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2010年04月12日

『Reading the OED : One Man, One Year, 21,730 Pages』Ammon Shea(Perigee)

Reading the OED : One Man, One Year, 21,730 Pages →bookwebで購入

辞書を読むなんて、何でも電子志向の昨今ではナンセンスかもしれない。検索でヒットする答えを見つけたらハイ次というスピード感でないとついていけない世の中だと多くの人が感じ、そのように動いている。

辞書を引くという行為は、ただ当てはまる答えを探すのでなく、言葉の背後の広がりに思いをいたすことをも含んでいる。一つ一つの語は広大な森の中の単なる一本の木にしかすぎないかもしれないが、目にし得る一本一本の木をしっかり観察することで、森全体の成り立ちがうっすらと見えてくることがある。それが語学における応用力ということにつながるのだが、近頃の学生さんの多くが電子辞書に頼る。それ自体は悪くないのだが、今のところ紙の辞書を引いた経験がないとそうした感覚が涵養しにくいことは、多くの人が指摘している事実である。

こうした世の中では、ましてや広大な森の中の木々を一本一本くまなく観察しようなどというのは、会議に忙しい大学の先生にも超氷河期の就職戦線を戦っている学生さんにも不可能というより考えもつかないであろう酔狂な業であって、こんなことに挑戦するのはよっぽどの暇人か変人しかいないに決まっている。

アメリカにそんな男が一人いた。Oxford English Dictionaryは、言うまでもなく英語辞典の最高峰であって、言語の森では最大のものといえるだろう。冊子体で全20巻という分量は、通読という観念を最初から斥けていると考えるのがふつうである。それをAからZまで一年間かけて読破したという破天荒な記録が“Reading the OED”という本になっている(ハードカバー版、2008年刊)。副題は“One Man, One Year, 21,730 Pages”である。ふつうの本でいえば数百冊分だろうか。それにしても物語のように筋があるわけではない。どのようにしてそんなことが可能になったのだろうか。

著者はアマチュアの辞書マニアである。自分は言葉のコレクターだと言っている。たくさんの辞書に囲まれて、あらゆるマイナーな語彙を求めて、引きこもりの読書を続ける。これまでにもMerriam-Webster’s Second InternationalやWebster’s Third Internationalを読破してきたが、OEDはケタがちがう。今まで尻込みしてきた理由は二つ、読んでしまえば楽しみがなくなることと、途中で挫折した男と言われたくないから。ほとんどエベレストに挑戦する登山家のような言い草だ。頂上の目前で引き返しては全てが水の泡なのだ。

そんな「そこに山があるから登るのだ」的な著者のあっぱれな(?)挑戦を綴る本書は、60kgを超えるOEDの圧倒的なボリュームに比して、通勤電車で読むのに適した瀟洒なペーパーバック(2009年刊)で読める。これは“辞書版Super Size Me”と評されているように、大食いチャンピオンを見るようなキワモノ的リアリティーでぐいぐい読ませるノンフィクションであると同時に、これまでも多くの作家や学者によって説かれてきたOEDの偉大さについて、とにもかくにも全てを読んだのだという実体験からユニークな視点を引き出している、一味も二味も変わったOED入門書でもあるのだ。

本書では、AからZまでの各章に挿入されるかたちで、著者が膨大な読書メモから厳選したOEDの興味深い項目語が紹介されている。これが、今日ではまるで使われていない言葉ばかりで、よほどの語学マニアでもあまり知らないかもしれない。まさにOEDならではの出会いがこうして表現されているのだ。覚えても何の役にも立たないが、あんなこともこんなことも言い表す言葉がかつてあったことに、誰しも限りない人間的な興味を覚えるだろう。そしてそれを律儀に記録にとどめているOEDという辞書と、それをつくった人々にも。

本編の方は、読み進んでいる著者のドキュメント風のエッセイだが、これを読むと、OED読破という事業は、エベレスト踏破ほどではないにしても相当の苦行にちがいないと思われる。一日10時間の読書。簡単にいうが並大抵ではない。著者は大量のコーヒーに胸をむかつかせ、視力を悪化させただけではない。頭痛はますますひどくなり、首や背中にも疼痛が走り、吐き気を覚えることもある。一日中ろくに会話もせず、今では誰も使っていない言葉や、知っていたはずだが異貌に接してまるで新たに知るように思える言葉が、これでもかと脳内を駆け巡るのである。これはちょっと、何かと紙一重であってもおかしくないところだ。ただ座っているだけでも、いや座っているからこそ、大変なことがいろいろとある。

読む場所にも工夫が必要だ。部屋で読んでいると他の辞書に目移りするのが厄介だ。隣室の騒音もある。そこで外に出てみたが、風や虫なども読書への集中を妨げる。結局、図書館を選ぶ。それも名門とは言いかねる、学生があまり来ない大学図書館の地下。静かなようだが、時々来る学生ときたら図書館は本を読む場所だと思っていないのか演劇の練習など始め、注意するのにも忙しい。ネズミが出るよと脅してみたりする。数々の障害を乗り越えて、ようやく紙面に目を這わせることができる。

山に難所があるように、辞書にも読み進むのが苦痛な箇所がある。例えば、否定の接頭辞un-で始まる言葉の語義説明は、un-と結合する語の意味を知っていれば自明なものばかりである。これがOEDでは、なんと451ページも続くのだ!ほとんど電話帳を読むような単調さに、さすがの著者も音を上げかける。ところが、飛ばし読みの誘惑にさらされながら、たまさかunbepissed(= not been urinated on)などという珍語(一体どのような必要があったのか?)を発見するや、あらためて著者は辞書をひたすら通読することの他では得がたい快楽(?)に我を忘れるのである。

