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2011年05月18日

『高峰秀子との仕事〈1〉初めての原稿依頼』
『高峰秀子との仕事〈2〉忘れられないインタビュー』斎藤明美(新潮社)

高峰秀子との仕事〈1〉初めての原稿依頼
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高峰秀子との仕事〈2〉忘れられないインタビュー
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昨年の大晦日に飛び込んだ訃報に目を疑った。遂にそのときが来てしまった。その八十六年の生涯の最後のほんの少しだったけれど、暇さえあればその出演映画を観て歩き、著書の多くを読み耽った「最後の大女優」が永遠に旅立ってしまった。

年明けの各紙誌には、いくつもの追悼の言葉が並んだが、欠落感が否めなかった。肝心の人が語っていない。もちろん今は語れないだろう。速報では、十二月二十八日五時二十八分、高峰さんは病室で、最愛の夫、松山善三氏と「一人娘に見守られて逝去」とあった。養女になっていたとは知らなかったが、あの方だなと自然に思った。

斎藤明美さん。十年前だったか、ふらっと入った名画館で、はじめて高峰秀子主演・成瀬巳喜男監督の「浮雲」「放浪記」を観て衝撃を受け、自然の成り行きで傑作自伝『わたしの渡世日記』(<上><下>、文春文庫)を貪り読んだ、その次に手にしたのが、斎藤明美著『高峰秀子の捨てられない荷物』(文春文庫)だった。この本も何度となく読んだが、深く私淑する高峰さんに取材者として出会った著者が、いつしか互いの人間性に深く触れ合って家族同然の間柄になる、奇跡のような真実が飾らぬ筆致で綴られている好著だ。

五歳で入った映画界で五十年。各年代に代表作がある高峰さんは、まことに「大女優」と呼ばれるにふさわしいが、ご本人は早く辞めたい辞めたいと思っていた。因業な養母に「金銭製造機」のようにこき使われる日々。あぶくのような女優の人気に、まとわりついてくる多数の「怪(あや)しの者」たち。それでも、スクリーンの中の「高峰秀子」はニッコリ笑っている。「あれは私ではない」と思い暮らした日々に一刻も早くピリオドを打ちたかった。

だから、多くの女優のようにいつまでも芸能界にしがみつかない。一九七九年の木下恵介監督「衝動殺人・息子よ」を最後に、きっぱり「女優」の幕を下ろした。日本エッセイスト・クラブ賞を受けた『わたしの渡世日記』以後、多数の著書で名文を披露するが、最大の関心事は「人生の店じまい」だった。家を小さくし、多数の映画賞のトロフィーも処分。日がな家にこもって、最愛の夫の食事をつくり、「食う」ように本を読み、ときどき「雑文」を書く、静かな生活。

そんな大女優の孤高の老後に、娘ぐらいの年の記者が入り込んだ。その真贋を射抜く強いまなざし、高潔な生き方に魅せられて、次々と記事を書いた。母の死をきっかけに、母のない子と子のない母の魂の結びつきはいっそう深まる。いつしか大女優と監督を「かあちゃん」「とうちゃん」と呼び暮らすようになっていた。その進行形の報告が『高峰秀子の捨てられない荷物』という稀有な書物である。その言葉の湧き出し方は、沢木耕太郎をうならせた『わたしの渡世日記』(文庫版解説を参照)を思わせるものがある。弱い自分をさらけ出しながら、言葉の「靭さ」とも呼ぶべきものは、たしかに「母」から「娘」のものになったと思える。

この間、「母」が静かに文筆の世界からもフェードアウトしたのと入れ替わりに、「娘」の言葉は湧き出し続けた。『婦人画報』誌上で続けられた連載から、昨年、高峰さんの生き方を「動じない」「求めない」「振り返らない」などのキーワードで読み解く『高峰秀子の流儀』(新潮社)が成った。そして、本書『高峰秀子との仕事1・2』(同)も生まれたが、刊行直前というときの逝去を受けて、著者は「母・高峰秀子の死~まえがきに代えて」という書き下ろしのエッセイで、はじめて「養女」としての心境を明らかにした。それだけでも読む価値のある書物である。

『高峰秀子との仕事』の本文は、一記者としての出会いから、最晩年の言葉まで、著者がかかわった「高峰秀子」を伝える仕事の集大成である。取材のエピソードにとどまらず、実際に接した高峰さんの人物像があらためて掘り下げられている。加えて、実際に雑誌に掲載された高峰さんの文章、対談、インタビューなどが丸ごと再録されているのも、ファンにとっては福音だ。晩年は取材も断っていた高峰さんの肉声は、ほとんど全て著者を通じて伝えられたから貴重である。

『高峰秀子の捨てられない荷物』を読むと、どうしてこんなに入り込めたのかと思うが、本書で実際の取材の場に即して語り直されると納得する。著者の高峰さんに対する態度は、初対面から遠慮のない言葉も見られるが、誰よりも私淑する気持ちがあふれている。数多くの有名人に取材した著者は、彼ら彼女らの醜い面も見ざるをえなかったが、高峰さんは別格だったという。誰よりも欲望というものが感じられず、平凡な幸福のかけがえのなさを知っている。この人になら全て見抜かれていい、そう素直に思えた唯一の大人だった。

