマンチック、影響においてきわめて重要だった」とエドワード・ギボンが語るロベール・ギスカールを中心とした物語だ。

スタートは、またしてもノルマンディーのモン・サン=ミッシェル寺院。その威容は広く知られるところだが、ミカエルが降臨したのはなにもこの地にだけには限らない。イタリア中部トスカーナ山中のガルガーノ(タルコフスキー「ノスタルジア」撮影に使用した場所だがこの映画でも主人公が故郷に帰ったと幻想しているラストシーンに使われている点に本書との符牒を感じるがそれを検討する素材は目下手元にない)にもこの大天使は舞い降りた。それならばと1016年には、ミカエル聖地巡礼のため40人ばかりのノルマン人巡礼団がこの地を訪れる。当時イタリアにおけるビザンツ帝国のプレゼンスはカラブリア、プーリアの地域、それにナポリ、アマルフィなどに過ぎないところである。メッシーナ海峡の向こうではムスリムがシチリアを占拠している。北にはランゴバルゴ人や教皇軍がいる。そういう時代。諸勢力はすべからく、魅力的な土地であるシチリア(「シチリアを理解しなければイタリアはわからない」とゲーテ)および南イタリアを手に入れたい欲望を抑えられない(Arnaldi//Italy and Its Invades//Harvard)。そうして殺戮のプロとしてのノルマン人に助けを求める。

イタリアにおける傭兵としてのノルマン人騎士がこうしてやおら表舞台に登場する。騎士と言っても実態は、戦勝後の略奪とレイプを専らの愉しみとする乱暴な連中だ。海軍は持たないので陸伝いにやって来た。当然、現地住民にとっては害虫の様な存在だ。しかし戦争のプロたるノルマン人は、当初は傭兵として、次第に有力勢力として地盤を延ばし、遂にはアブルッツィの狼と結託するノルマン騎士レイヌルフにおいてイタリアの地に自らの地盤を築くことになる。

続くオートヴィル家の登場。鉄腕ギョームの活躍。シラクサの占拠。情勢はどんどんノルマン人に優位に運んで行く。勢力はいや増すばかり。本書の主人公ロベール・ギスカールがアブルッツィの狼に師事し辣腕を研く。この戦いにおいてレオIX世にビザンツの援軍が到着しなかった事は、東西教会大シスマの引き金を引くことになるだろう。ノルマンの不敗神話のはじまり。シチリア各地では連戦連勝。遂にはパレルモ陥落に至る。ムスリム打倒の後にはビザンツを血祭りに上げよう、と気炎を上げる。この勢いは後に十字軍へも繋がることだろう。

物語は続く。武勇を誇ったロベール・ギスカールも終に戦死。紆余曲折の挙句、気高い男ルッジェーロII世が王位に就く。このときシチリア王戴冠式で使用されたマント(ウィーン美術史美術館所蔵)が極めてふるっているのだ!ブロンドの髪と見事な髭をたくわえた長身のノルマン王が、シチリアの地で絢爛なビザンチンモザイクの教会の中でイスラムのマントを羽織る!これほど刺激的な光景は他に想像できようか!バイユーで生まれたノルマン王の歴史がこのマントに結実している。1130年クリスマスの日にパレルモ大聖堂で行われたこの戴冠式は教科書だけでは学べないヨーロッパ文化の深さと面白さを象徴して余りある(桝屋訳//イスラム美術//岩波)。

最後にノルマンディーについて書こう。ヴァイキングである事を止めたノルマン人がキリスト教に帰依したニュー・フォロンティーアでありこの物語の主人公たちの真の故郷だ。ノルマンディーと言えば、有名なのはカマンベールチーズ。表皮が白いうちは若すぎるから少し茶色くなった頃合い(賞味期限2週間を切ったころ)がちょうど良し。日本人の「新鮮=うまい」の信仰はチーズには全く当てはまらないのだ。赤ワインでも勿論構わないが、ここはご当地同士の組み合わせでシードル・ブリュットと一緒に味わいながら本書を読むのがよろしい。歴史書だからといって肩肘張る必要はない。


(官公庁営業部 林茂)


→bookwebで購入

2010年06月16日

『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』デーヴィド・ハルバースタム(文藝春秋)

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争〈上〉 ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争〈下〉
→bookwebで購入〈上〉 →bookwebで購入〈下〉

