« 2011年07月 | メイン | 2012年10月 »

2012年09月17日

『その日東京駅五時二十五分発』西川美和(新潮社)

その日東京駅五時二十五分発 →bookwebで購入

「19歳の”されこうべ”」

広島に暮らす飛行機好きの「ぼく」は19歳で召集され大阪の陸軍通信隊に配属される。数日後には東京の通信隊本部へ転属となり、無線送受信の練習中にアメリカの短波放送を受信してポツダム宣言の内容を聞いてしまった。日本語訳がラジオで流れた前日のこと。8月11日には中尉から所属する隊の撤収を告げられ「我々は、機密書類や通信機材の一切合財を、焼却し、あまさず処分しなければならない」と、着る服を残したすべてを全員で焼き尽くす。2カ月前に降りたばかりの東京駅へ。日付変わって8月15日。仮眠中に憲兵がやってきた。身分を証明するものが何一つない。一緒の隊だった笹岡と一世一代の大芝居。5時25分発の東海道線で、9日前に「新型爆弾」で丸ごと吹っ飛ばされたとラジオで聞いた広島に向かう。ただ一発の銃弾を打つこともなく、耐えられないほどの辛く厳しい訓練も空腹もないまま、玉音放送を聞く前に撤収と告げられ戻った故郷で、〈この街が目撃したというそのおそろしい光を、ぼくは知ら〉ず、〈すでに全くの門外漢〉となった自分を知る。

     ※

著者は映画作品『ゆれる』『ディア・ドクター』『夢売るふたり』などがある脚本家で監督の西川美和さん。執筆のきっかけは、1945年春に召集されて陸軍の特種情報部の傘下で通信兵として訓練を受けた伯父の体験にある。伯父の手記には感情的感傷的な言葉はほとんどなかったそうで、改めて話を聞きに行っても劇的な表現で語られることはなかったそうである。本書の語り口も軽やかだ。

〈全てに乗りそびれてしまった少年〉である「ぼく」は、自ら望んだり画策したことがひとつもないからこだわりがない。子どものころ、尊大で癇癪もちの祖父の顔にぼんやり笑ったような「されこうべ」をみつけた逸話が冒頭にある。されこうべの上を覆う張りつめた表皮に祖父の哀れを感じて以来、理不尽なものに出会うたびにされこうべを透視して、やり過ごしてきたのだろう。理不尽だらけの時代だというのに、だから「ぼく」の記憶の中には〈えも言われぬ恐怖を人心にもたらす〉ひとが出てこない。されこうべがまだ見えなかった時代の祖父以外は。

「ぼく」が唯一見ることのできないされこうべは自分自身のものだという。この物語が、「ぼく」のされこうべそのものに思えてきた。頭の上をぶんぶんぶんぶん敵機が飛んでそこかしこの戦火におびえながらも、飛行機好きの「ぼく」はすぐれた飛行機としての零戦をすごいと思い、B-29の翼は美しいと思う。国家も民族も関心はない、ひっそり自分の生活を守っていられればよかっただけなのに、召集されて訓練で持った九九式は実際に撃ってみたくなったし、無線もやってみたら面白い。益岡というおかしなやつとも友達になれたし、とにかく上官にぶたれるのはいやだからそれだけに必死で過ごした。自分が国を愛しているのかどうか、国が負けるとはどういうことか、自分には何もわからない、わからないから怖くない。でも、赤く燃えた空を見るのは辛い。生きたまま根こそぎ土ごと焼かれていくのを見るのはとてつもなくたまらない。それとこれと、なにがどう関係しているというのだ……。心当たりのある19歳のされこうべがそこにある。他の誰とも大差のない、なにごとかで覆う以前の。

     ※

広島に生まれ育った西川さんは小さいころから戦争や原爆の悲惨な情景や体験を聞かされて、知っておかねばならないと分かっていても、〈そんな話ばっかし。頭が割れるほどいやだった〉と「あとがき」に書く。強烈すぎるできごとはその下にある無尽の些末を黙らせて、また無尽の些末をつかもうとする指先を拒む。戦争は「ぼく」の祖父のように、西川さんの前にあったのだろうか。そんなことを考えていて頭に浮かんだことがある。

