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2010年09月22日

『44 Letters from the Liquid Modern World』Zygmunt Bauman(Polity)

44 Letters from the Liquid Modern World →bookwebで購入

「リキッド・モダンの世界からの44通の手紙」

このごろ思想界で大モテのオジイサンといえば、ポーランド出身の社会学者ジークムント・バウマン(英リーズ大学名誉教授)。1925年生まれというから、今年で御年85歳か。著書がどんどん訳されているし、また今でも書いている。

バウマンを一躍有名にしたのは、今という時代を「液状(liquid)化」というキーワードで捉えたことだ。 「リキッド」“Liquid”を頭に冠する一連の著作は、『リキッド・モダニティ―液状化する社会』(“Liquid Modernity”)から始まって、『リキッド・ライフ―現代における生の諸相』(“Liquid Life”)、“Liquid Love”“Liquid Fear”(未邦訳)など、そのたびに注目を集めてきた。

<固体(solid)=確固としたもの>から、<液体(liquid)=覚束ないもの>へ。確固とした構造から、流動的なネットワークへ。これは概ね、多くの論者が指摘するモダン(あるいは前期近代)からポストモダン(あるいは後期近代)への変化に対応するだろう。「流動化」と言ってもいいかもしれない。

社会の流動化は、「自由」を求める個人の欲望を最大限の可能性に開く。それはもちろん肯定的な要素も大きく、とりわけ経済活動の自由に開かれている。いつでも、どこでも、誰とでも。瞬時に提供可能なモノやヒトのサービス。効率とスピードは産業のあくなき要請だ。それに乗って、誰のどんな欲望でも満たされれば、それでハッピーではないか。

といっても、これには光と影がある。何でも交換可能というならば、ユーザーだって交換可能なのだ。近代は「自己」の探求とともに始まるが、今は消費が自己表現そのもの(You are what you buy)という言挙げがあふれている。もちろん、本当は買うのが誰であってもよいのだ。絶え間なき消費、マネーを回転させることが、この金融中心の社会を支えている。わたしたちはそのために「動員」される、顔のない存在に過ぎないとしたら?

「リキッド・モダン」の世界では、かつてリアルだった(と感じられた)もの、人間同士の紐帯も、愛や恐怖さえも、その固有性を許されず、常に流れ去り、「液状化」していく。われわれは自由を得れば得るほど、おのれがただ漂う存在に過ぎないことに気づき呆然とする。

近代とかポストモダンとか、そんなむずかしい議論は社会学者に任せておけばよい。それより、われわれ自身はそんな時代をどう生きればいいのだろう。幸いに、このごろのバウマンは、わかりやすい言葉で自分の考えを語ってくれている。

今夏刊行された本書“44 Letter from the Liquid Modern World”(Polity)は、2008年から2009年にかけて、雑誌“La Republica delle Donnne”に連載された短いコラムをまとめたもの。一編一編がバウマンから読者に宛てられた「手紙」というスタイルをとっている。ここでのバウマンは、シニカルな社会批評家というよりも、一個のモラリストといってよいと思う。

始めに、標題の「リキッド・モダンの世界」とは、著者と読者が共に属している「この世界」のことなのだと言明されている。「その世界を私が“リキッド”と称するのは、あらゆる液体と同様、とどまることを許されず、そのかたちをたちまち変化させずにはいないからだ。」このあたりのバウマンの文章を読んでいると、思わず「行く川の流れは絶えずして」という日本人なら誰でも知っている『方丈記』の冒頭が頭を掠める。これが英語であることの不思議。

この世界では、昨日と今日ではまるで別世界ということが毎日である。それが今を生きている証であるかのように。これにまたニューメディアがもたらした情報量の爆発的な増大が拍車をかける。しかし、この情報量が本当に必要なのか。今日のニュースは明日忘れられ、今朝のつぶやきはもう誰からも省みられない。これを要するにムダばかりではないのか。大量生産、大量廃棄されるゴミにも似て。