 朝鮮戦争は、米国人にとって「忘れられた戦争」「歴史から見捨てられた戦争」であるという。米国と中国の参戦によって戦線は膠着状態となり、「Die for a tie」、引き分けるために死ぬ「二流」の戦争となった。しかし、著者ハルバースタムは、ベトナム戦争の取材時、関係者が漏らす朝鮮戦争に関心を持ち、長年の構想と調査の末、朝鮮戦争の記録と記憶を掘り起こし、歴史の中から拾い出した。著者のライフワークであり、「最高」と自認した作品であり、そして「最後」の著作となった。本書のゲラを校正した五日後、ハルバースタムは事故で急死してしまったからだ。

 朝鮮戦争は、日本人にとっては「ほとんど知らない戦争」である。歴史の教科書では半ページ程度で記載されるに過ぎない。──1950年、北朝鮮軍が38度線を越えて侵攻、韓国・米軍は釜山付近に追い込まれる。しかし、マッカーサーの起死回生の仁川上陸作戦が成功し、ソウルを回復、北朝鮮軍を中国国境付近に追い詰める。ところが、中国義勇軍の参戦により押し戻され、戦線は38度線付近で膠着、1953年、休戦し、現在に至る。

 次のような(初歩的な)疑問が思い浮かぶ。──第一に、第二次大戦でドイツ・日本軍を圧倒し、敗戦に追い込んだ米軍が、なぜ北朝鮮・中国軍に苦戦したのか。また、仁川上陸作戦は「マッカーサーの生涯に軍事的に天才だったといっていい一日」と言われるほど、奇跡的な成功をなぜおさめたのか。そして、「義勇軍」と名乗った中国軍の参戦とはどういうものであったのか。義勇軍とは「有志人民が自ら組織した戦闘部隊」(広辞苑)である。──本書を通じて疑問は明快になるが、それだけではなく、米軍兵士の視点、マッカーサーら軍司令官の視点、トルーマン・スターリン・毛沢東ら各国指導者の視点、多方向からアプローチされ、きわめてリアルに立体的に、朝鮮戦争を捉えることができる。

 米軍はなぜ苦戦したのか。──1950年当時、米軍は大規模な軍縮下にあった。韓国に派遣された師団は在日米軍中の「最弱」しかも戦備も最低だった。それでも米軍全員が「任務は短期で終わる」と楽観的に考えていたという。第二次大戦後の慢心と、アジア人に対する人種差別意識があった。開戦時、米軍の2.36インチバズーガ砲は、北朝鮮軍の旧式ソ連製のT-34戦車に歯が立たず、最初に接遇した部隊は壊滅、「第一級のマグニチュードをもった」大惨敗を喫した。加えて、マッカーサーとその幕僚たちの暴走や迷走。東京の米軍司令部は、中国軍の参戦後、その戦い方を研究せず、「東京の命令に戦場の現実をあわせる」事態となっていた。

 仁川上陸作戦はなぜ成功したのか。──今度は北朝鮮側の慢心であった。中国から軍事情報が提供され、危険が指摘されているにも関わらず、金日成は上陸作戦の検討を拒んでいた。仁川港には機雷敷設をせず、警戒をまったく怠っていた。仁川の成功は「金日成が切れ物の敵将ではなかった」ことが大きな要因だった。ところが、味を占めたマッカーサーは次に奇怪な作戦を実行する。上陸部隊の半分を引き上げ、朝鮮東海岸の元川への再上陸作戦を決行した。さすがに二度目はない。元川港には機雷が敷設され、上陸に手間取る間、船内待機の海兵隊員に赤痢が流行、屈辱的な「まぬけ作戦」に終わった。仁川作戦を頂点に、マッカーサーの凋落が始る。尚、本書には記載がないが、元川上陸では、日本に機雷除去の協力要請があり、旧海軍部隊から成る「特別掃海隊」が極秘活動を行っている(増田宏『マッカーサー』中公新書)。朝鮮海域での事実上の戦闘行為であり、看過しがたい史実がある。