日記が宿題だった小学生のころのこと。先生が短い感想を書いてくれるのがうれしかった。夏の日、両親が友人と戦時中の話をしているのを聞いて「楽しそうだった」と書いた。畑のものを盗んだ武勇伝みたいなものだったと思う。午後戻って来たノートには、戦時中苦労したおとなをそういうふうにみてはいけない、あなたがそんなふうに感じるなんて先生残念、と書いてあった。ショックだった。戦争に関わる話をするときには、まずもってその悲惨に胸を痛めねばならないと知った。確かにそうだ。でもそれだけではこうして「ぼく」に会うことはできなかっただろうし、自分自身の19歳と戦時下の19歳に同じされこうべを見ることもできなかっただろうと思う。「ぼく」に会えてよかった。

→bookwebで購入

2012年09月09日

『地図で読む戦争の時代』今尾恵介(白水社)

地図で読む戦争の時代 →bookwebで購入

「地図に暮らす人が等身大になるまで縮尺を上げる」

膨大な地図資料をもとにたくさんの著書を持つ今尾恵介さんが、「地図で戦争の時代を読む」「戦争の時代の地図を読む」という2つのテーマでまとめた本である。侵略あるいは占領によって変化した国土を政府はどう記してきたか。戦時体制下では一般の目に触れることのなかった地図も古書市場に出るようになり、そうした貴重な資料も含めた新旧の地図を見比べることで浮かび上がる時代を追う。
散歩しながら昔ここは何だったのだろうとスマートフォンのアプリで古い地図と見比べることはたびたびあるが、東京ドームやこどもの国、代々木公園が軍用地であったことなどに単純な驚きを覚えるばかり。そもそもなぜその場所が軍用地とされ戦後どのようにして転換されたのか、そのことによって消えた町や道路があるならなぜなのか……。今尾さんのように新旧の地図を丹念に見比べることができれば疑問はとめどなくあふれ、地図を扉にしたラビリンスが待っている。
本書の中で「地図が隠したもの 秘匿される地図」と題された章がもっとも興味深い。昭和10年刊の等高線を省いた横須賀の地図、昭和7年刊の大久野島を含む瀬戸内海を真っ白に塗った地図、昭和12年の軍機保護法改正にともなって行われた「戦時改描」の例……。最も隠したい相手である米軍はすでに正確な日本の地形図を得ていたことは周知のとおり。結果的に欺いたのは国民の目であった。それどころか、残された資料の偽りを見抜く術を知らなければ、〈後世に生きる現代人でさえ引き続き欺き続ける厄介な存在にもなった〉と今尾さんは言う。

     ※

今尾さんの目には地図製作者ひとりひとりの無念もうつる。「戦時改描」を迫られてわざと雑な描写をしたのではないか、それは大胆な反抗と想像したり、空襲で焼け野原となった一帯の地図から市街地を記す模様を削る切なさを思ったり。地図上から消えた場所や名称には、その場所を失ったひとびとの行く末来し方も重ね見る。地図に人を見ている――。どうすれば地図に人が見えるのか。戦災焼失区域はピンク色、疎開区域は緑色に塗られた「東京空襲を記録する会」が復刻した地図を眺めながら今尾さんが言っている。
 番地まで表示されたこの図を眺めていると、「東京は焼け野原になった」などという大雑破で月並みな表現より、よほど具体的に、広大な面積で家屋も学校も工場も、何もかもが焼かれた事実として迫ってくる。「頭の中の縮尺」をさらに上げてみれば、もっといろいろなことが想像できる。一郎君の家は焼かれて一家行方不明になった、和子さんは両親も弟も亡くして千葉のおじいちゃんに引き取られた,田中さんは経営していた町工場を失って茫然自失になった……。
 戦争を知らない世代には、おびただしい数の亡き都民の無念を、このピンクの市街地から懸命に想像する義務があるのではないか。

地図の中に暮らす人が等身大になるまで、縮尺を上げて地図を見つめるのだ。

→bookwebで購入

2012年09月08日

『関東大震災と鉄道』内田宗治(新潮社)

