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2008年06月21日

『東京下町 風が見える街』長尾宏(東京堂出版)

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路地爺、長尾宏の微笑み

東京の下町の風景、124枚——土手にのぼって土筆を摘む青い軍手のおじさんと車椅子にすわって待つおばさん/日向ぼっこする赤ちゃんの笑顔に思わず手を合わせて微笑む通りすがりのおじいちゃん/ランドセルをあけて時間割りを見せる一年生/スポンジを乾かす自転車に止まる鳩にえさをあげるお姉さん/投球指導に熱中する父/ベンチで散髪/洗濯機カバーと布団カバーとつつじ/けんかしてブランコにのって仲直り/すいか半分おすそわけ/じいちゃんな、笛うまいんだぞ/自転車なんか治してあげる/雑草の花束/がんもは50円/皇室カレンダー/今年の梅干し/と〜ふ〜/猫と猫、猫に犬、猫が少女、赤ちゃんが猫、犬がおっちゃん、おかあさんが赤ちゃん、おねえちゃんがシャボン玉を。お父さんが娘と、少女が、花に/職人の手仕事、家族の手仕事/赤鬼、恋……。

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「昔日に見た、忘れられない情景を見つけてください」と帯にある。表紙には「Heartwarming Scenes of Old Downtown Tokyo」ともあるから、ページをめくらないと昭和なつかし写真集かなーと思ってしまう。
開いてみると、作り込んだ感じのない、のびやかな写真が並んでいる。さまざまな年代の人たちが行き交う路地裏の好ましい風景には、犬でもなく猫でもなく、アメリカのひとでもなくフランスのひとでもない日本のひとならば、同じような記憶を持たなくても「なつかしい」と言ってしまうだろう。だが舞台は昭和ではない。1993年から2008年3月、写真家・長尾宏さんが、東京の大井町、大森、亀戸、京島、品川、千住、月島、日暮里、羽田、向島、谷中を歩いて撮ったものである。平成だ。今、今の東京だ。

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何度でもめくってしまう。めくってめくって、毎回別のところで笑ってしまう。私たちは可笑しいと笑う。愛しいと微笑む。笑った顔を見ると、また楽しい。サツバツとした世の中だ、せめて可笑しがらなきゃ、愛しがらなきゃ。だからせっせとお笑いだ、ドラマだ!なんてことが、あるものか。
カメラ片手に路地をうろつく「路地爺」が、あふれんばかりの可笑しさと愛しさを、ほら、ご覧、君の周りにもきっとあるよと、縁側に坐って差し出してくれているような本である。いや僕の周りにはきっとない、そう答える子がいるならば、路地爺はコスモスの、アサガオの花だけのページから、あるいは夕暮れの通りのページから、順にめくっていくかもしれない。(あるかないか、ではなくて、感じるものだ。)言葉ではなく、ページをめくる音と匂いで、路地爺は伝えようとするだろう。そんなシーンが、頭に浮かぶ。なつかしさに浸る写真集ではないと、そう思う。

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路地爺と、まこと勝手ながら呼ばせていただいた長尾宏さんは、長く出版社に編集者として勤めながら写真への関心を持ち続け、現在は写真家として活動されている方のようだ。この本の後ろには、撮影の背景もいくつか短く語られている。お顔写真拝見するに、まったく「爺」ではありません。ご無礼を、お許し下さい。装丁は、中島かほるさん。



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2008年06月18日

『東京サイハテ観光』中野純:文 中里和人:写真 (交通新聞社)

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土地の命の力に押されて最果てに行ってしまった気持ちになる観光

どんな場所でも、そしてどこでもきっと同じ長さの、その土地自体の命がある。それに比べて私たち人ひとりぶんの一生はあまりに短く、しかも同じ場所にそう長くは居ないから、偏在する「土地の命」になかなか興味を向けることができない。観光地、出生地、勤務地などと呼んでみるのは、関心を土地に向かわせるために私たちが得た、手段ではないかと思われる。

「サイハテ」と呼んでくくった場所に足を運んで、その土地の命にじぃと瞳を向ける人たちがいる。「サイハテ部員」だ。その活動は「散歩の達人」などでも報告(「旧道部」として)されてきたが、一冊の本としてまとまったのがこの『東京サイハテ観光』である。執筆したサイハテ部員・中野純さんによると、どうということもない身近な景色に、突然ちょっとありえない光景を目にしたとき、そのありえなさがどんどんふくらんで、その土地のゾクゾクするような魅力に五感のすべてを震わせる——そんな場所を「サイハテ」と呼び、それを見つける「選景眼」を磨きに行く(なるべく裸足で)のが「サイハテ部」の部活だと言う。
東京を中心に、いわき、千葉、奥秩父、熱海あたりまでの21箇所が、そこに行き着く道、ロードを記したマップとともに紹介されている。物理的な最果てではないが、複数の部員が「サイハテ!」と納得した厳選された場所たちだ。たとえばこんな具合——ものすごくサギがたくさん集まる場所があるとの通報、でかけてみるとまったりとした川辺に茂るぼうぼうの木々がなるほどサギだらけ。10キロ上流に江戸のころからサギのコロニーがあったようだ。ならばその末裔なのか! 訪ねた道を吉川サギロードと名付ける。「川の周辺の景色がいいかげんだ。このゆるさがサギを呼んでいる」。中里和人部長の鋭い指摘に中野部員は背筋を正す。 そのゆるさにサギが集まり、サイハテ部員が集まって、そして東京サイハテの地、となる。

