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2010年12月28日

『The Meaning of Friendship』Mark Vernon(Palgrave Macmillan)

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「友情の意味」

友人のいない人生ほど、さみしいものはない。恋人がいなくても、友人がいれば人生は生きるに値する。恋人とちがって、友人のあるなしは、いくつになっても大事である。定年後、職場外の友人もなく暇を持てあます夫を見て、妻がストレスを爆発させる話はよく聞く。人間誰でも最後は「おひとりさま」だとしても、共に語らい生の意味をたしかめ合う仲間は必要だ。

しかし、友情とは、かくも私たちにとってかけがえのないものであるのにかかわらず、それについて落ち着いて考える契機はなかなか訪れない。日常の次元では(しばしばメディアを通した他人との比較というかたちで)友人が多いか少ないか、役に立つか立たないかばかりを気にしがちだ。

そうこうするうちに、世の中の人間関係を見る枠組み自体も変わる。社会学でいう「親密圏の変容」(ギデンス)も気になるし、SNSや画像共有サイトが脚光を浴びる昨今では、ウェブ時代の人間行動を規定する新たな権力「アーキテクチャ」の理解が不可欠らしい。心理学や脳科学の発展もすさまじく、愛や宗教の起源も進化論的に説明できてしまうと言われている(本当か?)。なんだかもう現象を追いかけるだけで忙しく、ますます「哲学」の出番などなさそうである。

そんな時代に、敢えて「友情の哲学」を掲げたのが本書だ。「友情論」というと今では古色蒼然たる感じで、実際、何年もそういったタイトルの本は出ていない。しかし、英国で一般向けの哲学書をいくつも手がけた著者のアプローチは、新鮮で親しみやすく、ニュアンスに富んでいる。なお、彼は「労働」「私」「欺瞞」など現代人の気になるテーマについて人気哲学者がそれぞれ一冊を書き下ろす”Art of Living”という瞠目すべき哲学叢書(Acumen社刊)の編者でもある。本書は、2005年に刊行されて「インディペンデント」紙のブックス・オブ・ザ・イヤーに選ばれた著書『友情の哲学』の新版として、内容をアップデートして改題し、新しい章を加えたものである。

最初に、加えられた終章「セルフヘルプを超える友情」から行こう。「セルフヘルプ」とは、明治の日本にも影響を与えたスマイルズ『自助論』(1859年)の原題だが、これが原点となって生まれたジャンルのことでもある。以来150年、この日本でいう「自己啓発書」のジャンルは、アメリカを中心に巨大産業として栄え続けている。成功して「リッチ」になったり「セレブ」になったりしたい人だけでなく、人間関係でストレスを抱える人たちも、こうしたハウツー本に救いを求める。残念ながら、まず哲学の門を叩くことはない。これはこと友情のためには実に不幸なことだと著者は言う。

このジャンルの本では、たいてい「自分」が世界の中心にいる。大ベストセラー”How To Win Friends And Influence People”のタイトルが示すように、友人であろうが、自分を主人公とする物語の中では単なる脇役、宇宙の中の小っぽけな星にすぎない。自分が何かをするのに役立つ存在、人生の局面毎に使い分けすべきリソースでしかない。しかし、逆の立場で考えればわかるように、自分がただ利用されているだけの存在だと気づいたとき、友情は終わる。

セルフヘルプの氾濫やゲーム理論の流行の中で見過ごされがちなのは、人間は利己的な動機だけで助け合うわけではないということだ。しばしば、ダーウィン自身の考えとは異なる進化思想の系譜(ダーウィニズム)の中で強調されがちな、一見利他的と見える行動も生存に有利だから選択されたという説明は、150年前にダーウィン自身が否定していた。著者は、人間に限らずボノボやチンパンジーの間にも共感(ないし友情さえも)が観察されるという『共感の時代へ』(紀伊國屋書店出版部)の著者フランス・ドゥ・ヴァールの研究に共感を示しながら言及している。

