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2009年03月22日

『過激な隠遁』川崎浹(求龍堂)

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「年長の「友」とまとめた「画家」の評伝」

生まれたときはみな周囲の誰よりも若く、そして次の瞬間からほかの誰かの年長者となる。中学生のころは一学年上でもたいへんな「先輩」だったが、年を重ねるほどに「先輩」との年齢差は開いてゆき、年下の「先輩」もあらわれるようになったり、あるいは歴史上の先人が、生身の人間の「先輩」として身近に思えてくる。

40歳年の離れた画家と学生があるとき出会う。画家の名は高島野十郎(1890-1975)、幾枚もの蝋燭や雨の法隆寺塔、睡蓮、月、自画像などを残した。学生は川崎浹さんで、のちにロシア文学の翻訳や執筆も手がける研究者となる。画家が没するまでの21年間「基本的には対等に」つきあってきたという川崎さんが、高島の作品や残された記録と散在する記憶を緻密に織り上げたのがこの本である。ご自身の日記の端々に残していた画家とのやりとりが、高島没後関係者より送られた自筆のノートと、元福岡県立美術館学芸員・西本匡伸さんが展覧会(1986)のために整理した年表に裏打ちされて、画家が生きた時代ごと誌面に浮かび上がってくる。川崎さんは若かりしころの率直な高島評に苦笑しつつ、そのころに呈した疑問や反感への応えを時の流れに探し出し、日記の中の「高島さん」を「画家野十郎」に重ね合わせて示している。

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高島は東京帝国大学農学部水産学科を主席で卒業したのちに、「世の画壇と全く無縁になる事が小生の研究と精進です」と独学で画業に進む。一人暮らしを続けたが最後は施設の世話になり、「だれもいないところで野たれ死にをしたかった」との言葉を残して85歳の命を閉じている。一途な精進を保証する暮らしに贅沢は無用だったが、踏み込むものには激しく抵抗した。オリンピックのために東京・青山のアトリエの立ち退きを迫られたときには「家を壊す気ならおれを殺してからやれ!」と毒づき、後に自らアトリエを建てて自給自足の暮らしをしていた千葉では団地造成のために再び立ち退きを迫られ、その体験を手記「小説 なりゆくなれのはて」に残した。死を目前に差し伸べられた手に抵抗を示したのは、この二度の、住まう場所を奪うというかたちでやってきた「時代」への抵抗と同じだったのかもしれない。
こうした激しさと画家としての厳しさを、親子ほど年の離れた友人である川崎さんには遠慮もまた気負いもなく示していたようだ。若き友人の日記には従って画家以前の一人の男としての生き様に対する意見もまた率直に綴られ、没後34年、年々年齢が近づく年長の友へのご自身の心の寄り添いも、川崎さんは丹念に追っている。「野たれ死にをしたかった」とは「野十郎最後のダンディズム」とほかで書いたが、それは《ダンディという人への見せ場をつくることにより、高島さんはだれにも構われず自然に死にたかったのだ、ということが私にもやっと分ってきた》。

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この本には「小説 なりゆくなれのはて」と、画家がいつも枕元に置いていたノートの内容が付されている。詳しい注釈は画集『高島野十郎画集』(求龍堂)にゆずりここではごくわずかのコメントが記されているが、十文字美信さんのカメラは高野の筆跡や筆圧のみならず、ノートの表紙や高野が川崎さんにあてた葉書や送った本の朽ちたページもとらえている。晴山季和さんの装幀により本扉には高島自筆の「高島野十郎」の美しい文字。川崎さんが、年長の友「高島さん」とおふたりでまとめた「画家野十郎」の評伝と思う。

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