苦しい中にも楽しい旅の道すがら、著者の脳裏に蘇るのは、幼時から両親にホメロスの朗読を聞かされて育った(読み聞かせというより単に自分たちが読みたいものを読んでいたというだけらしい)という、この上なくブッキッシュな生い立ちであったりする。本を読むことが無上の楽しみになっていた著者にとって、一度読めば終わってしまう小説より何度でも読める辞書の方が魅力あるものになっていくのである。彼を辞書マニアの道にいっそう深くのめりこませることになったガールフレンド(Merriam-Websterの編集者でもあった)との出会いと同居のエピソードにしても、きれいに色分けされた多数の辞書が美々しく配置された彼女の書棚に恋したようにも読める。そして遂には、北米辞書学会の大会に乗り込み、プロの辞書学者たちが「OEDを読むだって?!」と正気の沙汰とは思えないという口調で驚嘆する場面まで、読みながら変化していく著者の一身上の状況も織り込まれて、本好きなら同病相哀れみかつあきれる、楽しい読み物になっている。

さて、OEDを読み終えた著者は、次に何を読むのだろうか。ペーパーバック版の「あとがき」によれば、やはりOEDを再び読破(!)することにしたという。ただし今度は時間の制約なく、自分の好きな速度で、ゆっくりと。知らない言葉と戯れることがとにかく楽しくてたまらない人なのである。

さて、それほどまでに彼を魅了する、どんな物語よりも面白いというOEDをぜひ読んでみたいではないか。実際、本書はOEDのすばらしさを伝えるだけではなく、一冊、一文字だけでもいいから(XはOEDで最短の13ページ、すなわち最速で達成感を楽しめる?)実際にOEDを読んでみようという力強い誘いなのである。CD-ROMもオンラインもあるけれど、冊子体もまだ現役。あなたはどれで読みますか?


(洋書部 野間健司)


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2010年04月07日

『ダリ・私の50の秘伝』ダリ,サルヴァドール(マール社)

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ダリがピエロの事を書いているのを読んでいたら、Lavin経由でファンアイク<<教会の聖母>>、そしてパノフスキー「象徴としての遠近法」(ちくま学芸文庫)にぶつかった。こういう事があるから読書は楽しい。

もとよりダリの絵画に縁はない。蟻や鍵付き睡眠や画家がセックスすべきかどうか、などのテーゼに興味がある訳でも無い。むしろ面白いのはダリが想定する画家のアキテクチャーの方だ。「私の50の秘伝」とは表層的には絵画を描くための秘伝であるが、同時にそれは、『地中海の雲ひとつない紺碧の空を見る』こと、つまり、眼球を使うこと=見ること、の秘伝でもある。

絵具が画家にとって大事な素材道具であるのは論を俟たないだろう。

『原子爆弾の作り方を知っている人はこの世界に何人かいるが、ファンアイク兄弟やフェルメールが浸していた「神秘の果汁(筆者注:絵具と溶剤のこと)」を知るものは、こんにち、この地球上に誰ひとりとしていない―この私でさえ知らないのだ。』

ラピスラズリ(瑠璃)は『周囲の色を一気に汚してみせてしまう』。最も美しく最も有意義な色は白と黒であること。ヴェネチアンレッドの絶妙な抑揚。メデユームの適応相関比較図、などなど。

ダリのイラスト(挿画多数)は、空山基に似ている。フォルムではなくテイストが。

この読書がピエロ・デラ・フランチェスカに行き着いたのは、<<秘伝44>>において『ルネサンス絵画最大の謎』とダリ本人が語る、「視中心の卵」のためだ。この祭壇画は現在ミラノのブレラにあり、ピエロ後期の傑作だが、Marilyn Aronberg Lavinの著書”Piero della Francesca (Phaidon, 2002)”にあるように、聖母頭上の貝殻(ビーナスの貝殻)と「卵」が、transept(翼廊)越しに遠近法で描かれており、極めて不思議なモチーフであり構図である。ダリが言うところの『最大の重力で聖母の頭上に吊り下げられて』いる「卵」は母性の冠だ。豊穣のしるしであって、バランスの取れた珠玉である「ウニ」、ミルクの冠なのである。消失点であり、アイロニーであって、『世界の意味論的な重みを宙づりにする』(レッシグ)「卵」なのだ。

たしかにファンアイクの「教会の聖母」は驚異である。絵画空間がフレーム外側の世界まで支配し、聖母の教会をヴァーチャルに作り出してしまっている。パノフスキーの<象徴形式としての遠近法>が言うところの、『。。。単に家とか家具とか個々の対象が縮尺されて描かれているようなばあいにではなく、画面の全体が―ルネサンス期の別の理論家の表現を借りれば―いわばそれを通してわれわれが空間をのぞき込んでいると思い込む「窓」と化しているようなばあいに、そしてそうした場合にのみ、まったき意味での遠近法的な空間直裁が行われているということにしたいのだ』。さっき、朝食のテーブルで、安っぽいトースタの鏡面に映る食べ終わりの食器。直視では見えない光のハイライトが美しい。アルノルフィーニ夫妻画のファン・アイクが見つけた鏡面光の魔術。昏い室内に差し込む外光。見ることの楽しさ。

繰り返しになるが、画家としてのダリにはさほど興味はない。知りたいのは見ることの秘儀、このわが眼球の欲望なのだ。




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