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2009年10月31日

『マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統』ポーコック,ジョン・G.A.(名古屋大学出版会)

マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統 →bookwebで購入

良い行為もしくは正しい行為は、たとえ、それが神と人間に知られることなく、隠されたままだとしても、良い行為、正しい行為であるだろうか?(ハンナ・アレント「政治の季節」筑摩書房)

再びマキャヴェベリが静かなブームである。どうにも不安な世情であって、このとびきりの姦計家の言葉(傭兵信ずることなかれ)はたしかに身につまされる。しかし主著「君主論」はどこまでも虎穴における虎子のべからず集であって、凡人がここに何かを求めるのはお門違いというものだ。
。。。。従ってまさに厳密な意味において行為は<徳>である。世界が不安定化し、予測のつかぬ脅威がたえないとき、行為するー正統の構造に含まれていない何事かをなすーということは運命に形相を与えることであった。攻撃が価値の大部分であった。マキャヴェリが繰り返し<運命>を女性として描写するのはこれがあるのであって、確かにかれも耽っていなくはないとはいえ、エロティックな空想からではないのである。<運命>は力ずくで獲得できるかも知れない。しかしあなたが時間のなかで行動しなければーこれらの語は注意して受け取らなければならないー、彼女はあなたを滅ぼすだろう(159頁)。

いかんとも高尚な文章であって、その言わんとするところを簡潔に示そう。偉人であっても凡人であっても個人の徳(人徳)には限界があり、つまりその肉体性の限られた時間で生み出される徳には「何の意味もない」ということ。しかしそれでは身もふたもないこと。超克するために不死性としての共和国概念を考える人たちが現れること。

不死の救世主を抱く一神教の世界、キリスト教社会の中にあってこの甚だしく倒錯したユートピア像と異端性は隠しおうせない。それでも、シャルルⅧ世率いるフランス軍の到来を間近にしたサヴォナローラは、お家芸の陶酔と熱狂の弁舌を振るいはじめる。

「神は自ら罰するところの者を愛したまう、フィレンツェに神が訪れたまう、フィレンツェは選ばれし国がためなり」

要するに完全に狂っているのだが、サヴォナローラ当人にとっては敵軍の到来さえもが祝福された運命であり、その強烈な情熱が共和国フィレンツェの人心を熱狂に巻き込んだ。人間の自己複数性(plurality)から逃れ得て、自己一元化できる存在は神だけだ(同アレント)。この神権政治家にとって<北から来た王>はまさにダンテのエコーである待望の「神の鉄槌(flagellum Die)」に他ならず、神の予言が~それが良いことであろうと悪いことであろうが、かれにはどうでも良いことだ~成就されることへの倒錯的な興奮に身も心も包まれている。

。。。しかし個人が永遠の現在nunc-stansを知性の行為として主張しようと、あるいは信仰の行為として主張しようと、明らかだったのは、彼はそれを共有できないし、時間におけるある瞬間(moment)は他の瞬間に囚われている知性にとっては知ることができないということである。またそのような知性には究極的な重要性もなかった。。。。。すなわち、永遠は時間の生み出すものと恋に落ちるかもしれないが、しかし、時間の愛は受動的で不活発なのであった。(p.6)

習慣を捨てるのは~それが良いものであろうと悪いものであろうと~難しいものだ。道で先を譲る、婦人のためにドアを開ける、ホスト役に徹する。。。彼地で良しとされることが此地で奇異に映る。別段不思議な話ではないが、つまりは生身の人間であって変えることは容易ではない。何年も前からそうしたことを感じてきた。ホッブス的「万人の恐怖」が存在しない世界~つまりある制限と枠での平等の中~において「公的生活を律する徳とは、世界の中では孤独ではないと感じる喜び」(同アレント)であろうし、自己の複数性から逃れ得ないわれわれにとって、人間間にある中間的空間にだけ自由があるのだ。

(官公庁営業部 林茂)


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2009年10月01日

『Global Linguistics : An Introduction』Marcel Danesi & Andrea Rocci(Mouton de Gruyter)

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「英語を通じて異文化に触れる―日本にこそ「グローバル言語学」を」

言語や文学の世界は、「英語青年」「月刊言語」休刊に象徴されるような冬の時代を迎えている。しかし、わたしたちが「ことば」を用いて日々生きている以上、その探究は(理論的であれ実用的であれ)もっと耳目をそばだてるものであってよいはずだ。言語学や文学研究といった学界の「制度」が維持可能かどうかという話とは別に、裾野を広げる努力不足を思う。

本書は、最近の学術系の洋書では、ちょっと新機軸ではないかと思う。研究書ではなく、学生にも読みやすいはずの英文と分量で、いわゆる「異文化間コミュニケーション」(intercultural communication)と呼ばれる分野への入門書なのだが、「グローバル言語学」(global linguistics)という新しい看板を掲げた。