ここで、近代の150年より、古代の2500年前の知恵に遡ると、アリストテレスの友情論はいまだ多くのことを教えている。アリストテレスは、友情(友愛)を三種類に区別した。一つは何かをして役に立つ、つまり有用性にもとづくもので、今日でいえば職場の人間関係が典型的だ(本書の第一章「職場の友情」で詳述されている)。もう一つは共に何かをすること、快楽にもとづくもので、趣味を同じくする人や、恋人や夫婦にも当てはまる(本書の「友人と恋人」の章を参照)。最後の第三のものがもっとも重要だ。これは利害得失とは関係なく、互いにその人のあるがままを愛することである。他者を自己の鏡として、よりよく知ろうとし、また自分を他者に開くことで、わたしたちは自分以上のものになることができる。そのような結びつきは、実践的には少数者の間でしか不可能だが、ポリスにおける市民の政治の礎としても重要である。

そうは言っても、簡単ではないだろう。アリストテレス以後、友情について論じた哲学者が意外と少ないのは、友情という主題の扱いにくさを示している。本書で遡上に上るのは、親友との死別を経てキリスト教改宗とともに友情を神への愛の妨げになる利己的なものとして下位に置いたアウグスティヌス、逆に友情を神の愛のあらわれとしてその利他的な契機を救い出そうとしたトマス・アクィナス、友情は差別的であり無差別的な隣人愛に劣ると見たキルケゴール、自身ワーグナーとの訣別を経験し友情について辛辣ながらも的を得たアフォリズムを数多く残したニーチェ、異性の友人マーガレット・フラーとのスピリチュアルな結びつきを感じていたエマーソン、同性愛者の権利と友情の問題を別個に考えていたフーコーなどである。

時代とともに、友愛で結ばれた市民の政治を理想とした古代ギリシャ(同性愛の原点でもある)から、神の愛との関係が問題となる中世キリスト教世界、公私の空間の分離とともに親密性の表現が行き場を失って漂う近代の世俗化された社会まで、友情の意味は揺れ動いてきた。今日では、友達同士のような親子や夫婦が問題視されたりするが、異性/同性との性愛を伴う/伴わない友情のさまざまなヴァリエーションは既にあった(読み物として本書が面白いところでもある)。友情は、婚姻などの制度的な紐帯の外にあるがゆえに、極めて多義的であり、社会的な価値とそぐわないことも多々ある。本書はそうした友情の約束と脅威の両面に光を当てている。

それにもかかわらず、著者が最近のさまざまな文化事象や社会調査なども視野に収めながら、古今の哲学者との対話を通して救い出しているのは、いつの時代にも妥当する友情のコアな価値である。本書には、時宜に即した新章「オンラインの友情」が含まれているが、著者の見るところ、インターネットの普及によって人間関係がどのように変化したかは、本質的な問題ではない。親友がいないと感じる人が増えていたり、逆にオンライン、オフラインともに交友関係が活発な人が増えているという調査結果もあるが、言われるところのインターネットの明も暗も、ともに近代的メディアから連綿と続いている変化を一気に加速させたものといえる。遠くの他者に数多く即時的に出会うことは容易になったが、出会ってからのむずかしさは、昔も今もそう変わらない。プラトン描くソクラテスが孤独に挑んだ友情の困難は、現代人のものでもある。


(洋書部 野間健司)



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2010年12月14日

『イタリア古寺巡礼―ミラノ→ヴェネツィア(とんぼの本)』金沢 百枝 小澤 実(新潮社)

イタリア古寺巡礼―ミラノ→ヴェネツィア(とんぼの本) →bookwebで購入

一般的にネガティブなイメージを持たれがちな西欧中世ですが、本書はイタリア北部のロマネスク教会を中心に、カワイイ、ユーモラスな、とぼけた、美術作品や教会装飾の写真を多く紹介することで、そうした中世美術に対しての親近感を与えてくれるものです。しかもなかなか通常のガイドブックなどでは取り上げられないような場所が紹介されています。チヴィターレ・デル・フリウリのサンタ・マリア・デル・ヴェッレ修道院祈祷堂や、チヴァーテのサンピエトロアルモンテ聖堂などは特に驚異です。イタリアには何度も訪れたことのある私ですが殆ど知らない場所ばかりです。

