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2012年10月10日

『生きる技法』安冨歩(青灯社)

生きる技法 →bookwebで購入

「自己嫌悪ワールド」からの脱出」

今年話題を集めた『原発危機と「東大話法」』(明石書店、2012年1月) という本は、あの「3.11」であぶりだされた日本社会の病理を「言語」の問題として看破したのが衝撃的だった。自らの「立場」のためには、当然のように「名」を偽り、責任の主体を隠蔽し、既定の路線をロボットのように邁進するエリートたち。こんな「いつか来た道」を繰り返させているのが、彼ら自身を呪縛している「欺瞞の言語」の体系であるという慧眼。そこには、学問は意味そのものについて語ることはできないが、それを阻むものの正体になら迫ることができるという著者の深い哲学が込められている。

遅ればせながら、先頃ようやく過ぎ去った長い残暑の中、この著者、安冨歩先生(東京大学東洋文化研究所教授)の一連の著書を読み漁っていた。安冨先生の言葉は、言われるところの「東大話法」とは対極で、学問を積んだだけでなく真摯に自己や他者と向き合ってきた思考の生々しさに惹かれる。中でも、『生きる技法』という本には、自分が立っている地面がすっかり揺り動かされるような感じがあった。比較的紹介されることの少ない本なので取り上げておきたい。

(「東大話法」については、『原発危機と「東大話法」』の続編にあたる『幻影からの脱出』(明石書店、2012年7月)、また普及版でもあり実践編でもある最新著『もう「東大話法」にはだまされない』(講談社、2012年9月)も、それぞれ読み応えがあるので参照されたい。)

『生きる技法』(青灯社、2011年12月)は、この直球すぎるとも思える表題に、著者の本気を感じる。著者によると、エーリッヒ・フロムの名著『愛するということ』の原題The Art of Lovingが意識されていて、すなわち英語ならThe Art of Livingということになる。「生きる」という動詞的表現に、静止した完成形でなく求め続ける生のダイナミズムがみなぎる。本書は著者自身が長年苦しんだ結果、「誰も教えてくれなかった」から自ら見つけるしかなかった「生きる技法」の「まとめ」である。自分のために考えたとも言えるが、読者にも「かなり使える」ことが意図されている。

簡潔な「命題」とその解説がテンポよく書き連ねられた本書は、きわめて読みやすい。しかし、それぞれの「命題」はいわゆる「常識」の逆を行くものばかりである。

「【命題1】自立とは依存することだ」

ふつうは「自立」と「依存」は正反対の概念と考える。まして「自己責任」が叫ばれがちな世の中だ。著者も「自立とは依存しないことだ」と長らく信じていた。それが180度ひっくりかえる体験をした。教えられる例はあった。重度の障害を抱えながら、多くの人の世話になって一人暮らしを実現した人。お金を一切使わなくても、多くの人との信頼関係に支えられて生活できた人。もっとも、これらの人たちは一見特殊で、わがこととして考えるのはむずかしい。

実は著者自身の人生も、公私ともに順風満帆に見えて、生まれたときから目に見えない「呪縛」に囚われていた。そこから自由になるためには、なんと配偶者や両親との関係をも断ち切らねばならなかった。しかし、そこまで勇気を持って踏み出したことによって、依存することに「罪悪感と不安」を感じなくてすむような、新しい人間関係を構築することができた。

こうして著者が考えるにいたった「生きる技法」とは、机上の空論などではない。生々しい実践の積み重ねによって磨かれてきた、切れば血の出るような言葉で綴られている。きわめて簡潔ながら、自分がそれを「生きた」のでなければ、安易に「納得」できる性質のものではない。

「自立」するために「依存」しなくてはならない。とすれば、まず必要なものは「友だち」である。しかし、友だちについても、著者は「【命題2】誰とでも仲良くしてはいけない」という。それはなぜかといえば「破壊的な構え」を持つ人に近づいてしまうからである。「破壊的な構え」を持つ人は、「自分より弱い人を躊躇なく攻撃」する一方「自分より権力を持つ者に(略)躊躇なくこびへつらう」(「東大話法」の使い手でもありそうだ)。誰とでも仲良くすると、必然「破壊的な構え」を持つ人の方に吸い寄せられ、彼らの「支配―被支配」の構図に取り込まれ、あなたの資源を奪われるだけなのだ。

