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2013年08月29日

『言語学の教室―哲学者と学ぶ認知言語学』西村義樹・野矢茂樹(中央公論新社)

言語学の教室―哲学者と学ぶ認知言語学 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「哲学と言語学の幸福な対話」

今年は現代言語学の祖フェルディナン・ド・ソシュールの没後百年。大学で言語学を勉強したわけではないけど、『一般言語学講義』を読むゼミに参加したのは楽しい体験だった。担当の先生がよく言っていたが、そもそも言語とは何かということを、同じその言語で語るということが、どうしてもむずかしい。ソシュールはその問いのまわりをぐるぐる回って、結局自分では「一般言語学」の構想を完成させることができなかった。没後に弟子たちがまとめた(恣意的な編集を多数含む)講義録が二十世紀の思想に多大な影響を与えるわけだが、百年たってもソシュールが立ち止まったところに何か大切なものがあるような気がする。

本の世界から見ると、言語は面白い対象なのに、「言語学」の本というと、ますますマニアックな、大学で習わない限りは縁遠いものになっていそうなのが残念だ。ソシュールは思想に興味のある人なら誰でも知っているのに、その後の言語学についてはチョムスキーの名前は聞いたことあるけど…ぐらいの人が多い。もちろん、たまに広く話題を集める「言語」の本は出るが、アカデミックな「言語学」とは交わらない場合が多いようだ。本当は、言語学者がもっと外部に開かれた見通しのいい入門書を書いてくれたら一番いいのだが、どうしてもこのごろ言語学は言語学の中に閉じているような印象を拭えない。

だから、中公新書で『言語学の教室』が店頭に並んでいるのを見たときは何ともいえずワクワクした。新書で言語学が取り上げられるのも何年かぶりだが、新書の老舗たる中公新書のクオリティには期待せざるをえない(今年は西垣通『集合知とは何か』もあった)。そして、副題に「哲学者と学ぶ」とあるように、共著者として哲学者の野矢茂樹先生が加わっているのがさらに期待をそそる。野矢先生といえば、誰にもわかるやさしい言葉で哲学を語りつつ、あくまで哲学問題そのものを考える姿勢を貫いている。まさに「哲学すること」の見本を示すかのような講義にも著作にも魅了された人が多いはずだ。その野矢先生が、なんと「生徒」役で、言語学者の講義を受けるという対談形式の本。面白くならないわけがない。

受けて立つ言語学者の西村義樹先生は、「認知言語学」の専門家だ。認知言語学は八十年代に産声を上げた比較的新しい学問だが、二十一世紀の言語学の世界では大変人気がある。二十世紀半ばにチョムスキーが創始した生成文法は、言語を生み出す人間の心の仕組みを解明しようとしたのが画期的だったが、実際の言語コミュニケーションの要である「意味」の扱いが弱かった。生成文法へのアンチテーゼ的に登場した認知言語学は、人間の幅広い認知の営みのなかで言語をとらえる。例えば、言語に偏在しているメタファー(隠喩)やメトニミー(換喩)といった比喩の言語は、わたしたちが世界に「意味」を読みとる心の働きを示す窓となっている。

言葉の不思議に目を開かれるには、実例で示すのが一番だ。例えば、日本語では「雨に降られた」「彼女に泣かれた」とは言うが、「財布に落ちられた」とは言えない。外国人の日本語が堪能な人でもよくこういう間違いをするそうだ(ベストセラー『日本人の知らない日本語』に出てきそうだ)。われわれだって、外国語を習うときにこういう規則かと思って当てはめてみると「ネイティブはそんなこと言わない」とよく注意される。そのたびに割り切れない思いを抱えながら覚えるしかなかったわけだが、それが実は認知のちがいに根ざしているのだと説明できるとしたら、ずいぶんスッキリするではないか。他にも何気ない日常の言葉から、わたしたちの世界とのかかわり方にまで話が広がる、魅力的な例が目白押しだ。これはもう具体的な対話の中で話題にする手つきからしてどんどんワクワクする世界なので、ぜひ本文を読んでいただきたい。

