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2009年05月05日

『身体としての書物』今福龍太(東京外語大学出版会)

身体としての書物 →bookwebで購入

「この本は、歩きしゃべり耳を傾ける「書物」である」

「書物」のことをあまりになにも知らないし、買って読んだ本のこともほとんど頭に残っていないし、それでいったい私は「本」の、何がどう好きだというのだろうと思うのだ。それでもやっぱり「書物」についての本は手元にしたくて、そしてたいてい読み終えたある時に、静かに後ろ手で書斎の扉を閉じられるような、そんな気分が残るのだ。

今福龍太さんの『身体としての書物』も、もくじに並ぶアルドゥス、ボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサンなどの文字や、表紙カバーの袖に刷られた《世界のなかに私が住むこと。そして世界のなかに書物が存在すること。この二つの事実の偶然の関わりをめぐる、限りある消息をさまざまに探求することが、本書のテクストとして再現された講義の目的であった。》にたちまちひかれてページをめくる。

だが読み終えて聞こえてきたのは扉を閉じる音ではなくて、扉が外にも内にも開いてはためくパタパタいう音だった。あとがきによると、2005年からおよそ4年間東京外語大学で行ってきた同じタイトルのゼミをまとめたもので、熱心な参加者であった浅野卓夫さんによる「聞き書き」が元にあるらしい。なるほど扉がはためいていたのは、それまで幾度も丁寧に交わされた言葉が内に外に扉を押し開いてきたからで、本となった頃にはその蝶番が、すっかり緩んだということだろう。『身体としての書物』という「書物」の身体の生成に、この鍛錬は絶対不可欠であったことがよくよく感じられる。

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同ゼミでは「書物」に関わる広範な資料をひもときながら、参加者がチャップブックをモデルとするようななんらかの「本」を作ることをめざしたようだ。この本のなかにもひとつだけ、エドモンド・ジャベスの『問いの書』の一部を本文とした折り本作りのようすが記されている。

読みながら、私も参加者のひとりとなる。大きな紙を折ってページが生まれる、表と裏や、表紙と中身を感じる。切って貼って、文字をページに配する。美しく、整える。めくること、読むこと、持ち歩くこと、手渡すこと、このあとの「本」の行方を考える——。

実際に本のかたちを作ってみれば、アルドゥス・マヌティウスが出版工房のマークに錨とイルカを記したように、やはり私たちも手間ひまかけた「美」と複製頒布という機敏なる「有用性」という相反するような理想を一つに重ねたくなる。そして、マラルメが「書物、精神の楽器」に残した「印刷された紙を折り畳むということは、ほととんど宗教的といえる行為である。だがそれ以上に素晴らしいのは、紙の積み重ねが厚みをもつことで、まさに魂の小さな墓標をかたちづくることである……」が、身近なものに思えてくる。

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優れた講義録は読者を聴講生にしてくれる。歩き、しゃべり、耳を傾けてくるからだろう。内に外にはためく扉を押して、「身体としての書物」という講義を私は何度でも聴く。



編集:浅野卓夫(Saudade Books)
装幀:間村俊一


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