日々の情報の洪水に足をすくわれずに、われわれにとって意味あるメッセージを仕分けること。この手紙の目的はいわばそのための処方箋なのだ。もっとも、この世界は常にうつろい、われわれはその中を漂っている存在にすぎない以上、これも漂流の“旅の記録”でしかない、とバウマンはアイロニカルな前置きを忘れない。

バウマンは自らのアプローチをこう説明する。日常の“ありふれた”(ordinary)事象から出発して、ふだん見過ごしがちなその“途方もなさ”(extraordinariness)を明らかにすること。これだけ聞くと、よくある「生活世界」の生き生きとした意味を取り戻すみたいな話かなあと思ったりする。

たしかに、バウマンがここで挙げる事例の多くは、たいていの“先進国”で見られる“ありふれた”現実だ。しかし、その先に生き生きとした“日常の輝き”といったものはもはやない。投資ブームに踊った人たち、流行に乗せられる若者たち、端末で「つながり」合わないと片時でも不安な人たち、やたらとやせたがる女たち…。バウマンは世間話でもするように、その背後にあるものを冷静に読み解き、情報と商品の海に人を沈めていく消費社会の呪縛を解いていく。

横道にそれると、グローバル化の功罪の“罪”の一つは、海の向こうには自分たちより高い文化(を裏づけとするモラル)があるという幻想(憧れ)を奪ったことかもしれない。日本のバブルの後に欧米の金融危機を見ると、「強欲」はいずこも同じじゃないかと思う。わたしたちは幻想の欧米人を自己内面化して自らを律してきた面があったが…。最近の若者は洋画を観ないとか海外旅行に行かないというが、そのことをただ憂慮しても仕方がない現実が進行している気がする。「人間みな同じ」であることの希望と憂鬱…。

さて、このバウマンの「手紙」を貫く特色に、若者に注ぐ視線のやさしさがある。世界中を揺るがした(とされる)金融危機のさなかで書かれたこともあって、若者たちは今、豊かさにあふれて育ってきた人生で初めての苦難を経験していると言う。そのあたりは十数年前から“氷河期”が続く日本と少々事情が異なるが、電子メディアを自明として育った彼らに上の世代はかつてないジェネレーション・ギャップを感じているというのは共通だろう。しかし、バウマンは彼らを取り巻く社会の体制に注意を払い、ときには自主的に考える若い読者の手紙を積極的に取り上げて賛意を表する。なかなかできないことである。

本書の話題は多岐にわたるが、それぞれ、今ここにある問題から、この世界の病巣を探る手つきの何気なさが魅力的だ。自らが病んでいることを自覚しなければ治療もありえないが、声高な宣告が逆効果になることも多々ある。“ゲーテッド・コミュニティ”をただ批判するのでなく、自由とプライバシーの悩ましい関係や、そもそも“リスク”は計算可能なのかを考えることで、その空しさに思い至る。あれほど世間を騒がせたインフルエンザは何だったのか、はたして「オバマ現象」は本物だったのか…時を経て冷静なコメントを読むと、頷くところが多い。人間は愚かなことを繰り返す生き物だ。

何が“愚か”といって、戦争を代表とする極限状況下では、人間は人間に対していくらでも残酷になれることが示されてきた。それも、SFが描くような何か人間外の存在が悪を働くというのでなくて、昨日までの善良な隣人あるいは自分自身がそうならないという保証がどこにもないことこそ最大の恐怖だ。自分だったら抵抗できるかというのは究極の道徳的問いだろうが、ミルグラムとかの心理実験の示すところでは覚束ない結論になりそうだ。

統計上そうならモラルなんて議論したって仕方ないという見方が成り立ちやすい。ここでバウマンは、没後半世紀、いまだ現代の予言者であり続けているアルベール・カミュを召還する。カミュは『反抗的人間』『シシュポスの神話』で正反対の人物類型を描いた。しかし、「われ反抗す、ゆえにわれらあり」と語ったカミュにとっては、人間の美も悲惨も両方手放さないことが生の条件である。無関心で塗り固めた自己肯定でもなく、自殺へといたる諦めでもない、中間の地点に踏みとどまること。それこそが真の反抗なのだから。

