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2011年03月22日

『徳川夢声のくらがり二十年』徳川 夢声(清流出版)

徳川夢声の小説と漫談これ一冊で

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徳川夢声のくらがり二十年

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徳川夢声のあかるみ十五年

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「失われたものの数え方」

3月11日の震災当夜遅く、やっと動き出した地下鉄車内でたまたま取り出した本が、高田理恵子さんの新著『失われたものを数えて』(河出ブックス)だった。タイトルに感無量なものを覚えつつ、内容は副題「書物愛憎」が示す通り、この非常時とは一切関係ないのだが(※当欄の読者には必読と思われるが)、切迫感からの逃避であってもつい読み耽ってしまった。それから、テレビに釘付けとならざるをえない週末を迎えたが、「本なんか読んでる場合か」という空気をありありと感じながら、夜はテレビを消して静かに読書する日が続いた。一触即発の危機を前に、誰もが事態の行方を固唾をのんで見守っているときに、ついあらぬ方へ思いが行く、いや行かざるを得ない。そんな自分はズレているような気がするが、高田さんの本が愛情とイロニーを込めて拾い上げているような、歴史の表舞台に出てこない多数の読者たちの存在があってこその、かつての(と言わざるをえない)文学の栄華であったのだ。そのか細くは続いている営みを今ここで止めてしまうと、ありうべき「復興」の後にも待っているべき活字の世界は、二度と再び浮き上がれないのではないか。そんな聊か大仰な思いで、震災前にあたためていたものの、すっかり念頭を去っていたネタを今ここに思い出して書いておく。

徳川夢声(1894-1971年)。没後40年を迎えて、リアルタイムで見たことのある方は相当の年配だが、近年、忘却の淵から急速に救われようとしている。元祖マルチタレントといわれる夢声は、大正から昭和初期、活動弁士として一世を風靡し、戦前戦後にかけても、映画、演劇、漫談、小説、ラジオ、そしてテレビと、さまざまなジャンルを股にかけて活躍した。座談の名手といわれた夢声の「週刊朝日」における名物対談コーナーをまとめた『問答有用』が、2010年、ちくま文庫にて選集として復刻された(阿川佐和子編)。そして、2009年に『徳川夢声の小説と漫談この一冊で』を出版した清流出版という版元は、2010年12月に『徳川夢声のくらがり二十年』『徳川夢声のあかるみ十五年』と、古書店でも入手困難だった夢声の代表著を続々と復刻してくれた。2011年1~2月には、いまや都内では数少ない名画館であるラピュタ阿佐ヶ谷で夢声出演映画の特集「徳川夢声のほろよひ映画人生」が企画された。世はにわかに夢声ルネサンスの様相を呈しているのである。

夢声の名を初めて知ったのは、落語の立川談志師匠の文章だったと思う。手練れの「雑文」を書く談志師匠は、そこここで夢声の芸人離れした「知性」について記している。また、コラムニストの中野翠さんは、懐かしの映画人や作家について偏愛を込めて綴った『会いたかった人、曲者天国』(文春文庫)の中で、『夢声戦争日記』(中公文庫)の一節を引いて、「どうしようもなく眺めてしまう人」という卓抜な夢声評を記す。戦争末期、毎日のようにラジオや舞台で戦時下の国民に娯楽を供しつつ、今般の戦争の文明的な意義についても考察していた夢声は、自宅の庭から上空に旋回するB29の編隊を目撃するや、光彩陸離たる「航空ショー」につい見とれてしまう。ただ現実逃避的なようにも見えるけれども、絶えず観察し続け、うごめいている夢声の精神は、既に新しい事態を鋭敏にキャッチしているのだ。夢声という人が昭和の日本で長らく愛される存在であったのは、イデオロギーに凝り固まった知識人とは全然別種でもっと逞しい「知性」をユーモアそのものとして発揮していたからではないか。

さて、前説が長いが、ここでは、『問答有用』などの座談は何度か復刻されていたり他のコレクションでも読む機会があるので、清流出版から復刻された三冊を紹介したい。なお、これらの底本を提供し「解題」を執筆している濱田研吾氏は、1974年生まれにして2004年に『徳川夢声と出会った』(晶文社)という本を上梓している、当代随一の夢声研究家である。