言語は世界をそのまま表すものなどではなくて、どうしたって話者の見方や解釈までも含み込んでしまう(それも含めて「意味」なのだ)というのが、認知言語学の創見だった。「文法」さえも純粋な構造ではありえず、「意味」の一部であるという渾然一体ともいえる言語観。これはある種の人にとっては衝撃的な見方かもしれない。認知言語学としばしば対立的に語られる生成文法では、意味を形式的客観的なものと考える。生成文法が人類に共通の生得的な「普遍文法」を仮定し、「客観性」や「科学」への志向が強いのに対して、認知言語学はどちらかというと「多様性」に寄り添い、言語に否応なくあらわれる「主観」に目を向け、言語・文化・認知の差異を読み込む「言語相対主義」にも理解を示す。言語をどう見るかということは、「真理」「客観性」をめぐる現代の科学や哲学の議論とも密接にかかわっているので、論争を呼ぶテーマだ。

実際のところ、哲学者の野矢先生が認知言語学に期待するのは、認知言語学の持つ哲学的な可能性のようだ。もともと認知言語学の源流のひとつとして、野矢先生もよく考えてきた後期ウィトゲンシュタインの思想があると言われている。本書の前に発表した『語りえぬものを語る』(講談社、2011年)では、まさに「語りえぬものについては沈黙しなくてはならない」と語った前期ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)の限界から出発して、後期ウィトゲンシュタイン(『哲学探究』)の展開に寄り添いつつ、その先を考え続けて開けてきた「哲学的風景」を見せてくれている。世界は観点によって異なった「相貌」を持って「立ち現れ」てくると言うとき、また認知言語学のカテゴリー観の中核を成す「プロトタイプ」について、そこにはわたしたち自身の行為に関連づけられる「典型的物語」が含まれていると言うとき、野矢先生は認知言語学の言語観に近づいているだけでなく、まさにそこに新たな「相貌」を付け加えている。

そして、言語学者の西村先生も、野矢哲学の展開に認知言語学に通じる問題意識を感じて、追いかけていたという。この深い共鳴関係があればこそ、本書の対話は実り多いものになっている。ただ和気藹々としつつも、馴れ合いとはちがう。野矢先生は「生徒」役といっても、随所で「素人考えですが」と、どんどんツッコミを入れる。これがけっこう本質的というか痛快というか、ときに学門の前提を揺さぶるところまで行くので、西村先生も思わず考え込んでしまったりする。新書とはいえ、専門家同士の真剣勝負を見せてもらっているのだ。ややハラハラしながら対話の中にぐいぐいと引き込まれて、気がつくともはや入門ともいえないような深みに誘われている。西村先生もすばらしいのは、野矢先生のツッコミを適当にかわさず正面から受け止めていること。「それは考えたことがなかった」と率直に認め、可能な枠組みの中で考え直そうとする。もちろんそれですべて解決するわけではないが、問題が共有されているたしかな手応えがある。ここにいたるまでがいかに大変なことか、本書の付録である「対談のひとこま」を読むと実感できる。

異分野間の対話というのは、本当にむずかしいことなのだろう。これも最近出た『科学を語るとはどういうことか:科学者、哲学者にモノ申す』(河出ブックス)という本がやたらと面白かったのだが、こちらは喧嘩っ早い科学者の口撃に哲学者がじっと耐えているという構図がいろいろと考えさせられるけれども、いわばプロレス見物の楽しさであって、対話が成り立っているとは言いにくい。ずっとスレちがい続けていて、スレちがっているという一点において両者は一致しているという案配。それでも、ここまで読ませる対話を成り立たせるためには、相当の下準備が重ねられた模様だ。それに比べると、本書は前提のちがいはあれど目指すものが重なっている二人の対話である。西村先生はときに「立ち往生」しつつも、「どんなに容赦のない反論でも、野矢先生の口から発せられると、ネガティブな打撃にまったくならないどころか、新しい視野が開かれていく爽快感」があったという。これである。いまどきはSNSで「論争」をする人が多いが、どれだけそういうやりとりができているだろうか。

分野間の対話もむずかしいが、同じ言語学の中でも話が通じ合わないように見えるところがけっこうある。その代表的なものが、近年では、生成文法と認知言語学の間の壁だろう。本書でも生成文法との対比は再三問題になるところだが、結局は見ようとしている部分のちがいであって、両者は「相補的」で「共存共栄」していけばいいのではないかという大人の結論になっている。筆者も縁あってこの十年ほど言語学の本をよく見てきて、いろいろな議論を読んできたが、生成文法か認知言語学かというのは結局、言語観のちがいもあるが学問観や人間観の問題になってくるのだろう。それぞれの志向性に応じて選んだらよいと思う。これは野矢先生の『語りえぬものを語る』で語られていた「相対主義」の語りにくさとも通じていて、ていねいに解きほぐすのは本当にやっかいな問題なのだけど。

