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2011年06月16日

『キミは知らない』大崎 梢(幻冬舎)

キミは知らない →bookwebで購入

 小学校の頃はほんとにテレビにワクワクした。

 もちろん特撮シリーズやアニメが中心だったのだが、今もイメージだけが妙にくっきりと心に残る番組にNHKの『少年ドラマシリーズ』がある。平日の夕方6時台、30分に満たない枠で2週間全10回くらいを1クールに続けられていたのではなかったか。そんなサイクルだからきっと制作はとても大変だったのだろうと、今にして思う。
 個々のドラマの内容をよく憶えているわけではなく、『暁はただ銀色』『七瀬ふたたび』といったタイトルと、ちょっと背伸び加減の謎めいた雰囲気・感触とが、記憶の深いところに染み付いている。その後マンガで何百回と読みふけることになる『11人いる!』が幼心にもキテレツな仮装大会になっていたことなんかも、一生モノの記憶だ。

 今回、人に薦められて『キミは知らない』という物語をほぼ一息に読んで、あの『少年ドラマシリーズ』のワクワク感がどうしようもなくよみがえってきてしまった。

 幼くして父親を亡くした主人公の女子高生が、1ヶ月でふいに辞めてしまった非常勤の先生のことがどうしても名残惜しくて一人旅に出ることから、物語が始まる。
 知らない街、初めて会う人たち、先生の本当の姿。
 次々起こる事件、どこまでいくの?と心配になってくる展開の連続、紆余曲折しつつ解き明かされていく歴史的な謎。因果はめぐる糸車…。

 女の子は時に憤慨したり不安になったりふてくされたりするものの、基本、明るく前向き、誠実、健全。身を挺して守ってくれる人たちにも次々巡り会っていくのだが、ご都合主義に感じられないだけのテンポ、人物設定、全体構成を備えた物語なので、素直にのめり込んで読み進められる。適度に力の抜けた会話や心理描写も好い。

 帰れと言われたのに帰らず、ほんのちょっとの思いで寄り道して、とんでもない事態に追い込まれるのは二度目だった。

という緊急事態で見知らぬ集落の裏山に一人身を隠していると、タイミングよく先生から電話がかかってくる。

「もしもし」
 かかってきた先生からの電話に小声で答えた。なんて出にくい電話だろう。足下の枯れ葉をひっくり返し、ダンゴ虫をいじいじとつついていたい気分だ。
「今、どこにいる?」
「うーんと、人目を忍ぶ、藪の中」
 一句、ひねれそう。

 一貫して主人公が頼りにする先生が、彼女を評して曰く、

「ほう。おまえはほんと、えらいよな。どんな展開にも適応できてるみたいで、キャラクターとして素晴らしいよ」


 個人的に普段は善悪や主客の彼岸みたいなブンガクに手を出してしまいがち(しかも途中で挫折してしまいがち)なのだが、久しぶりのこの手の物語がぐいぐい読めたのは、きっと心の底にしっかり溜まっていた『少年ドラマシリーズ』の記憶が推進力になったのだと思う。先にも書いた通りドラマの個々のストーリーはぜんぜん憶えていないのだが、トラックの荷台で昼寝してたらいつのまにか知らない街に運ばれてしまって…式の物語が、どれほど幼心に魅惑的だったことか。

 健全な女子高生とちょっと皮肉も効いた先生の主役組のほか、ゴッドファーザーの用心棒的な三人組やまごころと根性を備えた奉公人の中年女性、豪放磊落だが少年の心を残す老資産家、先生のダチのイケメンたちや根っからの悪党など、キャラの立った脇役たちのことを思い返すと、上手く映像化されたらきっとすごく面白いだろうなと思う。ちょっとキャスティングを空想するだけでもワクワクする。
 でもまあ、おそらくドラマの質(というか予算?)としてはB級だっただろう『少年ドラマシリーズ』がこれだけ長く深く人の心に残るということは、たぶん個々の作品が備える本来のパワーには絶対的な強弱があって、本作はそれが十分強かったからこそ遠い記憶と共鳴したのにちがいないと思う。