『小説と漫談これ一冊で』は、マルチタレントの影に隠れがちながら、文学の創作にも余技を超えた並々ならぬ情熱を燃やした夢声の一面に光を当てる画期的出版。なかんずく、日本のモダン文化全盛期の1920-1930年代に多数発表したナンセンス小説は滅法面白い。「ナンセンス」を当時「軟尖」と書いたようだがよくも言ったりで、擬声語やカタカナを駆使し声に出して読んでも自然なスピード感あふれる夢声の文体は、奇妙な味とあいまって疾走的哄笑的効果をもたらしつつも、きらっと光る鋭利な認識を覗かせているのが新しい。戦後の夢声は原子爆弾の威力に衝撃を受け、「連鎖反応 ヒロシマ・ユモレスク」という異色の小説をものしている。これなど今読み返されていいものだろう。兵役を逃れた青年の心の病を描いた「九字を切る」は直木賞候補にもなったという。そして、「漫談」に当たるのが付属のCDで、これがかつてSP盤として吹き込まれた夢声の話芸の粋を時間たっぷり収録しているのがスバラシイ。

『くらがり二十年』は、生い立ちから、当時のエリート・コースである府立一中受験に失敗し、落語家を志すも政治家の父に引き止められて活動弁士になり、帝都一といわれた葵館で芸名「徳川夢声」を与えられて舞台に立つや頭角を現し、新興の新宿武蔵野館に迎えられて洋画説明者としての盛名の頂点を極めながら、サイレントからトーキー映画へという歴史的転換期に直面して、やむなく「廃業」にいたるまでの自叙エッセイである。映画史の一級史料として名高いものではあるが、興味深いことに、濱田氏の「解題」によると、『くらがり二十年』を雑誌「新青年」に連載開始する時点で、夢声は直前に迫った解雇の運命が避けられないことを知っていたのである。まさに「自分の職業が無くなる」という滅多にない事態に直面しながら、エノケン・ロッパらの「笑の王國」に参加したり、自分を廃業に追い込んだトーキー映画に今度は俳優として出演するなど、他のジャンルで新生面を開くべく奔走し、また同時に、既に失われた世界をまざまざと描き出すという転倒した力技をやっているのである。実際、失われたものの数え方としては、これ以上ないぐらいの名調子で、破格な文体で読者を魅する夢声のユーモアは冴えまくるのである。関東大震災のエピソードも出てくるが、そのとき夢声は警察署で叱られていた最中だったというから可笑しい。映画説明者免許証の再交付手続きが遅れたというので油を絞られ、警察官の侮辱的な言い様に逆上しかけて、あわや留置場かと思えたところへ、「トタンニ、ズウンと」来たんである。気がつけば、警察署内はガランとして、ただ一人残った(柱にしがみついた)警官と「キミ。エライ地震じゃね」「左様ですナ」という珍問答があり、免許の件はおさまったが、第二回の激震で壊滅した銀座から日本橋を歩きながら、「こりゃドエラい事になったぞ。もう5ヵ年ぐらい、活動写真なんてものは、興行される事はあるまい」と夢声は考える。ところが、「何と、震災後2月目には、焼残りの新宿武蔵野館、目黒キネマ等が開館したから、呆れたもんである」、しかも「映画界始まって以来の連日満員記録」をとるのだから、当時の復興のエネルギーのすさまじさを感じざるをえない。その流れに棹差しながら、ときには経営者ともなり、弁士の首をかけた最後のストライキの責任者としてもふるまいながら、酒に溺れまくり行くところ滑稽譚の宝庫で、あくまでノンシャランとしていたのが夢声らしい。

