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2012年01月23日

『日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二(洋泉社)

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「日本近世は何を護ったか」

 驚くべき本を読んでしまった。
 著者・渡辺京二(敬称を略します。以下同じ)には、江戸後期のユートピア社会を描いた名著『逝きし世の面影』があるが、本書も『逝きし世』に遡る作品として当初は構想されたようだ。室町後期から江戸初期、戦国乱世から徳川の平和社会へと至る時代を舞台としている。ところが、本書を『逝きし世』の世界を思い浮かべて手にすると、大きな肩透かし、というか強烈な「突き落とし」を食らう。とにかくガチガチに硬い。歯応えがあるのだ。『逝きし世』は外国人の日本滞在記から近世社会を描き出したものだが、本書は戦後歴史学が描き出した中世・近世社会像に対し、真っ向からの対決を挑んでいる。

 このガチンコ勝負には驚くほかない。
 本書末尾で、渡辺京二は「しんどい仕事」「難儀乏しからぬ旅」と吐露しているが、大変な喧嘩道中である。まるで「空手バカ一代」と形容したら失礼だろうか。徒手空拳、見知らぬ異国の地で道場破りに挑むような、無謀とも思える旅に読者は付き合わされる、網野善彦、朝尾直弘といった日本中世・近世史の大家を前に、渡辺は「戦後左翼史学は散々馬鹿の限りを尽くしてきた」「戦後の日本史研究には強いイデオロギー性がまとわりついている」と言ってはばからない。
 例えば、網野善彦の有名な所論に「無縁」論がある。中世社会において、領主制の束縛を逃れようとする民衆の「自由」を保証する場として、網野は様々なアジールの存在を提示した。それは、中世社会を家父長制的な奴隷制社会と見なしていた戦後歴史学に風穴を開ける、爽快な所論であった。しかし渡辺京二に言わせれば、網野善彦の主張には中世民衆の自由が武士階級による全国支配の完成を通じ圧殺されたという含意がある、徳川体制が武士領主階級による民衆の徹底的な抑圧体制であるという「古典左翼イメージに固執している」と遠慮なく指摘する。
 渡辺京二はただ闇雲に難詰しているわけではない。論証の仕方は緻密である。網野と同じ史料を読み、その解釈が成り立たないことを述べ、網野の理論構成が古典マルクス主義的であると捉える。そのうえで、マルクスが依拠した共同体論は今日否定されている、原始・太古の人民の本源的な「自由」など何の疑念もなく前提できない、その時代に「人民」がいたはずがないではないか、とパンチを浴びせ続ける。さらに、西洋中世史家の石井進が網野に問いかけた、縁切りとは中世人にとって喜ばしいものではなく「フォーゲルフライ(鳥のついばみに任せられる刑罰)」ではないか、という言葉から、ヨーロッパ中世社会との比較検討へと入り込む。堀米庸三、サザーン、ボスタン、ブルンナー、ホイジンガ、ブローデル、ハインベル。次から次へ「小技」が繰り出される。
 が、ちょっと待って、この人は何ものか!?並の学者をはるかに超える勉強量ではないか。日本史研究についても、笠松宏至、勝俣鎮夫、藤木久志ら「何人かの秀れた史家」の1990年代の新しい研究成果を押さえて所論を展開している。実に手堅いのである。「乱暴狼藉」の実相、武装し自立する「惣村」、「自力救済」の世界、「一向一揆」の虚実…。渡辺京二は、左翼的観念性に囚われた戦後歴史学が描き出した中世・近世社会像に異を唱え、捉え直していく。渡辺の手によって、中世社会の混乱から、近世の秩序ある世界へのダイナミックな変貌が鮮やかに浮かび上がってくる。

 驚くことはまだある。
 本書の終章は「日本近世は何を護ったか」である。通常の歴史書であれば、徳川の平和社会の成立を書き終えて、めでたしめでだし、『逝きし世の面影』のユートピア社会へと続く、で終わりであろう。ところが「何を護ったか」。どういうことだろうか。
 訝しく思いながら読み進めると、急転する。徳川の幕藩制権力は、イヴァン・イリイチのいうヴァナキュラーな(暮らしに根ざした固有の)自立・自存の枠組み、文明としての生活実体を統制・管理する志向を持たなかった、という。幕藩体制を絶対主義国家と捉える見方もあるが、それは単純な意味で近代への過渡であったのではなく、連続面と同時に断絶面があり、断絶面の方が重大な意味がある、として、カール・ポランニーの市場経済批判が引き出される。
 ポランニーは、市場価格によって統制される経済システム「自立調整型市場」の本質は、土地と労働を商品に転化するところにあり、それは人間関係を解体し、人間の自然環境に絶滅の脅威を与える結果を生み出さずにはいられない、と説いた。ポランニーの所説を踏まえ、渡辺京二は、徳川期では全国市場が成立していたが、幕藩制国家の干渉により土地と労働は全面的に商品化されることは決してなかった、とする。すなわち「何を護ったか」、徳川期の国家は産業と商業に全般的な繁栄をもたらしながら、人びとの自立・自存の基盤、ヴァナキュラーな社会的「共有地」に干渉せず、その価値の存続を許していたのだ、と新たな視点を提示する。
 読者は「なるほど」だけでは終わらないはずだ。その社会はもはや存在しない。つまり「逝きし世」である。では、近代をとうに過ぎた現代社会とは何であろうか。読者は、深い問いを突き付けられることになる。
 渡辺京二の肩書は「日本近代史家」とされている。自称のようだが、日本史学の枠組みを大きく踏み越え、縦横に議論を展開する本書でわかる通り、渡辺はそのような呼称に収まる著述家ではない。しかしまた、渡辺京二が問題としていることは、われわれ「日本人」にとっての「近代」である。ゆえに「日本近代史家」は正しいのだ、とも思われる。

 最後に驚くことに、本書『日本近世の起源』はいまや945円で手にすることができる。原本は2004年2月、弓立社から2,940円で刊行され、2008年7月、洋泉社のMC新書として復刊された。このときは1,890円であったが、同じ洋泉社から刊行の『黒船前夜』が2011年の大佛次郎賞を受賞したことを記念し、『日本近世』『神風連とその時代』『人類史とは何か』を併せて廉価版の「渡辺京二傑作選」として再刊された。三作は「日本近代史家」渡辺京二の真骨頂というべき、大変な傑作、労作である。出版社・洋泉社の驚きの英断であり、気概であろう。


(カタロギングサービス部 佐藤高廣)


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