(販売促進部 今井太郎)


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2011年06月06日

『猫とあほんだら』町田 康(講談社)

猫とあほんだら →bookwebで購入

『猫にかまけて』(2004/11)
『猫のあしあと』(2007/10))
に続く、著者と猫達との暮らしを描いたエッセイ、待望の三作目。

今回は著者が東京から伊豆半島へ引っ越す。
新居を探すうち、たまたま捨て猫を発見する。
引越し先を探す旅程の最中にも関わらず、瀕死の捨て猫二名を保護し、
旅先での看病に四苦八苦する。

善行によって帳消しにしたい良心の呵責があるわけでもないのに、
ごく自然に瀕死の二名を救出する。当然のように。

著者は自宅に二名、自宅とは別の「仕事場」に猫を六名も養っていて、
しかも仕事場の六名は、ボランティア動物愛護団体から預かっている里子で、
ウイルスに感染しているなどの理由から
自宅の猫たちとは一緒に暮らせないという事情がある。

引越しにあたり、彼らの住まいとして隔離された部屋が必要なので、
そのために「アトリエ」なる部屋が設置された家を新居に選ぶが、
体の弱い猫六名が生活できるよう、アトリエの改築工事に四苦八苦する。

結局この改築は断念することになり、
新居の一室に隣接させて庭にログハウスを建設し、
トンネルで繋げて六名の家となす。ここでも四苦八苦して。

さらに完成した新居へ、猫たちを移動させるのに四苦八苦。
移動後、一名がログハウスから脱走する事件が起き、
連れ戻すのに四苦八苦したうえ、ログハウスの窓の改造に四苦八苦。

そして、いつも猫の寿命は人間より短く、
著者はいくつも辛い別れをして泣いている。
一緒に暮らした猫が亡くなるたびに、
「彼(彼女)は私のところに来て幸せだったのだろうか。」と泣いている。


しかし不思議なことに、
なぜそこまで苦労して、辛い思いをして、
自分とは何の関係も無い野良猫たちを保護するの?
という疑問を挟む余地が、このエッセイには全くない。

町田康さんの著書には、小説作品も含めて
「自分は決して特別な存在ではない。自惚れてはいけない。」
という思想が通底しているように思う。
そうして著者は、人間の利己的な欲望の犠牲になっている
弱いもの・小さいものの眼差しに試されながら生きている。
それだけのことであり、それが全てなのだと思う。

インターネット上、誰でも自分の意見を発信できる昨今、
双方向の意見交換も容易で、短い文章でも一つ意見を述べると、
言葉尻を捉えて無数の賛否が返ってくる。
誰もが「私のことを理解してください」と殺到してくる。

そんな状況に少しく疲弊した方は、
目の前の、ありのままの命を自然に愛し、畏敬し、
共に生きている著者の世界に触れてみて欲しい。

著者独特の、「思考だだ漏れ」の文章がおもしろおかしく、
猫という存在への愛と尊敬に満ちた文章はとても心地よい。

 猫に不可能はないのか。猫がやりたいとおもえば世界征服も可能なのか。
 宇宙旅行も可能なのか。ということになるが、然り。可能である。
 一度、猫がやりたいと思えば、けっして諦めることなく、思いの外
 器用な手を伸ばして、先端を、くにゅ、と曲げ、ドアレバーを押し下げたり、
 前脚で相手の頭を抱え込んだうえで、後ろ足で相手の腹をけむけむするなどして、
 世界征服や月旅行を成し遂げるだろう。
 ただ、猫は存外、頭のいい生き物なので、そんな愚劣なことを
 やろうと思わぬだけのことである。 (p.178)


(大阪営業部 宇田静香)



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