« 2012年11月 | メイン | 2013年03月 »

2013年02月24日

『S先生のこと』尾崎俊介(新宿書房)

S先生のこと →bookwebで購入

「愛弟子の独り語りを夜中に聞く」

本格的にアメリカ文学を学ぶ意欲に燃えた大学3年生の尾崎俊介さんは、ゼミの教授のすすめで宮口精二似のハンサムでスリムだがとっつきにくいS先生こと須山静夫先生(1925-2011)の授業を受けることになる。非常勤の先生のお手並み拝見とばかりに始めたが、古武士然とした風貌から振り下ろされた刀のごときひとことをきっかけに真っ向から向き合うようになり、やがて自宅にも訪ねるようになる。本棚や地下室を自作したり庭の草花の種類を数えたり、本を読むときには必ずノートをつけるといった徹底ぶりは仕事でも同じで、訳す作家の全作品を読んで言葉の好みや癖、考え方までつかむものだから、作家についての論文もいつも必ず書き上げてしまう。ある言葉の解釈に迷ったら「この言い回しを別の作品で○回、こういう意味で使っている」といった分析をし、〈作者の頭の中に浮かんだ言葉の順序を、翻訳者が勝手に変えてはならない〉と、原文の語順にも忠実であろうとしたそうである。


オコナー、メルヴィル、『ヨブ記』を下敷きにした戯曲など課題が難解であるほど、自分たちへ投げられたチャレンジと思ったと尾崎さんは書いている。最初の妻を病気で失い息子を車の事故で亡くしたご自身の境遇を重ね読んでいることなど、学生に知らせる由もない。先生にとって〈文学作品を読むことは人生を賭けた一大事だった〉が、あるときから授業でアメリカ文学作品を読むことをきっぱりとやめ、聖書を講読し、還暦を前にして原書で『ヨブ記』を読むためにヘブライ語を独学し、エルサレムに巡礼にもでかけたという。愛する人に先立たれた自分を生きるために、須山静夫さんは文学と信仰を携えた。

     ※

ウィリアム・スタイロン『闇の中に横たわりて』(白水社)、フラナリー・オコナー『賢い血』(筑摩書房)、ハーマン・メルヴィル『クラレルーー聖地における詩と巡礼』(南雲堂)など優れた訳業を残したアメリカ文学研究者の、ストイックな精神をあらわにする人物伝である。しかし、読み終えてのこの穏やかさは何だろう。恩師の訃報を受けて1週間あまり、途方に暮れた愛弟子が声高に誰かに聞かせるでもなく思いつくまま恩師について独り語りしているのを、盗み聞きしたようである。夜ごとの楽しみのようにしてついにすべてを聞き終えたとき、すぐにそれを誰かに言いたいとは思わなかったし、この本の頁さえすぐにはめくり返したくなかった。しばらくほおっておいてもらいたいーー。読後の余韻を今度は自分が独り語りしたかった。

なぜだろうと考える。抑揚のない丁寧な言葉遣い。誰かに語りかけるような、それでいて相手を感じさせない。ときおりの長い引用。若き日の意気がり、そのときの精一杯。同じ研究者となった今だからわかること、戸惑い、憧れ、笑い。よどみのない語りはこのお二人のよどみない関係そのものである。前後する時間は筆者のこころに浮かんだ順番そのままのようで、それぞれの人生のうちの30年を親しく過ごしたお二人の、30年以外の長い時間を感じさせる。よどみなく語られた30年以外の時間はこのあとどんどん長くなる。長く、前後に深くなり、穏やかになる。

そうだ、これは尾崎さんが、ご自分の30年に重なった須山先生の30年を、恩師の翻訳哲学を踏襲して”翻訳”してみせたのだ。フォークナーの『八月の光』を訳しながら登場人物のリーナ・グローヴの涙にいっしょに泣いた恩師のように、恩師の小説「ボイジャー二号に乗って」(短編集『腰に帯して、男らしくせよ』所収)を読みながら尾崎さんは泣いた。本書にはその一部が引用されており、尾崎さんが読みながら泣いてしまったと書いたところを読む前に、そして私も泣いていた。訳書を読み誰もが直に泣いている。