 中国軍はなぜ参戦したのか。──毛沢東は冗談で「1.5人が決定した」と言ったという。毛沢東自身と半人分は周恩来である。大きな理由に台湾があった。マッカーサーは台湾を不沈空母といい、国民党軍へテコ入れしての大陸反攻をチラつかせていた。これでは中国内戦が終わらない。だが、空・海軍力のない中国は台湾に対して行動できない。そこで、毛沢東は兵站面で有利な朝鮮半島での対決を択んだ。また、朝鮮戦争を通じ、毛沢東の共産党支配を拡大でき、中国人民に世界での活躍をアピールできる。毛沢東の政治的読みから(事実、読みは当った)、米軍を怖れる林彪らの反対を押し切り、中国は36個師団70万人を超える大兵力を投入した。

 しかし、本書は朝鮮戦争の通史というわけではない。米・中が対峙し膠着状態に陥った1951年の春以降はわずか一章で記されるに過ぎない。韓国軍の動静も記載がない。「韓国軍が全然役に立たず、いつも敗走していたばかりのように読めるが、それも事実ではない。むしろ、韓国軍の兵士が戦争の過程で北朝鮮に対する敵対意識を持たざるを得なくなり、分断後の政治・社会的基盤が作られることになる」といった指摘がある(石坂浩一「週刊読書人」2009年11月6日書評)。激戦下の韓国・朝鮮の一般市民の様子も語られない。戦火の中を逃げ惑い、大変な恐怖と混乱の下にあったはずだ。

 だが、そうした問題は他書に譲るべきかもしれない。本書は、米国人の見た朝鮮戦争であり、戦争がなぜ拡大するに至ったか、米国の視点から追及した書になる。それは、著者ハルバースタムが、まず自国=米国への批判を念頭に持っていたからにほかならないだろう。ハルバースタムは、朝鮮戦争とその後のベトナム、ボズニア、さらにイラク戦争等に同根の問題があると捉えていた。いずれも、政府指導者の「誤算」の連続によって多くの死者を生み、戦争は泥沼と化した。

 この点において、本書で特に告発の対象となるのがマッカーサーである。米軍中、最高の軍歴と人気を誇った司令官について、ハルバースタムは「母親によって彫刻されたモンスター」「必要以上の敵を作る偏執症の将軍」「この国でもっとも厚かましい部類に入る人物」として描き出す。もちろん、毛沢東・金日成・スターリンらの共産主義国家の独裁者と違って、マッカーサーが昨日までの盟友を死に追いやったり、反対者の粛清を命じたことはない。しかし、独走するマッカーサーは、トルーマン大統領を軽侮し、米政府の意向に従わず、文民統制から逸脱しつつあった。著者は、解任されたマッカーサーが上院聴聞会でその嘘が暴かれるまでを徹底的に追い詰め、ジャーナリズムの良心を読者に伝える。

 訳者の解説にもある通り、本書を本当に価値あるものにしているのは、米軍兵士への膨大なインタビューによって戦場の現実を再構成したことだ。「平凡な一般人の崇高さに敬意を抱く」ことを大事にしたハルバースタムが、十年以上の時間をかけ、ひとりひとりに聞き取り記録した。米軍兵士が如何に苦戦したか、かれらは苦渋を持って語る。──マッカーサーの誤算によって、兵士たちは朝鮮北部の厳冬下、夏服のまま進攻を命じられた。幕僚の愚策により、部隊は分散され、孤立状態にあった。そこにチャルメラの不気味な音を響かせ、中国の大軍が襲い掛かる。中国軍は軽装備だったが、国民党軍との内戦で鍛えられていた。白昼は姿を隠し、夜に音も立てず移動した。日米戦争で圧倒的な力を見せつけた米国の空軍力も決定的な効果を持たず、朝鮮の山岳地帯での戦車の移動は困難をきわめた。北部からの細い退却路は殺戮の「ゴーントレット(鞭打ち刑場)」となった──。歴史の解釈は、今後、変わるかもしれない。だが、兵士たちの肉声は不朽である。

 朝鮮戦争での米軍の死者は3万3千、負傷者が10万5千。韓国軍の死者が41万5千、負傷者が42万9千、そして中国・北朝鮮軍の死者は秘匿されているが、米国の当局者によれば、驚くことに150万人にのぼるという。この数字の持つ意味は重い。米軍以上に韓国軍に多くの死傷者が出ており、中国・北朝鮮軍ははるかに上回る。「人海戦術」のもと、物量で勝る米軍の集中砲火にさらされ「ゼリー状の死」を遂げた中国軍兵士たちが、如何に凄惨な状況に置かれていたのか。おそらくそれは記録に残されない。しかし過酷な日米戦争を経験したわれわれ日本人は、誰よりもよく知っている。このことも決して忘れてはならない、歴史から見捨ててはならないだろう。


