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2009年12月09日

『神と仏の出逢う国』鎌田東二(角川学芸出版)

神と仏の出逢う国 →bookwebで購入

「神仏でにぎわう年末年始に!」

まさに「師走」の慌しさが追いかけてくる。しかし、これを乗り切れば、一年間おつかれさまでした、となる。
年末年始は、にわかに神とか仏が気になるシーズンだ。クリスマスという異国の神のお祭りもあるのでなおさらだ。

お寺に行くと、すぐそばに神社があったりする。あるいは、神社の中に別の神社があったりもする。日本の神と仏はやたらと混ざり合っている。

学校の歴史の授業で習った「神仏習合」ということなのだろうが、純粋を好む人には気持ちが悪い。少なくとも西洋の「宗教」という概念では理解できないような精神風土が日本にはある。

とはいえ、世の中では「仏」を求める人は仏だけを、「神」に焦がれる人は神だけに打ち込んでいるのかもしれない。後者は特に「国家神道」のイメージが邪魔をして、知識人であればあまり足を踏み入れない領域に見える。

神道は日本の基層にある民間信仰すなわちアニミズムであるが、明治政府の宗教政策によって「宗教」ではなく「習俗」ということになった。その結果、日本人の多くが「無宗教」を自認するにいたる「ねじれ」が、阿満敏麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)他に詳述されている。

近代化とともに「宗教」そのものが変容を遂げ、過去と現在をつなぐ精神的な紐帯が空洞化する。近代に合わせてつくりあげられた新しい「宗教」の虚妄性が明らかになるとき、われわれは「宗教」そのものを忌避するにいたる。そして空虚な「祭り」だけが残る。それはまさに「習俗」だ。

そんなモヤモヤに答えてくれそうな本があった。鎌田東二『神と仏の出逢う国』(2009.09 角川選書)である。

著者のことは別の本で知った。京都大学こころの未来研究センター教授であり、かつ法螺貝や横笛やギターなどの楽器に通じ「神道ソングライター」の肩書きで活動している。先祖は源義家の重臣だとか。面白い方である。

神仏習合を「出逢う」とやわらかく表現してるが、本書で打ち出されているビジョンは、すこぶる壮大なものだ。

まず神道は日本的精神性の大元にあるものだ。そこに伝来の仏教を受け入れた。当初から「仏」をも一つの「神」と見ていた日本的霊性の原点が明らかにされる。

以来、律令の昔から、(基本的に)現在にいたるまで、神と仏の両者は、互いに寄り添って、日本人の宗教観をかたちづくってきた。近年では、特定の教団を念頭としない宗教性を「霊性」(スピリチュアリティ)と呼ぶことが広く行われているが、著者の立場も、神道と仏教は、かたちは異なっても共通の霊性で結ばれていて、いわばモードの違いとして両者を位置づける。

著者は「神は在るモノ、仏は成る者」と表現する。神道は自然から発し、仏教は人間から発する。かたや常住、かたや求道。アプローチはちがっても、補完し合っているのだ。

そして未来へ。神仏はより「共働」を深めて、人類の普遍的霊性へと開かれていくとする。そこでは、宗教観の差異を超えて、平和や環境といった人類共通の課題に向けて、宗教者が手を取り合って行く。

本書の過半では、そこにいたるまでの日本の神と仏の歴史がスケッチされている。著者の力業で、ぐいぐい読ませる。

それはまさに、時代時代の政治権力を支える「神話」と不可分であった。

空海らの天才的なビジョンによって成立した、在来の土俗の神と国家鎮護を担う仏教の体制から、骨肉相食む末法の中世は、根源的一者を求める、伊勢神道、吉田神道、鎌倉新仏教のルネサンス。

それが近世、天下統一を成し遂げた徳川幕藩体制下では、東照権現ネットワークの下、宗教本来の活力は骨抜きにされる。

そして迎えた明治維新。明治政府は、信教の自由という西洋の基準を受け入れた一方で、「神仏分離令」、次いで悪名高い「廃仏毀釈」に走り、日本の宗教的古層を破壊する。神道は習俗であって宗教ではない、という不思議な論理は、大日本帝国憲法に成文化される天皇の「かつてない神格化」とセットだった。

それはまた、後の「国家神道」イデオロギーの元凶として(水戸学とともに)名指されることの多い「国学」の敗退でもあった。島崎藤村の名作『夜明け前』のドラマでもある。平田篤胤は霊界の研究にも打ち込んでいたというのが興味深い。その失われた「国学」の可能性を、柳田国男と折口信夫という極めて対照的な個性が引き受けた事実は注目されてよい。

そして、現代とは、「神」にとって、どういう時代だったのか。「憲法九条」にまで話が及ぶ著者の持論を、今上天皇ならば、どう聞くだろうかと興味を惹かれる。平和な世を願ってつけられたはずの「平成」は大乱世の始まりというのはその通りであろう。「失われた二十年」に続けて、何をなすかが問われている。

著者は、今こそ、神か仏かではなく、両者を包み込むスピリチュアリティ(霊性)を、と唱える。そのきっかけとして、寺社の別なく、まずは自分の足で聖地を歩いてみることをすすめている。実際、近年、伊勢神宮から比叡山延暦寺までの「神仏霊場百五十ヶ所」巡りが人気を集めている。

筆者も、ふとしたきっかけで、寺や神社を訪ねることが多くなった。歩いてみれば、そこここにある。むずかしいことを言わないで、歴史や先人の息吹に目覚めてみれば、見えなかったものが見えてくる。


(洋書部 野間健司)


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