関東大震災と鉄道 →bookwebで購入

「町に駅が立体的に建っていた」

9月1日の午後、浅草から上野方面に向かって散歩する。整然とした道路は平らで街路樹は少なく、横断歩道の白線が眩しい。6月の祭りは界隈の通りを本社神輿の渡御が何度も執拗になめまわすようにして進み、たくさんの氏子の足が地を鎮める。89年前、大正12年のこの日は、地震による火災で焼け出されたひとたちが、家財道具を背負い西に向かって走ったのだろう。火勢は西へ東へと向きをかえたそうだが、火の手をまぬがれた上野の山と駅におよそ50万人が避難した。震源は相模湾北西沖、現在の震度にあてはめると都心や横浜は震度6強〜弱、藤沢、小田原、館山などは震度7にあたる。

     ※

本書の著者、内田宗治さんは、新潮社の『日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録』の記事執筆をきっかけに、関東大震災のときの鉄道を調べはじめたそうだ。大正12年は新橋と横浜間に初めて鉄道が開通して50年、北海道の稚内から鹿児島まで国鉄は延びて、全国におよそ3000社の私鉄ができていた。地震発生時に被害区域で走っていた列車は125本、走行中の6本と停車中の1本で死亡事故が発生し、駅のホームや駅舎の倒壊で亡くなったひとも合わせて130名が亡くなったそうである(行方不明を含む)。
大きな被害をうけた根府川駅、巨大ターミナルとしての東京駅と上野駅のほか、走っていた列車それぞれと、線路や橋、トンネル、駅舎や工場、機関庫の被害状況を、時刻表や公的資料、写真、手記、インタビューなどを通して記してある。国鉄を走るのは蒸気機関車がひく客車や貨物がほとんどだったために水の確保に難儀したこと、逓信省の通信網も寸断されたために鉄道省の通信線が利用されたこと、ラジオ登場を2年後に控えた状態での報道合戦のことなどもあり、当時、鉄道の果たした役割の幅の広さを知らされる。

     ※

この90年に見る鉄道の役割の変化もさることながら、駅の変化も大きい。荷物は宅配に、切符も改札も自動になり、丸く空いたガラス越しに駅員さんと話すことはほとんどないし、時刻表も居ながらにして見られるので待合室に居座ることもない。集まり尋ね留まる立体的な場所ではなくて、「駅ビル」という名の商業施設の中にある自動改札を扉にしてスルーする点のように今は感じる。駅が町のシンボルとして立体的に機能していれば、災害時にやってきた人々に駅舎や線路を開放するのは当たり前の感覚なのだろう。
そうした鉄道員の働きについてもたくさんの記録がある。被災状況によって対応はそれぞれだ。東京駅では駅員がとっさに「ホームから飛び降りろ」。上野駅では震災当日に避難民を無賃輸送、田端・赤羽両駅は地震発生1時間後に開放。線路を歩く道にしたり、略奪から貨物を守るのではなくそれで炊き出しをしたり、せまりくる猛火から避難民であふれる駅舎を守るために近隣の木造建造物を壊して空き地を作ったり。いずれもマニュアルでは想定しようもない事態だ。咄嗟の判断で行動しているのは、「鉄道員」のまえのただひとりの「人」が、「客」のまえのただひとりの「人」を助けようとする一心に思える。のちに讃えられた行為も多いが「勝手な行動」として公的記録から外されたものもあるようだ。

     ※

昨春の東日本大震災では、発生時に走っていた27本の東北新幹線はすべて安全に停止して鉄道の乗客乗務員に死傷者はなかった。土木や列車停止技術のすばらしい進歩の一方で、鉄道会社組織としての対応や情報の伝え方などのソフト面はどうなのかと内田さんは問う。合わせて、関東大震災で山津波に襲われた土地に40年後、東海道新幹線のトンネル工事により出た土で土地が造成された例をあげて、大震災の教訓を忘れがちな私たちの国民性にも触れている。
苦い体験からの教訓が、今でも忘れ去られがちなのは、古来から天災や異常気象には、諦めと祈りとをもって対処してきた農耕民族としての日本人のDNAという気がする。

本書には、鉄道員として個人でとった行動を記す資料やインタビューの多くが実名入りで記されている。残さないとあとから知ることができないというのは考えるほどに恐ろしい。震災の記憶は、私たちはいつしか忘れるという覚悟を共有して、ひとりひとりが振り返りながら入れ子になって進むことの集積として残るのだなと、感じた。

→bookwebで購入