本書が取り扱うロマネスク教会は通説フランスがその中心とされています。しかしあえてイタリア北部のロマネスク美術を取り上げることでルネサンスの中心たるイタリアにおける中世期とルネッサンス期の関係を読者に図示することを企図されたのだと理解します。

中世とルネッサンスはよく比較されることあります。暗黒の中世に対する人間復活のルネサンス、中世の無知に対してルネサンスの学芸振興、平面的表現のルネサンスに対して人間を人間らしく写実的に立体的に描いたルネサンス、無名画家の中世に対しレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨人たち。。。

こうしたイメージは全てが誤りではないにしても、かなり歪んだパースペクティブであると私は思っています。たとえば、魔女狩りは中世の出来事であるように思われていますが、実は17世紀のドイツにおいて最も盛んに最も残虐な方法で行われています。ルネサンス絵画もその殆どがつまりは聖人や救世主を描いた宗教絵画であって~ファン・アイクやメムリンクの絵画が毛織物の販売に役に立ったように~反動宗教改革のプロバガンダとして同時代的も歴史的にも大いに機能したはずです。

では、中世とはどういう時代で、ルネッサンスとはどういう時代であったのか。我々は西洋文化の中に首まで浸かって生きているのであり、それを知らないでは済まされない。身近な例としては捕鯨の是非認識の東西格差というのもありました。それを説くための鍵として、私は思想上の動物と人間の関係性に注目したいと思います。本書から引用します。

『ロマネスクの装飾原理をそれ以前の比較においていえば「楽園からの逸脱」ということになります。楽園の古代的表現である蔓草と動物のうち、蔓草は残っていますが、動物たちはドラゴンや人魚といった得体の知れない幻獣あるいは労働する人間などに変化しています。それらは危険や苦難の象徴なのです。』

これに対する私にとってのコウインシダンスなきっかけはアガンベンの著書「開かれ」です。エゼキエルの幻視、三匹の太古の動物たち、義人のメシア的な宴、から成る13世紀のヘブライ語聖書「アンブロジーナ写本」を起点として現代へと展開する書物。ルネサンス美術を見るときにも人間中心主義から決別したうえで対峙しなければならないと思うに至りました。

『完全な人間性を体現する義人たちの頭が、なぜ動物として描かれているのか』

アガンベンのこの著書は、あとがきで訳者が述べているところによると、ヴァールブルグ的方法によって図象学的に直感された哲学であり、動物性が人間から排除される事による極北からの脱出です。中世において動物たちは「科学的観察よりも想像上の性格・性質を人間のさまざまな資質と同一視するキリスト教伝統」(中世動物譚/アンセル・ロビン)に守られていました。それがルネサンス期に人間中心主義によって追いやられ、同時期の大航海時代の諸発見が動物たちからマルコポーロ的神秘を奪っていく。「デカルトはサルを見なかったことは明らかだ」(リンネ)にもかかわらず大哲学が打ち立てられ、ユクスキュルの環境世界にまで至るとハイデガーはもうすぐそこにいます。「とらえそこね」(アガンベン)であるハイデガーには、「生きているだけのものに何かが付加されることで人間になる」という考え(rational animal)は到底受け入れがたいものですが、この否定は明らかに強制収容所を連想させるものです。文明化としての人間性や、序列としての動物性を考える際にルネッサンスが作り出した、あるいはルネサンスという時代を捏造したあるドイツ人犯人の目星はついています。タキトゥス「ゲルマニア」において「巨木などを信仰する愚かな連中」と書かれたゲルマン人の末裔が、おそらくはその反動からか人間中心主義の賞賛に熱をあげた。

中世美術の不可解さ、当惑はそれでも隠し切れない。しかし私はあえて言いたいのですが、ルネサンスよりも中世美術の方がわれわれにとっての古典美術―仏教美術―によほど近いものがあるのではないでしょうか。京都国立博物館「高僧と袈裟」展での蔓草模様の九条袈裟の数々をみて、前々から持っていたその感を強くしました。ですからその当惑を本書によって見て味わうことは「人間の動物性そのものを管理し統轄する」現代グローバリズムやゲノム、環境問題や人道主義のあり方を見直すきっかけになるかとも思うのです。


(林 茂)


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