« 2010年10月 | メイン | 2011年04月 »

2011年01月16日

『賽銭の民俗誌』斎藤たま(論創社)

賽銭の民俗誌 →bookwebで購入

「神様の前でどうして銭を放り投げるのか」

ラジオの「子ども電話室」に寄せられる問いに先生方がどう答えるかを聞くのはいかにも面白い。本書の著者・斎藤たまさんも〈当意即妙の、時には目を白黒させながら応える〉そのそぶりを楽しむが、あるとき「なぜ賽銭は放り投げるのですか」という問いに「社殿がこわれたら直さなくてはなりません、そうしたことに当ててくれるように金を差し上げるのです」との答えを聞き〈無理もない〉と思いつつ納得がいかなくて、「はしがき」でこう問いかける。

人に物を贈る時、それを放って拾わせたりはしたものだったですか。
それが神前では起るのです。むしろ、神様に聞こえた方がいいとばかりに、わざとも音高く放り投げるのです。

たしかに今年も初詣で、柏手を打つのと同じ案配で景気良く放り投げてじゃりりんと賽銭箱を響かせて晴れ晴れとした気分で帰ってきたが、さて、なぜなのだろう。

     ※

斎藤たまさんは1936年山形県東村山郡山辺町生まれ。1971年より全国各地を訪ね歩いて民俗風習の聞き取り調査を続け、著書も多い。本書はこれまで集めた資料の中から本テーマに添って組み立てられたもので、賽銭は、銭の前は米、その前は石だった(と思われます、と著者は書く)、ならばその性格をたどっていけば賽銭の本来の姿が知れるのではと、各地の銭、米、石を追っていく。

賽銭の起源を求めるための聞き取りを書き下ろしたものではないから引用される事例の場所や時代はばらばらだ。だがたとえば、墓穴を掘る時に四隅とまん中に銭を置いた話のすぐあとに、〈土地神さまから地を買うのだなどど説明されますが、それはどうでしょう〉ときて、その銭と同じ働きをウツギの枝で地面を叩いていた例が示される。一つ二つ三つと同様の事例が並べられると、あ、なるほどな……と思うものだが、こんなふうにわずかの事例を前に推論をして、あとは見ず聞かずに落ち入りがちな愚を戒めるのだ。

     ※

賽銭に米をまくのは広い地域でみられたようだ。大正始めの福井県小浜市では正月になるとまかれた米で拝殿が真っ白になったというし、おひねりにして供えた地方もあるという。また棺に米をまく地域もあって、これは生きている人と亡くなった人との間にいる〈寄ってもらってははなはだ迷惑する第三者に打つもの〉ではないかと書く。

ここで思い出すのは昭和40年代に立て直した実家のことだ。建前のときに近所の人たちを大勢集めて、屋根から餅と五円玉をおひねりにしてまくのだった。どこのお宅でもそうだった。子どもだったのでただただ拾うのが楽しくてその意味を考えたことなどなかったが、近所への心遣いにしては餅も銭も少な過ぎるし、第一そのための宴席は別に設けていたはずだ。骨組みが整ったばかりの家に「寄ってもらってははなはだ迷惑な第三者」なるものに向けて打ちつけていたのであって、それはすなわち地域全体にとって「寄ってもらってははなはだ迷惑な第三者」だったのではないか——そんなことを考えた。

今にすれば現実味のないまよけだが、そもそも"魔"に現実味なんてあるものか。むしろ日常に潜む"魔"にめっきり気づかなくなっていることを、本書を読んでつくづく思い知らされる。もしや具体的な誰かを「寄ってもらってははなはだ迷惑な第三者」などと感じることがあるならば、それこそ"魔"が忍び寄ってきた状態だ。そんな時こそ、目に見えぬ神に向かって高々と賽銭を放り投げたいと思うのだ。

→bookwebで購入

2011年01月05日

『パテ屋の店先から』林のり子(アノニマ・スタジオ)

パテ屋の店先から →bookwebで購入

「森のオフクロはパテ屋の店先にいます」

家で料理をしないひとでも、一杯のお茶をのむのにやかんに湯をわかすことはあるだろう。そして音の変化を聞き分けて、ガスや電気のスイッチを切っているのではないだろうか。この本の著者、林のり子さんの日常は、まずなにより観察にある。例えばお湯をわかすにも体ごとやかんの中に入り込んでしまって、沸騰の瞬間にこんなふうに立ち会う。