→bookwebで購入

2013年02月11日

『眼と風の記憶 写真をめぐるエセー』鬼海弘雄(岩波書店)

眼と風の記憶 写真をめぐるエセー →bookwebで購入

「思い返すことを怖れない」

撮影で何度も訪ねているインドやトルコの小さな町や村の風景に、写真家の鬼海弘雄さんはふる里の暮らしを重ね見る。山形県のほぼ真ん中、昭和2、30年代の醍醐村(現・寒河江市)には、暮らすために必要なものを身近で揃える、忙しいけれども当たり前の時間が流れていた。農家に生まれ育った鬼海さんは、ふる里を離れて長い時間が過ぎ、写真家として大きな賞を受け国内外で個展も開かれる忙しい日々である。それでも毎日いつものように朝を迎えて、夏には自宅ベランダのゴーヤーやトマトの不出来に「農家の倅なのに情けない」と嘆くのだった。

本書は、2006年4月から6年のあいだに山形新聞で連載していたエッセーをまとめたものだ。〈懐古はものを美しく飾ることも承知〉しながら、でも〈誰でもが、固有の手触りのある懐かしさで、未来に等身大の「しあわせ」を見定める「ものさし」になるのかもしれない〉と、〈ノスタルジーとの距離のとりかた〉に惑いながらも怖れず記憶を反芻している。思い出す回数が多いほど、それらはそのひとの心のうちを占めてゆくだろう。そのひとが向かうほんの少し前にある靄を払って、鬼海さんもいつしか〈手持ちの羅針盤〉を得ていたのだった。
いつも季節の歩みは、何度か踊り場を通っては階段をのぼったりおりたりする。子ども時代の思い出は、それらの季節の堆積した層に押し花のように挟まれている。

それにしても、生まれ育った場所のことをこんなにたくさん思い出せるものなのだろうか。鬼海さんのふる里とは寒河江川をはさんだ対岸におよそ20年後に生まれ18年を過ごした私が思い出せるのは、ほんのわずかだ。見過ごしたものの大きさに愕然とする。しかしあるいは繰り返し思い出すうちに姿を現してくるものなのかもしれない。言いあらわす言葉が体に入った次の瞬間に、それまでもやもやしていたものが「記憶」に昇格するのかもしれない。そんな風にも思えてくる。だから何度でも遠慮なく思い返す。他の誰も知ることのできない1人分の時間を反芻してみる。
インドやトルコの今が、鬼海さんのからだに醸成された記憶によって少し前の醍醐村に重なりエッセーとして記録されたように、1人ずつの確かな記憶が、出会うはずのない場所をつなげていけたらいい。本書の表紙で布にくるまりこちらを見つめている幼い子どもは、もはやすぐ隣りで微笑んでいる。

     ※

1編に1枚ずつの写真が添えられている。文章を仕上げたあとで膨大な数の写真の中から1枚を選ぶ作業は、さぞかし楽しそうだ。鬼海さんの写真の魅力は添えられたキャプションにもある。このたびのエッセーはいつものキャプションがだいぶ長くなったバージョンと考えてみると、話題に重なる写真であることが多いけれどそうでもないように思えるものもあって、これがまた楽しい。
「カレーライスとライスカレー」とタイトルされた1編には、鬼海さん流のカレーレシピがある。添えられた写真はインドの2人の巡礼者で、向かい合ってしゃがみ込んで頭髪を剃っていたようだった。背後に川、2艘の舟が画面の両脇に留めてある。写真家が何か声をかけたのだろう。剃っている男は顔をあげてカメラをにらむ、剃られている男は頭をおさえられているのでうなだれたまま。……。カレーライスとライスカレー。それが何か?と聞かれたら困るのだけれど、読むたびに声を出して笑ってしまう。
「泳がない鯉のぼり」には、トルコの街角で門につながれこちらを見るロバの写真が添えてある。エッセーは、ある年の端午の節句、幼なじみと隣町に笹の葉を売りに行ったがひるんであえなく撃沈、砂利道を自転車で帰り、田んぼ道でやすんだエピソードである。写真には「誰何する驢馬 トルコ」と添えてある。少年たちの得意と意気揚々と緊張とまたたくまのしょんぼりがたまらなく愛おしい。もっとも好きな1編だ。

→bookwebで購入