(営業企画部 佐藤高廣)


→bookwebで購入

2009年08月13日

『マッカーサー』増田弘(中公新書)

マッカーサー →bookwebで購入

「目からウロコの日米戦争史」

 マッカーサーといえば、コーンパイプをくわえて厚木飛行場へ降り立つ姿が有名だろう。余裕にあふれた勝利者の姿だ。しかしその行動はチャーチルに言わせれば「戦争中の数々の驚きの中で、もっとも勇敢なものである」というのだ。日本の降伏から二週間。米軍が占領しているわけでもない敵地だ。しかも厚木は徹底抗戦を唱えた海軍航空隊の根拠地であった。そこへ先発隊がいるとはいえ、数十人で降り立った。マッカーサーはとてつもなく勇敢で決断力に富み、また演出力に長けた軍人だったのである。マッカーサーの人物を象徴していて、「なるほど」と膝を打ちたくなる話である。

 そのマッカーサーとは、米陸軍士官学校をかつてない最高成績で卒業した最高級エリートである。父親も米陸軍高官だった。しかし彼は、見知らぬ者との会食を嫌う、自己意識過剰の非社交的な人物だったという。彼の医務官によれば「当惑し、恥ずかしかったから」らしい。マッカーサーは他人とはすぐに打ち解けない内向的な人物だった。これもまた驚くような話であろう。


 本書の功績は、マッカーサーの取り巻きグループ「バターンボーイズ」を初めて詳細に考察したことにある。そこで明らかにされるマッカーサーをめぐる人間模様、上司へ取り入る組織人の姿は興味深い。しかしそれ以上に本書の功績は、日本占領以前の「知られざるマッカーサー」を掘り起こしたことにある。読者は、米国軍人のリアルな人物像、また戦争への取り組み姿勢を知り、太平洋戦争史を米軍の視点から捉え直すことができると思う。

 例えば「玉砕」について。日米開戦後、米フィリピン軍はバターン半島とコレヒドール島へ追い詰められる。弾薬と食糧を欠き、その様相は戦争後期の日本軍の数々の島嶼戦を思わせる。マッカーサーは部下に最後まで戦うことを命じ、自身も一兵となってまで戦うことを決意した。まさに玉砕戦である。しかしルーズベルト大統領は、マッカーサーへの脱出命令と、現場での降伏の許可を下す。日本軍とは違い、米軍は玉砕しなかった。どちらが歴史的に正当だったか、明白であろう。

 それから「油断」。命令を受けたマッカーサーはどうやってコレヒドール島を脱け出したのか。航空機か潜水艦か。いずれも否。マッカーサーたちはPTボート(魚雷艇)四隻に分乗してフィリピンを離脱した。大胆で危険な選択だった。快速とはいえ、戦闘力に乏しい小艇である。日本軍に見つかったら、ひとたまりもなかったはずだ。実際、日本の巡洋艦に遭遇し、息を潜める事態になった。ところが日本軍はボートを見つけることはなかった。奇跡的な脱出劇だった。日本軍は完全に裏をかかれたのだ。この緒戦の油断が、やがて全体の綻びへ繋がっていくことは、歴史が語る通りである。

 そして再度「勇気と決断」。戦争後期のレイテ海戦。マッカーサーは米軍が上陸中のレイテ湾へ日本の戦艦が一隻でも侵入すれば作戦が失敗に終わることを悟っていた。だが日本の栗田艦隊はレイテ湾へ突入せず、反転した。多くの人が知る史実だが、マッカーサーの視点から眺め、また彼の圧倒的な決断力を知ることで、我々日本人はあらためて嘆息することとなる。


 本書『マッカーサー』は五百頁に迫る大冊だが、鏡の向こうの世界を知るようで飽きさせない。目からウロコの思いがしばしばだった。アジア近代史・太平洋戦争史、そして危機下の人間の行動について関心のある方に、おすすめの一冊である。


(営業企画部 佐藤高廣)


→bookwebで購入