一方、幼いころから取材慣れしている高峰さんは、取材者に対する配慮がずば抜けている(予定時間内で過不足なく話をまとめる、引き受けたときはもう原稿を書いている、など)。が、一緒に仕事をするのは信頼できる相手に限る。贋物と見ると容赦なく遠ざける厳しさがある。それをして「怖い」と見る風潮も記者たちの間にあったようだ。

ところが、著者はちがった。礼を尽くして、尊敬する人の心の襞に寄り添いながら、辛抱強く、その言葉を待つ。いや、ときには甘え、ズケズケとも見えるかたちで懐に飛び込んで行く、その丁々発止のやりとりは極めてスリリングだ。大事なことは、虚飾を捨て去って、全身で、人間と人間として向き合うこと。それが著者が高峰さんから学んだことであり、二〇〇五年の成瀬巳喜男生誕百年に際して、頑ななまでに沈黙を守った高峰さんの言葉を引き出したエピソードは、まるで卒業試験のように読める。

しかしまた、それは誰よりも大事な「母」の静かな日常をかき乱すことでもあった。著者は取材者の立場を選ぶか、家族の立場を選ぶかで苦悩を深める。最後には、はっきり家族の側に立った著者は、書き手として自立することになる。そして、人生で自分の意志で決めたのは結婚だけだと言い切った高峰さんが、最晩年になって下した養子縁組の決断。過去の自分の映像を観ることを嫌った高峰さんだが、死去の二ヶ月前、呼吸困難になって運ばれるまで、松山氏と著者の三人でDVDを観ていたらしい。最後の最後に、最良の書き手にして最愛の「娘」を得て、過去と静かな和解を果たしていたのかもしれない。その余韻に浸りながら…遺族の心情を省みずだが、見事な人生の引き際だったと言わざるをえない。

本書の刊行に合わせて、都内で行われた高峰さんの追悼上映に際して、著者の肉声を初めて聞いた。高峰さんがいかに面白い人だったか、ほほえましいエピソードを交えながら語る明美さんは、ときどき嗚咽をこらえた。あえて自分のイヤなところも見つめながら、人間のいろいろなところを見ている人なのだと思った。この人あってこそ、晩年の高峰さんは過去と折り合えたのかもしれない。『高峰秀子の流儀』に付された「ひとこと」が、高峰さんが生前に公にした最後の文章ということになるのだろうが、こう記す。「斎藤明美サンは、短所だらけの欠陥人間である私をことごとく承知しながらも理解し、限度などぶっ飛ばしてなめるように綴りあげてくれた」と。人間が人間と出会うことの不思議さを感じつつ、明美さんが最後におっしゃった、高峰さんのような人と「同時代を生きられた幸せ」を噛みしめる。


(洋書部 野間健司)


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2011年05月09日

『コーチKのバスケットボール勝利哲学』マイク・シャシェフスキー/ジェイミー K・スパトラ(イースト・プレス)

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 本書『コーチKのバスケットボール勝利哲学』は、アメリカの大学バスケットボールNCAAのデューク大学ヘッドコーチ、「コーチK」ことマイク・シャシェフスキーの本である。デューク大ではNCAAチャンピオン4回、レギュラーシーズン通算900勝を達成し(NCAA歴代二位)、現在はアメリカ代表のヘッドコーチも兼務している。国際大会では、2008年北京オリンピック、2010年トルコ世界選手権で金メダルの栄冠も手にしている。また2001年には、バスケットボールの殿堂入りも果たしている。では、それだけの実績を持ったコーチKは、その著作に何を記したのか。

 Beyond Basketball(直訳すると『バスケットボールを越えて』)という原題を見ても明らかなように、本書では、バスケットボールのコート上だけにとどまらない、人生哲学が展開されている。その人生哲学は、コーチKが大切にしている40の言葉を巡って、「あなた」に向かって語られる。そこには一つの道筋がある。まずある言葉が持っている意味を大まかに説明した後で、コーチKの体験をもとにその言葉にまつわるエピソードを披露してくれるという道筋である。つまり、言葉自体は抽象的なものであるが、それがどのような具体的場面で活きてくるかを説明してくれている。そのような形式で進行するので、抽象と具体の間を行き来することができ、理論的にも実践的にも様々な示唆を与えてくれるのだ。最後には、言葉ごとに応じて、実践的な助言を付けくわえている。

