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2011年04月09日

『アナトリア』鬼海弘雄(クレヴィス)

アナトリア →bookwebで購入

「失われたあらゆるものへの懐かしさを未来へ」

1994年から15年の間に6度、秋から冬にかけて訪れたアナトリア大地(トルコ)で撮影した140点が並ぶ。一度の滞在は6〜8週間で、写真家は首都イスタンブールから乗り合いバスなどで地方に出かけ、〈人や文化のからだが等身大に見える町や村〉をひたすら歩く。アナトリアは標高1000メートルを超える台地にあり、冬は寒く人々はめったに外を歩かない。しかしあえて寒い季節に出かけたことで、〈道で遠くから眼にしていた他人同士がすれ違うころには互いにある親しみが自然と湧いてきて、不躾なレンズをためらうことなく向けられた〉と、あとがきに書いている。

彼の地を目指したきっかけは、1991年にベナレスに5度目の長期滞在をしていたときにテレビのニュースで知った湾岸戦争だったという。モスリムの人々の文化が、暮らしてきた土地ごとなにもかも壊されてひとつの色に染められていくように思え、いつかモスリムの国を訪ねようと考えたそうである。15年にわたる旅も、旅先の国が物価が高騰して〈幸せのカタチが金によって明示〉されるようになり、等身大で生きていた人々の姿が変わってきたと感じた写真家は、ここでの撮影に区切りをつけた。

大判(縦295×横302㎜)のこの本は全て横位置で撮影された写真が並び、撮った場所と年、そして、「怖そうな兄さん」「聖地メッカの方角を指差す婦人」「石垣を崩した言訳をする母」「22羽のアヒルと冬の気球」などの短いタイトルが添えてある。1枚1枚緻密に言葉を選んだように見えて、その実、ファインダーをのぞいてシャッターチャンスを待つ間繰り返していた写真家自身の呪文だったのではないか、とも思う。例えば「怖そうな兄さん」には確かに怖そうな兄さんが写っているが、道ばたにとめたリヤカーみたいなものに大の男が2人向き合って背中を丸めて座っているだけであって、道行くひとは見向きもしていない。顔をあげてこちらを見なければむしろ気弱にみえる「兄さん」に潜む一瞬の怖さを盗み撮り、「やった!」と声をあげる写真家がそこに居るような気がするのだ。

     ※

2011年1月の刊行に合わせて各地で鬼海さんのトークイベントが開かれた。1月23日の青山ブックセンター本店では、「曇天の村道を行くアヒルの数を示すこと」と題して解説を寄せた作家の堀江敏幸さんが聞き手であった。現地で撮影している間はひとつきの生活費を1000ドルに抑えたこと、せいぜい3日に1枚なんとかいい写真が撮れたこと。知らないひとと会うのは幸せ、それはかつて富山の薬売りを家に迎えた時にふっと風が吹いたと感じたのに似ていること。パンでも服でも家でも物を作る人がたくさんいて、雑木林のようにそれぞれがそれぞれのままに在る土地は個性があっていい、だからほら、「みんな美しい顔をしているでしょう」。なのにいつの間にかいつもなにかと比べて生きるようになって、そういう暮らしは実にあやういと感じること。写真がいかに写らないかを肌身で知って、それで私はやっと写真家になれたのだ、写真家なので、写真を撮らなければ私の眼は浅くなる——。

「文章を書くひとが写真を撮っているように感じる」と表した堀江さんの問いに応えるかたちで、写真のタイトルについてひとしきり話題が集中した。笑った。笑った。たとえば「○○する××」というタイトルの多くは「○○する××ではなくて実は△△だった」といった具合。「実は△△だった」というのが写真を見ても少しもわからなかったりヒントがあったりで、とにかく可笑しい。改めてページをめくれば、「△△じゃなくて□□」じゃないの?いや「◎◎」?いや「▽▽」?と、ひとりごちは延々と続く。フレームの前に右に左に奥にある見えていない何かにフォーカスがずれるのは、「写真集を前にして見る人のダイアログが始まる」と言った写真家の誘惑に全身を預けたようなものである。

     ※

少し長くなるが、鬼海さんの言葉を引用したい。地球の豊かさに命をつないできた私たちの〈人間の生地〉とは、これまで失ってきたあらゆるものへの懐かしさなのだろう。自分自身は穏やかに過ごしていても、いつもどこかで喪失を全身に受けている人がいる。目の前のフレームの右に左に奥にあって見えていない失われたあらゆるものへの関心と想像は、誰にとっても日常的でなければならない。"懐かしさ"を、未来に。

懐かしさはあらゆる過ぎ去ったものを美しく装飾する性癖がある。用心をしていた。それでも、人びとの生き生きとした表情やきらきらと輝く子どもだちの瞳にはおのずと虜にさせられた。そんな無償の仕合せの中を歩いていると、発達した産業社会や消費経済が進化して暮らしに便利な人工物が溢れ、豊かさを享受しているはずの人びとから生き生きした表情が消えていくのはどうしてだろうかなどと、素朴な疑問がよぎったりした。新しい貧しさがかたちを変えて、おしなべて人びとに覆いかぶさってきているのだろうか……。(略)
きっと、わたしと同じような体験を直接する必要もなくなった若い新しい世代の人たちのDNAというか、人間の生地には、彼の地の人の在りようにある懐かしさを感じる連続性や広がりがありそうな気もする。というのは、それはある種の自然さへの感応なのだから。(略)
生きている時間だけに縛られがちになってしまった時間感覚の幅を、もう少し過去へも未来へもひびく波動へ。
(あとがきより)


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