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2013年03月20日

『月山山菜の記』芳賀竹志(崙書房出版)

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「ゼンマイはこんなところで芽吹いていたのか!」

3月中旬にもなると、ビニールハウスで育ったものだとわかっていても山菜を売りにしたメニューを注文してしまう。水煮缶詰を堂々使う店に驚いたこともあるけれど、「採りたて」とも「今年の」ともうたっていないからこちらの見極めが甘いに過ぎない。スーパーにも一斉に山菜が並ぶ。春の一夜の食卓にはハウスものでも気分は十分、でもこれにはどうしても手が出ない。かといって天然ものを取り寄せたりするのはこころに合わず、たまたま送っていただくか旅先で食べるなどの時々の記憶がつながっていけばいいと思ってきた。


天然山菜の最初の記憶は子ども時分の5月の休日。朝起きると父がいない。昼ご飯のあと母が筵をひいたり灰汁抜きのための大鍋を用意する。午後3時ころになって帰ってきた父は車の中から籠や袋を取り出し、採ってきた山菜を筵に広げて種類分けする。食べられるもの、食べられないもの、飾るもの。さらに、今夜食べるもの、保存するもの、近所に配るものなど家族総出で始末する。ゼンマイの綿をとったり月山筍の皮をむいたり子どもの仕事もたくさんあった。こころ浮き立つ春の1日が、その年の気候次第で前後してやってきた。

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ときどきひどい怪我を負った父も歩いたであろう月山(山形県)が抱く”月の沢”の山菜やキノコについて、「月山頂上小屋」の主人・芳賀竹志さんが長年撮りためた写真を添えて著したのがこの本だ。先代の小屋主でもある父親と中学生のころから渓流釣りや山菜採りを楽しみ、小屋を継いでからは自ら採取した山菜やキノコを料理して登山者に供しているそうである。

コゴミ、アブラコゴミ、ウド、タラノメ、ウルイ、シドケ、コシアブラ、ワラビ、ゼンマイ、ミズ、アイコ……。これらがどんな場所に生えているのか、まずは写真が示してくれる。私が大好きなゼンマイが生えている場所の写真には〈通常"ヒラ"と呼ばれる山の斜面。良質のゼンマイが群れなすそこは、とにかく切り立った険しい環境の地が多い〉とある。50〜60度もあるような崖地にへばりついているそうである。こんな危険なところに、柔らかな綿をかぶって生えていたとは! 生えている場所を見つけるコツ、秋の下見や道すがらの注意。採るときにはいくら群生していても最低でも全体の3分の1は残さねばならないこと、株の根元から折らないこと。保存のしかた、おすすめのレシピ、調理上の注意、薬効、名称の由来、古老たちに教えられたこと。

林道や砂防ダムが建設されたり天然のダムと呼ばれた万年雪が温暖化によって減少するなど、半世紀のあいだに目の当たりにしてきた月の沢の変化にこころをいためながら、原生のブナ林と雪解け水による豊かな生態系の中でおごることなく暮らしてきた知恵を、ご自身の体験から示している。

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今では月山近くのスーパーにも栽培ものの山菜が並ぶそうである。”自然”食志向の高まりに押されて地元の農家が地名を冠した山菜の栽培をはじめれば、ご多分にもれず季節を前倒しした出荷となる。山にほんとうの春が来て名人たちが摘んだ山菜を売り場に並べても、〈栽培品に季節を先取りされた分、後発組は珍しさから遠のきあぶれる羽目になる〉。あきれるが、納得もする。私たちは食材としての初モノを異様に好む。食材以前のそのもの姿に思いが及ばなくなっている。「切り身の魚」が海を泳いでいると思っている子どもたちの話は可笑しいけれど、切って売り買いしている大人たちが笑う話ではない。

これから毎春この本を開けば、子ども時分に食べた味の記憶をよみがえらせながら、月の沢に芽吹く山菜たちの姿や物語を思い描くことができるだろう。味覚の記憶はなにも味覚だけで反復しなくていい。小さな記憶を糧にしてこんな楽しみができるようになったことがとてもうれしい。

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2013年03月16日

『落語の国の精神分析』藤山直樹(みすず書房)

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「先生、この噺を聞くと笑ってしまうのはなぜでしょう」

精神分析の先生が書く落語の登場人物論なんて読みたくないな。あの与太郎は○○病、この与太郎は□□症候群、江戸の昔からひとびとの心は病んでおり……そんなことで落語を聞く楽しみを邪魔されたくないからだ。でも本書を開くと早々に、精神分析家になるだいぶ前の落語大好き藤山直樹クンが現れて、夕方ラジオで聴いていた落語を憶えて保育園で披露したという逸話がある。五十代になってからは年に二、三度、落語を演っておられるというし、最初のこちらの思い込みは無用であった。


本書の主題はふたつ。ひとつは、落語の根多を、民衆が生み出したフォークロアとしてそこに働いた無意識を精神分析家として読み解くこと。もうひとつは、落語家という人間の生き方について、精神分析家である著者が〈ひとりでこの世を相手にしている〉ところに共通するものをみて論じること。「らくだ」や「粗忽長屋」、「文七元結」など私も好きな噺が並ぶ前者のテーマをおもしろく読んだ。

一本目は「らくだ」。死体が登場する噺は「粗忽長屋」や「黄金餅」などあるけれど最初から最後まで出ずっぱりなのは「らくだ」だと、言われてみればそうである。落語だからジツブツはもちろんないが、確かにいつも誰かのそばに馬さんの死体がある。半次や屑屋の語りによって、聞き手の意識から馬さんの死体が舞台に出たり入ったりしているわけだ。屑屋が死体と乞食坊主を取り違えてのオチで笑ってしまうのは、(間違えるなんてバカだなぁ、おいおい洒落になんないよ……)、これは〈部分的に彼らの狂気を楽しんでいる〉が、自分が〈いまだ正気であることを確認して喜んでもいる〉と言うのだ。〈だから私たちは笑っていられる〉。

薩長のお偉方の前で江戸っ子はどういうものかを教えてやろうと三遊亭圓朝が語ったと伝わる「文七元結」は、身を投げようとしている文七に通りすがりに出会った男が、自身にとってもかけがえのない五十両を渡して死ぬのを思いとどまらせる噺。この男はもちろんのこと、男のために自ら身を売っていた実の娘も、娘を担保にとはいえ博打好きのこの男に五十両貸した女将も、そんなひとっているかしらと思う半分、相手を信頼してとか自己犠牲とか誰かが見ているからではない勝手なふるまいをしていることに、そうしちゃうことってありそうと思える。それは〈かつて自分自身の体験した母性的な機能の遠い記憶がよみがえるから〉、〈自分自身の欲望をもたない、空の母親〉つまり無私なるものを恋い、憧れる思いであると言う。

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患者として藤山先生を訪ねることはおそらくないけれど、もしそうなったら会話の中に、「落語が好きです。この噺を聞くともう笑っちゃって」というフレーズはきっと出てくるだろう。精神分析家とはそれにどのように対するのか、そもそも精神分析とはどういうものかわからないけれども、居心地の良い長椅子にこしかけて、紅茶でも飲みながら、藤山先生による精神分析を疑似体験したような読後感なのである。

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