“論壇”馴れした人は最後のいまや時代遅れとも見えるヒューマニスティックな議論の展開に戸惑うかもしれないが、近頃の“人文書”になかなか見られなくなった“人間的”な要素は、“言葉の力”を信じるならば立ち返るべき原点ではないのだろうか。ここでのバウマンは、古きよき欧米の“知識人”として、ごくふつうの人たちに向けて語っている。その言葉ができるだけ広く届けばよいと思う。通勤電車で読み継ぐのにちょうどよい分量だった。


(洋書部 野間健司)



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2010年09月14日

『ストーリーとしての競争戦略――優れた戦略の条件』楠木建(東洋経済新報社)

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 本の売れ行きを日々眺めていると、つくづく、ビジネス書ってたくさん出てたくさん売れるものだと感心する。もちろんジャンルを問わず売れる本もあれば売れない本もあり、そもそもジャンルという区切りも微妙に曖昧ではあるが、それにしても。ビジネス書は熱心な読者を多く抱えているわけで、書店としてはとてもありがたい存在だと思う。

 それで(ということもないが)、話題の『ストーリーとしての競争戦略』を読んだ。読んでいるあいだ中、そうそうそうそうと共感が膨らんで高揚感を覚えてくる。自分が毎日の仕事の中で抱いていた「ウチの会社、もっとこうすればいいのに」といったモヤモヤが、具体的・論理的に解明されていくような気になってくる。実際自分がそんな良いことをいつも考えていたのかは大いに?なのだが、そういう気分にさせてくれるところが“良いビジネス書”たる所以なのだと思う。

 競争戦略を考えるときは、長くて骨太のストーリーが必要。そうそう。ストーリーにはどこか一点マジョリティと逆を行くような“ひねり”が必要。そうそうそう。結局大事なのは一貫した論理的整合性なのだ。途中で夢物語やあてずっぽうが挟まってしまっては、個々の具体策は全体として有効たりえない。そうそうそうそう。

 滔々と語るように書かれた本なので、はまっていくうちに口調が伝染ってくる。会社の会議で「ストーリーが…」とかなんとか口走りそうになって思わず言い換えてしまい、我ながらびっくりしたこともあった。それはまあ浅薄な反応だが、では現実問題、手に入れた知識をいかに自分の仕事で活かしていけるかというと、当たり前だが非常に難しい。

 戦略ストーリーはまずエンディングのありようから考えるものとあった。そして、「エンディングを固めるためには、実現するべき「競争優位」と「コンセプト」の二つをはっきりとイメージしなくては」ならない。
 書店の成功物語のエンディングとしては、もっとたくさんの人がもっともっと本を読むような世の中になって、その中で選ばれる書店として存続していくこと、つまり、目指すべき「競争優位」としては「WTP(Willing To Pay:顧客が支払いたいと思う水準)を上げる」のが、まあ王道のような気がする。では、一方の「コンセプト」はというと、

 「言われたら確実にそそられるけれども、言われるまでは誰も気づいていない」、これが最高のコンセプトです。もちろんここにはジレンマがあります。みんなが食いつくようなコンセプトであれば、とうに誰かがものにしているでしょうし、まだ誰も気づいていないコンセプトであれば、往々にして突飛なだけで終わってしまいます。だからこそユニークなコンセプトの創造は難しいのです。このジレンマを乗り越えるのが本当の創造性です。


 結局のところ、現実をさまざまな角度と視野から粘り強く見つめ続け考え続けた末に、もしかしたらある日ふと、吹聴して回りたくなるようなストーリーが頭の中に舞い降りるのかもしれない。万が一そうなったら楽しそうだから、毎日の仕事には真っ当に向き合い続けようとモチベートされたことで、本書を読んだ価値は十分あったのだと思っている。


(販売促進部 今井太郎)



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