かろうじて薬罐の底面に接している水の粒だけが熱くなって、それがまだ重く冷たい水の層をかきわけてすこしずつ上昇をはじめる頃は音もひそやかであるが、熱い水粒の量がふえて上昇水流のいきおいがつよくなると、薬罐の中は上を下へのさわぎで音も暴力的になり、そしてついに水の最後の一粒が沸点にたっした瞬間にすべての粒子は水蒸気の、つまり気体の予備軍となって重力からときはなたれ、ふっくりとかるい音にかわる。ことに最後の十秒間の音の変化は十・九・八……とロケット発射時の秒読みのスリルとリズムをともなっていて、最後の一粒が気化へのエネルギーを蓄えおえる瞬間を私たちに予告する。

アントニオ・ガウディを卒論に建築科を出たのり子さんは、ロッテルダムとパリの建築事務所に勤め、帰国後も仕事を続けながら〈食い気と興味につられてレバーパテをつくっているうちに、本業のはずの設計の仕事よりよほどたのしく〉なる。住まいの改築を機に作業場を作って、 1973年、パテを中心にした惣菜屋を開く。パテづくりのきっかけはアメリカで食べた手製のレバーペーストで、〈工場で作るもの、と思いこんでいた〉のが自分でもできることがわかったからという。仕事場では、材料にふれながらそれぞれの性質や調理のための熱の性質、あるいは一つ一つの調味料の持つ特質を〈ボンヤリ考えているときが、私にとってはいちばんたのしい〉。ボンヤリ考えるとはつまり観察をすることだ。なにかの違いを探知して耳をすましたのり子さんは、見つめるものの世界の住人に迎えられ、そしてその記録が先に引用したような言葉になってあらわれる。

のり子さんの観察は、実験と、その後の「組み立て」に継がれてゆく。パテづくりのきっかけが自分でもできそうだったから、というのも”実験精神”のあらわれだろう。店をはじめた最初の2年は手当たりしだいの試作で失敗をかさねたというが、〈素材・道具・機械を含む作業全体と私たちとが、コミュニケーションの方法を模索していた時期〉だったと書く。以来37年、田園調布の住宅街の一角の、頑強な門も塀もなく生垣の上からわさわさと樹々がはみ出る庭の奥に、観察と実験と組み立てを繰り返す「パテ屋」がある。そしてこの本は1987年に刊行された『かつおは皮がおいしい』(晶文社)の新装増補版で、パテ屋OGの清水ミチコさんやぱくきょんみさんらとの座談会もおさめられたが、そもそも店のレシピやご自身のライフスタイルを書き連ねたものではない。のり子さんの「ボンヤリ」と実験が入れ子になって組み立てられた"のり子マトリョーシカ"が、食のベールをかぶって穏やかに音楽や絵や詩や科学や歴史を森の中で語る、そんな風情なのだ。

     ※

この本を読むあいだじゅう何度も戻った場所がある。八百屋さんや魚屋さんからすすめられたものは、拒まず捨てずというのり子さんの〈原則〉が記された「拒まず捨てず」(初出「in」1980.3)と題された一編だ。おすし屋さんですしをつまみながら魚のアラが気になる〈因果な性(たち)〉ののり子さんは、料理の食材の、それが食材と呼ばれる以前の姿に観察が届いてしまって、ここに出てないところはどうなってんの?というわけだろう。ニシンのわたは佃煮に、骨はふりかけにしてしまうのも、捨てるのがもったいというよりは、誰もがよくわかっているかのようにひとつの物を食材とゴミにばっさり切る可笑しさに、ドレドレと実験を重ねているようにみえる。

ご自身は「お料理」好きだと思っていたが、長じて違和感を覚えたそうである。これも観察のなせるわざ。そして「料理」とは食材処理の手段、それが味の担い手として目的化されたのが「お料理」と書く。見回せば、旬の時期に大量に求めて合理的経済的に処理して家族を満腹にする技は家庭から消えている。だが料理人を社会のオフクロに、調理器具をその手足と観察することができるなら、料理人にその技は引き継がれていると考えていい。それを今度は「プロは違うね……」などとばっさり切る世間の可笑しさに、またドレドレと実験を始めたのがのり子さんのお店ではないだろうか。社会のオフクロのひとりはもちろんのり子さんなのだ。

〈大量の食材を前にしたら誰もがやってみたくなるイタズラの記憶〉と技がいつかどこかで必要とされたとき、社会という森のどこかで誰かが受け止められるように、のり子さんはひとりぶんの命を繋ぐ。イタズラの記憶も技も、この森のどこかで誰かが引き継いでくれていると感じられたら、幸せなことだと思うのだ。たとえ今夜、緑なんかちっともない場所に建つマンションに帰ってコンビニのお弁当を食べるにしても、森のオフクロを感じることができるなら味わいは必ず変わる。どんな食事にも、たくさんの生き物の記憶を感じられるようになるからだ。夕食の前に是非本書を。森のオフクロはパテ屋の店先にいます。

→bookwebで購入