その続編として書かれたのが『あかるみ十五年』で、「くらやみ」でしゃべっていた弁士から「あかるみ」で「面をさらす」映画俳優に転身した夢声の、1933(昭和8)年から1947(昭和22)年にかけての出演作を中心に綴られている。弁士時代も「くらやみ」ではあっても「前説」で観客に「面をさらし」ていたにもかかわらず、いざ扮装をしてカメラの前に立つと非常な気後れを感じ、画面で見る自分の姿にゾッとする。多くの舞台や録音を八面六臂でこなした夢声にして、自分の演技については成功よりも失敗について多くを記し、脱線だらけで抱腹絶倒の筆致の中にも、映画製作現場の呻吟や夢声自身の日々の苦闘がまざまざと伝わってくるのが読みどころである。夢声の映画俳優としてのキャリアは、東宝映画の前身P・C・Lの第一作でもある音楽喜劇「ほろよひ人生」でスタートするが、迷走を続ける。夢声はそれらの作品を「ホロヨイズム」とシャレて評すが、「まず見た目が一寸インテリ的で、一寸ハイカラで…どこかにハクライ映画らしき香があり、明朗であるかのようで、その癖ニヒルの響きを微かにもち、よく味わってみると、何にも残らない」などは、日本的モダニズムの一面を衝いていて鋭い。夢声がようやく一定の評価を得るのが、漱石作品の映画化「坊ちゃん」(1935年)での”たぬき校長”、「吾輩ハ猫デアル」(1936年)での”迷亭先生”などであるのは、文芸ファンにも興味深いであろう。筆者は上述のラピュタ阿佐ヶ谷の特集で「猫」を観ることができたが、夢声扮する迷亭は知的風狂人の面影をたたえて見応えがあった。半可通な蕎麦講釈を垂れながらワサビたっぷりの蕎麦を一気に呑み込んで涙ぐむ名場面は、当時の撮影所にあっては強烈なライトを浴びせられて蕎麦はのびちまうし文字通りの大熱演だったようだ。それでも総じて映画俳優としては同時代の評価は高くなかった夢声だが、「主演した映画のうちで、最も自信のある作品の一つ」と記す「はたらく一家」(1939年)は、徳永直原作、成瀬巳喜男脚色・演出という実に地味だが(高峰秀子主演で夢声が父親役の「綴方教室」とも相通ずる)佳作といえる映画である。筆者が初めて目にした夢声の出演映画は、戦後の伊藤整のベストセラー『女性のための十二章』を原作とする同名の市川昆監督作品(1954年)で、滋味あふれる父親役を演じる夢声は好ましかった。このころになると、ずっと前からおじいさんをやっていたような印象のある夢声のキャラクターがすっかり定着していたのであろう。しかし、四十にして頭に霜を置き「夢声老」と呼ばれ始めていた当時の夢声は、喜劇的役柄を求める世間とのギャップに苦しみ、最初の妻を亡くした悲しみもあって、屈託に満ちていたことが本書からわかる。それでも、「私の顔には嘘がある」と題する章では、鏡に映る自分の顔が見る角度によって全く別人のように見える様を克明微細に描写しているのが爆笑ものだ。これなど「編者あとがき」に引かれている小林信彦氏の夢声評にある「フシギな平衡感覚」と「悲しみを客観化してしまうようなユーモア」の面目躍如である。談志師匠が言う夢声の「知性」も、風貌に刻まれた陰翳を見てとった感想かもしれない。さて、敗戦前年、空疎な戦意昂揚映画に出演しながら(成瀬巳喜男監督の「勝利の日まで」は全くその任を果たしていない珍妙な作である)、日記帖に「個人としては玉砕もまた美談」だが「民族として玉砕は愚の骨頂なり」と記す夢声はまた、聊かやけっぱち気味に一億玉砕の運命を受け入れて、全日本人が骸骨となって挨拶し合っている「面白いだけではない」図を空想する。当時の「神ガカリ」をふり返って戦後の夢声は「さッても恥かしや!」と述懐するが、この自ら省みての率直さは戦争責任とかの議論を超えて倫理的である。

これらの書物を、然るべき読者、戦前モダン文化研究家や古映画ファンの書架にとどめておくのはもったいないことだと思う。徳川夢声という、とてつもなく知的でモダンで、とてつもなくハチャメチャでもあった「希代のユーモリスト」(編者の高崎俊夫氏「あとがき」より)は、転換点に立つ今もう一度思い出されてよい。


(洋書部 野間健司)



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2011年03月07日

『哲学への権利』西山雄二(勁草書房)

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「終わりなき学問」

「脱構築とは制度という概念がつねに問題となる制度的実践である」―ジャック・デリダ

 こう聞くと、「ああもう無理。哲学は難しい。何のこっちゃ分からない。」と拒絶反応を示してしまう人が多いと思う。私もその一人だ。
 しかし哲学とは本当はもっと寛容で、今の社会や考え方に寄り添って生きているもので、決して完結した象牙の塔ではない。
 ということが、本書を読んでよく分かった。