「英語コミュニケーション」といえば、猫も杓子も寄り集まる。しかし、実際に仕事や旅行で遭遇するのは、典型的な「外人」との「駅前留学」的な安手のかっちょいい英会話なんていうものではなく、さまざまな文化的背景を持った、発音も話し方も一筋縄ではいかない相手との、お互いにぎこちない迷会話だったりする。

ディヴィッド・クリスタルによって、英語は「地球語」(global language)だという言い方が広まったが、一つの言語を話すから文化も一つだというわけには行かない。英語という「リンガ・フランカ」を通じて、異なる文化同士が出会う。その状況に照準するのが、ここでの「グローバル言語学」だ。日本の大学も留学生受け入れに本格的に乗り出した現在、まさに求められる視点ではないか。

異文化間の誤解はなぜ起こるのか。言語の要因は大きい。言語によって虹の色の数が異なると言われるように、自然現象としては同じでも、それを切り取る人間の視点は、言語に影響されている。その言語の刻印を受けた文化が、世代から世代へと受け継がれる。そして、その特徴は、習い覚えた英語にも影響を与えることになる。

それだけに、大きな誤解は、自国語の発想をそのまま外国語に適用した時に顕著になる。外国語学習における「干渉」(interference)は、実に避けがたい。発音規則の転用といった単純な語学的エラーはまだしも予測可能として、比喩表現ともなると、それが暗に含む意味(connotation)を外国語で言い表すには、比喩を成り立たせるシステムそのものの理解が必要であるから、誤解の修復は困難を極める。

したがって、異文化間コミュニケーションで肝要なのは、背後にあるお互いの言語文化特有の「概念」を翻訳できる能力ということになる。文字通りの翻訳は困難としても、ある程度の言い換えは可能である。その点、バイリンガルは、どちらか一方の言語文化の発想にとらわれすぎないがゆえに、相互に翻訳を行いながら異なる言語を往還する能力に長けている(interculturally competent)ということになる。

ごく大まかに、導入的な議論をなぞってみたが、入門書とはいえ、巻末書誌を見ればわかるように、語用論や認知言語学といった近年発展のめざましい分野の知見が幅広く参照されている。共著者のMarcel Danesiは、現在の記号論の分野の第一人者と目されている。語学・コミュニケーション教育と結びついた言語学の新しい行き方を示すものといえよう。

個人的に、なるほど、と大きく目を見開かされたのは、「議論」(argumentation)を扱った第五章だ。最近、わが国でも「論理力」が注目を浴び、授業にディベートを、などの動きがかまびすしい。しかし、「英語は論理的だから」とか言って崇め奉っていれば、それでいいのか。

議論は、証拠に基づいて主張を述べる、極めて論理的な行為に見えて、必ずしもそうではない。暗黙の圧力や言語文化に特有の表現にも影響される。前者は、わかりやすい例では、テレビ番組のスポンサー企業。後者だが、ある研究によると、ロシア語の文章は、英語圏の人にはほとんど論理的には感じられないのだという。それを以て、ドストエフスキーを生んだ国の言語を論理的に劣っていると言っていいのか。同じ議論は日本語にも当てはまる。言ってみれば「論理にも文化がある」のだ。

わたしたちは、しばしば普遍的な「英語」というものがあって、そのシステムに従わなくてはならないような強迫観念にとらわれている。しかし、Anna Wierzbickaというポーランド出身でオーストラリアに住む言語学者が、各言語に共通する普遍的な意味素の研究を主導しているが、その著English : Meaning and Culture(Oxford University Press, 2006)で言っていたのは、グローバルとされる英語にも、他の言語に見られないアングロサクソン独特の(ローカルな)発想が色濃く刻印されているということである(例えば、right/wrongの二項対立)。英語人として生きるということは、善し悪しは別として、そうした面を含んでいることに自覚的でありたい。

「グローバル化」に必然的に付きまとう、グローバルとローカルのせめぎあいは、このように英語自体にも内在しているし、それを通じた異文化の出会いは、事態をよりいっそう複雑にするだろう。議論もまた例外ではなく、普遍的な真実にいたるというよりは、“reasonable” な(これも極めて英語的な概念だとWierzbickaは論じている)落としどころを探るゲームに近いのかもしれない。

ちなみに、このあたりの「議論」の学術的研究は、本書によると「アムステルダム学派」(Amsterdam School)がリードしているらしい。出版社でいえば、John Benjaminsで、やはりオランダだ。そして、本書の出版国は、ドイツ。著者たちは、イタリアの大学の英語教師だ(おのずとイタリア人学生の誤用例が多く引かれるが、日本人留学生や韓国人留学生の事例も扱われている)。ヨーロッパにおける、こうしたinterculturalな英語出版の状況も興味深いところだ。

われわれが接する「英語人」の英米以外の比率がますます高まっている現在、日本にこそ「グローバル言語学」は必要なのではないか。


(洋書部 野間健司)


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