本書の美点は、やはりこの対立する見方も含めてオープンな議論を繰り広げているところで、そのように語ることによって「言語現象に対する新しい見方を与える」認知言語学の魅力を十分に伝えることができている。最後に野矢先生が「言語学は実証的な科学なのか、というのはそれ自体とても大きな問題ですよね」と重要な問題提起をしている。「科学」であろうとして切り捨てているものがあるのではないか。実際のところ、言語というものに厳密な規則性や再現性は求めがたいのではないか。むしろ言語は常に変化する、「ゆらぎ」を含んでいるという認識から、真の意味での言語の「創造性」に迫りうる道が開けるかもしれない。そうした新たなる言語観への期待とともに、本書は閉じられる。

巻末の「さらに学びたい人のための文献案内」(西村先生の研究室の大学院生、長谷川明日香さんが作成)にも触れておきたい。これは素人目から僭越ではあるが、絞り込み方、バランス感覚においてすばらしいものだと思う。こういうリストは往々にして網羅的になりすぎて、結局どの本を読んだらいいわからなくなりがちだからだ。このコンパクトな16冊の選書の中で、認知言語学の教科書や古典だけでなく、認知言語学の誕生以前に日本で独自に育っていた底流(佐藤信夫のレトリック論や池上嘉彦の意味論)にも触れられている。アメリカで生まれた認知言語学が、わずか十年ほどで日本でも一大勢力となったのはゆえなきことではないのだ(レイコフの『認知意味論』の原書刊行が1987年、日本認知言語学会発足は2000年)。

それだけでなく、認知言語学の立脚点を知るために、対立する生成文法の本も紹介している。たしかに、昨年邦訳が出たセドリック・ブックスの『言語から認知を探る』(岩波書店)は、チョムスキー学派の若き俊英が書いたテキストだけあって、「科学」としての生成文法(近頃は「生物言語学」とも称する)の才気溢れるプレゼンで、言語観のちがいを越えて生成文法の目指しているものがよくわかる良書だ。スティーブン・ピンカーの『言語を生み出す本能』は生成文法を世に知らしめるのに近年もっとも貢献した名著だが、その後の『思考する言語』でちょっと軌道修正したり、認知文法を取り上げたことは意外と知られていない。その文脈では、『言語を生み出す本能』の強すぎる普遍主義の主張へのニュアンス豊かな異議申し立てになっている、昨年邦訳されたガイ・ドイッチャーの『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(インターシフト)に触れられているのもうれしい(同書は著者の人文的教養の豊かさにも感銘を受ける)。

さらに言えば、やはり昨年邦訳されて読書界の話題をさらったダニエル・エヴェレットの『ピダハン:「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)も挙げておきたい。滅法面白いエピソードに彩られた特異なフィールドワークであるとともに、西洋的な「普遍」信仰をも揺さぶる異色の著作である。キリスト教を広めるためにアマゾンの先住民ピダハンの村に入った宣教師たる著者の使命は、聖書をピダハン語に翻訳することだった。言語学者としてのトレーニングを積み、生成文法の理論にもとづいてピダハン語を研究し続けたが…ピダハンの特異な精神世界はキリスト教を受け付けず、かれらの言語は「普遍文法」に当てはまらない例外づくめ。ピダハンの暮らしに深く入り込んだ著者は、ついにはキリスト教と普遍文法への信仰をともに放棄するにいたる。その「普遍文法」批判の主張について、チョムスキーやピンカーらがこぞって否定しようとしたことでも注目を集めた。『ピダハン』はどちらかといえばノンフィクションだが、昨年、それとは別に、エヴェレットの言語論を一冊にまとめた”Language : A Cultural Tool”という本が出ている。文化が文法に影響を与えるという言語観、言語学は人類学であるべきだという学問観は、認知言語学(とその源流)とも通じるところがあるはずだ。関心のある向きは参照されたい。

このように、本書を足がかりに言語学の本を学んでいくのもいいし(長谷川さんの文献案内にも触れられている大堀壽夫先生による「認知言語学・文献案内」には姿勢も含めて教えられる)、筆者は野矢哲学の魅力を再発見し、文献案内の最後にある『語りえぬむものを語る』を貪るように読んだ後は、長らく挫折していたウィトゲンシュタインの原書(ドイツ語)に再挑戦することとなった。どこまでも続く広い風景を開いてくれた、小さな一冊に感謝したい。


(営業企画部 野間健司)


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