 本書はDVD書籍である。
 映画「哲学への権利―国際哲学コレージュの軌跡」は、1983年にジャック・デリダ、フランソワ・シャトレらがパリに創設した半官半民の研究教育機関「国際哲学コレージュ(CIPh)」をめぐる初のドキュメンタリー映画であり、著者・西山雄二氏が国際哲学コレージュの歴代議長や新旧のプログラム・ディレクター7名へのインタヴューを通じて、大学・人文学・哲学の現在と未来を描き出す。
 インタヴューではこの研究教育機関の独創性を例として、収益性や効率性が追求される現在のグローバル資本主義下において、哲学や文学、芸術などの人文学を、いかなる現場として構想し実践するべきかが問われる。そして書籍には、映画の上映会を経た著者のエッセイが、映画の内容に即して綴られる。「哲学に、何ができるか」ということが、真摯に、丁寧に問いかけられている。

 近年、大学は学生を顧客として「社会に通用する知識や教養」を強く求められ、「就職予備校」化の傾向にあるように思える。そんな傾向の中で、人文学は社会に対する有用性を疑問視され、自らの存在意義を声高に主張しなければならなくなっている。

 人文学は、自然の普遍性と政治経済のグローバル化の狭間で人間性を探求することが課題となる。このような困難な課題に対応するため、昨今の大学では「学際的」というキーワードのもと、異なる研究分野間の交流が新しいアカデミズムの潮流として幅を利かせている。
 これに対し、国際哲学コレージュの理念の一つに「領域交差(インターセクション)」というものがある。これは、哲学とその他の研究分野をセットにしてパッケージ化するということではなく、「哲学が哲学である為には、決して孤立してはいけないという意味です。」と、インタヴューイーの一人クレマン氏は言う。他の領域に対して「○○の哲学」という形で哲学が理想的な答えを示すのではなく、他の分野で表現されることに照らし合わせて哲学は永遠に、自らを問い直さなければならないというのである。

 「人文学は意味や有用性を導き出すというよりも、むしろ、生きることの臨場感や立体感を提供する分野であり、人文学がもたらす情動は生きることの方向性を示唆する。」と著者は言う。「私が生きる」ために「私とは何か」と問うのだが、常に変化する世界の中で、「私」自体も刻々変化する。だから哲学は「問い続ける」ことが必須であり、この「問い」は学問として大学在学中に完結するものではなく、「問い続けなければならない」終わりなき学問なのである。

 1983年の創設以来、「哲学を、専門家の研究対象として閉じ込めておくのではなく、日々変化し再構成するものとして実践しよう」という活動が、脈々と引き継がれているのが「国際哲学コレージュ」であり、この機関では、教師となる条件、受講者となる条件はほとんど無く、教師は無償でプログラムを展開し、受講者は無料で参加できる。このことは長所でもあるが、同時に多くの問題を孕んでいる。もちろんアカデミックな「知」を社会に対して開くことに付随する困難は多岐に渡る。(無償性・価値の問題、場の問題、受講者のレベルの問題、・・・)

 しかしそれらの問題に真摯に対峙し、考え、実践している人々の姿がこの映画には生き生きと表現されていて、新鮮な感動を覚えた。
 そもそも私がこの本を読んだ契機は、2011年2月23日、大阪・アートエリアB1にて行われた、著者と鷲田清一氏(大阪大学総長)との対談イベント「哲学と大学の未来」に参加したことである。このイベントは「ラボカフェ」といって、大阪大学コミュニケーションデザイン・センターによって主催されている社学連携事業のひとつである。
 既にこんなに身近に、在野での学問の実践が生き生きと行われていることが、私にとっては驚くべき体験であった。

 大学での研究・教育活動を支援する職業に就く者として、大いに啓発された。
 デリダの思想の詳細や、その他むずかしいことは私には全く分からないが、そんな私にとっても、本書は、閉塞感漂う今の社会で、希望を捨てずに頑張る力を与えてくれるものであった。本書の読者は、その職業や興味の分野に関わらず、それぞれの思考を啓発され、何かを見出し実現するポジティブなパワーを得ることが出来るはずである。

 (参照)
 公式HP 映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」
 http://rightphilo.blog112.fc2.com/
 大阪大学コミュニケーションデザインセンター
 http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/about/


(大阪営業部 宇田静香)



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