 そうした40の言葉のうちには、「勇気」「平常心」「思いやり」といった、行動が迫られている場面で重要になってくるものに加えて「卓越性」「危機管理」「当事者意識」といった普段あまり馴染みのない言葉も取り上げられている。また、「愛」「友情」「恩返し」などの親密な共同体に欠かせない言葉が挙がっているのは、コーチK自身が「家族のような組織」を理想としていることの表れであろう。一つ気になったのは、40の言葉のうちに「感謝Thanks」という言葉が入っていないという点である。本書のなかで、それと意味が近いのは「恩返し」や「敬意」という言葉なのだろうが、人々への感謝の気持ちを忘れないコーチKが、あえて「感謝」を入れなかったことに何か意図があるのかと興味をかきたてられるところだ。

 そして、「終わりに」の章では、「こぶしの比喩」が語られている。一本一本の指がバラバラの時とは違って、五本の指が協力して一つのまとまりになれば、強力になるというもので、コート上の五人はそうあるべきだとコーチKは力説する。また、この比喩は幾重にもなっており、チームで尊重したい言葉を五本の指に込めることもできるという。デューク大で大切にしているのは、「コミュニケーション」「信頼」「集団責任」「思いやり」「誇り」という言葉である。チームメイトとこぶしを合わせることで、チームを一層強力にする五つの言葉をお互いに思い出させることができる。この「こぶし」の重要性については、序言を書いているアントニオ・ラング氏(デューク大卒)も強調している点である。

 また、巻末部には詳細な「用語解説」がつけられており、NCAAを観たことがない人や、あるいはバスケにあまり触れたことがない人にも配慮されている。本の性質上、デューク大学に関する記述が多いが、この用語解説はNCAAの入門的要素を多分に含んでおり、一読に値するものになっている。NCAAファンにとっても、意外と思えるようなエピソードが盛り込まれていて、大いに楽しむことができるだろう。

 形式的な点についていえば、文字が大きく、全体的に読みやすい印象を受けた。また、この手の本の多くがそうしているように、重要な箇所については太字を用いていて、強調されていることも読む側としてはありがたい配慮だと感じられた。

 さて本書の意義について考える際に一つの指標となるのは、日本のバスケットボール界が、野球やサッカーと比べて、世界的にも大きく遅れをとっているという事実であろう。確かに、日本バスケットボールが世界と戦うためには、技術面を含め、かなり多くの要素が必要であることは間違いない。しかし、そうした状況からすれば、世界でも屈指の「リーダー」―コーチKが好んで使う言葉で「指導者」の意味もある―から哲学を学ぶことは無益なことではない。コーチKの哲学は、あらゆる種類(夫婦、家族、学校、地域、国)の「共同体(コミュニティー)」を重んじる点で、私たちの感覚とかけ離れたものではないというのは注目すべき点だと思う。そのコーチKの哲学を、どのように「自分流」に作りかえることができるのかは、むしろ私たち一人一人にかかっている。そして、他ならぬコーチK自身も、それを願ってくれていることだろう。


(大学第一営業部 宮下雄介)


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2011年05月03日

『憲法の常識 常識の憲法』百地章(文藝春秋)

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「「憲法」と国のかたち」

 昭和22年(1947年)5月3日、前年の11月3日に時の内閣総理大臣・吉田茂率いる吉田内閣下で公布された日本国憲法が、この日、施行された。

 「憲法の常識 常識の憲法」と題しその日本国憲法(昭和22年(1947年)5月3日施行)について書かれた本書は、「憲法とは何か?」や「国家とは何か?」と言った定義的なものから、我が国の最高法規たる日本国憲法の制定過程を通じて憲法がいかなる性質を有しているのかを考え、制定当時、日本を取り巻く情勢がどのような中で制定されたのかを検証している。また、「第九条」をめぐる問題、「象徴天皇制と国民主権」や「政教分離」についてなど、更には、「憲法改正」についての問題にも章を区切りテーマの1つとして考察をしている。

 そして、著者は本書の中で「憲法は根本法であり、コンスティチューション(Constitution)という言葉が示すとおり、憲法は国柄を正しく表現するものでなければならない。」と言い、我が国では、国柄とは何であるかと言った国家論が議論されてこなかったと指摘している。

 私自身も、憲法は国家の顔であり国柄を表すものであると考えているが、「憲法」を英語にすると「constitution」であり「憲法」以外に「構成」や「体質」と言う意味もある事から、この事を前提としない国家論なき憲法は国の最高法規たる根拠はないに等しいと考える。

 これに関して、京都大学教授の佐伯啓思氏は平成17年7月3日付における読売新聞の本書の書評でも、

国家(ステイト)や国民の伝統・文化(ネイション)を無視した憲法の神聖化もありえない、という当然の認識が本書の説得力を生み出している。

と述べている。

 確かに、国家(ステイト)や国民の伝統・文化(ネイション)を無視した憲法の神聖化もありえない。本書は、正にそう言った一番大切な部分をダイレクトに伝えてくれる書籍であるし、日本大学法学部教授でもある著者が、憲法論中心のテーマにおいて改憲の立場から核心を突いた真正面からの議論している事自体、憲法改正論議に対してこれ以上にない良書と言えよう。


(新宿南店仕入課 西山純一)



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