     ※

それで結局サイハテ、とは? この本の中には私がこれまでたまたま行ったことのある場所もいくつかあるから、その魅力はよくわかる(サイハテ准部員を自称してもいいかしら)、でもそのサイハテ感は、わからない。山と海とどっちが好きかと問われたときに川と答えるのがサイハテ部、とも書いてある。なるほど。それもクリアできるかも。しかしサイハテ感が、わからない。サイハテの精神について、中野さんは言う。
サイハテの地、辺境の地には、旧い文化が静かに生き残る。辺境とは、旧景と出会える場所だ。その一方で、辺境は新しい風景と出会う場所でもある。辺境を英語で言うとfrontier。……だから、サイハテの精神とは、開拓者精神(フロンティアスピリット)にほかならない。

旧い道を新しく愛で、出たとこ勝負の旅を重ねることで選景眼を磨き、日本の名景の再編をもくろむ「旧道部」としての活動が基になっているから、正規サイハテ部のサイハテ精神はこのようになるのだろうが、私にはちょっとピンとこない。ぶらり通りすがった土地でふと足が停まり見回した時に感じるその土地の命の力に、自分がエアポケットに入り込んでしまったような不安な気持ちに陥ることがある。ソワソワと、トイレに行きたいような帰りたくなるような。そういうサイハテ感ではないかと私は思う。細野晴臣さんが『観光』で言っていた。自分と地球を結ぶ糸のようなものの手応えを感じたら、「観光」という肉体と精神の移動によって平行表現して行くがいい、動き、停まり、感じ、そして表現して行くがいいと。サイハテ観光は、まさにそれだ。



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2008年06月01日

『セルフビルド-自分で家を建てるということ』石山修武=文、中里和人=写真( 交通新聞社)

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家が似合う人たち


大人になったら誰もが家を作るのだと思っていた。一軒家が並ぶ田舎だったし、左官業をやっていた祖父のところにお弟子さんや職人さんが多数出入りしていたことも影響していただろう。色とりどりの壁土やタイルや道具に囲まれて仕事するようすはとにかく楽しそうだったし、時々連れて行ってもらった「建前」の席は厳かで華やかで、憧れの大人の世界だった。家を持ってもいい年頃の「大人」になったが、現実にはその時がやってこない。いろいろな場所で暮らしてみたいし賃貸物件を探すのも楽しいし、必要に迫られる時がきたら考えようとあてのないその「時」を待つふりをしている間に、「家」が遠くなっていた。
金額で、考えてしまう。欲しい「家」はものすごく高く、手が届きそうなヤツは欲しくない。必ずそうだ、そうなのだ。あたりまえ、世の中トハそうなのだ。とか言ってるうちにほんとに世の中は狭くなって小さくなってつまらなくなり、「家」が別物になってゆく。いつの間に、こんなふうに値段のついたものばかりを見比べてモノを言うようになったのだろう。クレヨンで描いたときもブロックで作ったときも、タイルの見本を並べたときも定規で間取り図を引いたときも、いつだって「家」はゼロから作るもので、それは虫や鳥の観察で知った家作りと同じだった。

     ※

中里和人さんの写真で紹介されているのは、川合健二のコルゲートハウスや磯崎新の隠れ家、石山さんの自邸・世田谷村、貝がら公園にマザー・テレサの「死を待つ人の家」、栃木県烏山町の山あげ祭や水上生活する船……。そして、日本のエレガントなセルフビルドの小屋の元祖、鴨長明の方丈の小屋や松浦武四郎の泰山荘、ルノワールの絵のようだとC君が言ったIオバサンの菜園小屋から、これって家?まで。
趣味性の高いものよりも、なんだかいろいろやってるうちにこうなっちゃったのよねーが好ましい。千葉の「サーファーの家」なんか、最高。サーファーのおっさんが作る船の形(など)の家で、奥さんがやっている美容室「サンタクロース」の隣で十二、三年作り続けているそうだ。こんな家にはそんな家族がいるもので、妻も子も「マ、いいんじゃないの」。凄くもないし変でもない、ただのウチのお父さんが好きでやっている事。船の形をした部分はもう古くなってきたので、今度はピラミッド型にしようと考えている、そうだ。

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この本は、家を作った奇人変人のカタログではない。石山さんは言う。
セルフビルド(自己表現としての生活術)は、それぞれの人間の生に、つまり生活にこそ総合(全体)を見てゆこうとする技術の在り方です。……消費のサイクルから自律を具体的に求めようとする事でもあります。

それぞれがそれぞれの歴史と場所で、それぞれの再生の方法をセルフビルドとして示している。「大量消費教」に呑み込まれている私たちが、その姿に少量多品種型生活の一つの像を見て、自分を全うする意志や情熱を呼び覚ましたまえ、この本はそのためのガイドブックなのだ、と言う。
よれよれでも派手でもなんでも、着ている洋服がものすごく似合う人がいる。かっこいいでも欲しくなるでもなく、また真似てみたところで同じようになるはずもないが、あまりによく似合うので、妬ましくなる。『セルフビルド』の人たちも、それぞれの家がものすごくよく似合う。誰でもない誰かが、洋服や家の具体をもってこうして立ち上がるのを知ったとき、自分の中にある誰でもない誰かの予感に胸が湧くのか。石山さんが繰り返し口にした「自己表現」とは、そんなようなものではないかと私は受け取る。
ブックデザインはコズフィッシュ、祖父江慎さんと安藤智良さん。A4判を横に使うことで写真が伸びやかに配置されたが、机の上で広げるしかなくてやっぱり読みにくい。いわゆる”まえがき”にある石山さんを何度でも読みたいので、ここだけでも開きをかんがみてばーんと縦に組んでもらったらもっとよかったです。なにしろこのいわゆる”まえがき”が、いい。

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