対照的に、「創造的な構え」を持つ人は、他人に勝手な像を押し付けず、お互いを人間として尊重しあうが、時には対立も辞さず(その結果)動的な調和をもたらす。そのような人のみが「友だち」と呼ぶに値する。(安冨先生のこれも快著である『生きるための論語』(ちくま新書、2012年4月)を読むと、「破壊的構え」を持つ人は「小人」に、「創造的な構え」を持つ人は「君子」に当てはまる。また、この本では「和」を「動的な調和」をもたらす「対立」とも読み替えているのが興味深い。)

この「創造的な構え」と「破壊的な構え」の区別をより明瞭にしてくれるのが、「自愛」と「自己愛」、「愛」と「執着」の区別である。

・創造的構え ← 愛  ← 自愛
・破壊的構え ← 執着 ← 自己愛(自己嫌悪)

ここでいう「自愛」は文字通り「自らその身を大切にすること」であり、自分を自分としてそのまま受け入れることである。自分を好きになれなければ、人を愛することもできない。逆に、「自己愛」(ナルシシズム)は「自己嫌悪」から発する。他者に押しつけられた像をあるべき姿としてしまった人は、その理想像と自分自身のギャップに耐えられない。それを埋め合わせるために自らを「偽装」して「自己愛」に浸る。その「偽装された幸福」を維持するのは絶えず不安がつきまとうから、自分にない美点を相手に求めて虚しいプライドを満足させる。これは単なる「執着」であって、「愛」とはまるで異なるものだ。自分の勝手な像を押しつけるだけで、相手の真の姿を見ようとはしないのだ。わかりやすい例として、「婚活」(人ではなく「スペック」と結婚するが如き)が挙げられている。

自分を受け入れられずに育った人は、往々にして「自己嫌悪」の裏返しとしての「幸福の偽装工作」に走ってしまう。そのような「幸福」を押しつけられて育った子どもは、そこに嘘のにおいを嗅ぎとる自分は「悪い子」だという「自己嫌悪」を抱えて生きることになる…この「自己嫌悪」は再生産され続けるのがポイントだ。思うに、この「自己嫌悪ワールド」の罠は、「東大話法」本の中で著者が厳しく告発して止まない、日本社会の閉塞状態を招いているところの「立場主義」と一連なりのものなのだ。自分をも他者をも愛せない人にとっては、人間を軽視し「立場」を死守する、誰もが自分を殺して生きる体制こそ望ましいものだからだ。

この『生きる技法』は、著者自身がいかに典型的な「自己嫌悪ワールド」の住人であったかを赤裸々に告白している、ちょっと重たい本でもある。しかし、そこからの困難な「離脱」の道のりを語る、その語り口のふっきれた晴朗さは救いだ。これこそ、著者が多くの人に「依存」することで得たのであろう「自立」の境地を示すのだろう。この本のとりあえずの結論めいた「【命題11】幸福とは手に入れるものではなく、感じるものだ」という著者の言葉は、全体を読まなければ何のことだかわからないだろう。しかし、この「感じる」ということがわかるかどうかが本書の鍵なのだ。

「人生の目的は、どんな言葉でも表現することができない」「表現できたと思うなら、それは何かを押し付けられた結果に過ぎない」という「命題」にはドキっとさせられる。著者によれば、「人生の目的」とは他の誰のものとも異なる、その人自身の「道」が行き着くところで、本来「見えない」ものなのだ。「自己嫌悪」の病にはまった人は、この「道」、著者の言い方では「自分の身体が教えてくれる進むべき、あるいは成長すべき方向」をそもそも「感じる」ことができなくなってしまう。著者自身が定量化された「目的」を次々と達成してもそこに「喜び」はなく、ただただ「ほっとする」という虚ろなエリートだった。本書は、それを乗り越えて「感じる」基体である「自分の身体」を取り戻すことの、またそれを言語化することの、不可能を可能にした稀有な記録であり、「呪縛」から解き放たれるための実践の導きとして、おすすめしたい。

※本書と密接に関連する著者らの研究プロジェクトから生まれた書籍シリーズ「叢書 魂の脱植民地化」が同じ青灯社から発刊されている。関心ある方は深尾葉子『魂の脱植民地化とは何か』をチェックされたい。


(営業企画部 野間健司)


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