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2008年03月16日

『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』岡田芳郎 (講談社)

世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか →bookwebで購入

「忘れ去ったのではない。忘れたふりをせざるを得なかったのだ。」

小学生のころだったと思う。山形県酒田市の中心街が燃え広がる様子を伝えた夜のニュースは、今でもよく憶えている。強い西風にあおられて、一晩で新井田川までの22.5ヘクタールを焼き尽くした。原因は映画館の漏電だったようだが、隣りの大沼デパート(地元老舗百貨店)がそのロゴもあらわに炎に包まれている映像が目に焼き付いていて、あいまいな記憶の中でこの百貨店が火元と思い込んでいた向きもある。
火元は「グリーン・ハウス」といい、淀川長治や荻昌弘に「世界一」と評されるほどの映画館であった。その土台を作った佐藤久一さんが、この本の主人公である。酒田大火のニュースで聞いたあの映画館がどんなものだったのか、またその支配人がどのようなひとであったのか、これまで聞いたことがなかった。

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久一は1930年、山形県酒田市の金久(かなきゅう)酒造に生まれる。清酒「初孫」の醸造元だ。父・久吉は絵に描いたような地元の名士で、市議会議長や商工会議所会頭を歴任したほか、テニスの振興につくしたり、芸能好きが高じてダンスホールや映画館を経営した。そうした環境と久一自身の興味が相まって、1950年、20歳で大学を中退して、父が経営する映画館「グリーン・ハウス」の支配人となる。
無料冊子を制作したり、館内は清潔第一を信条に掃除を欠かさず、従業員への心配りも十全で、なにより作品の選定にあたっては試写会に必ず足を運び、淀川長治や荻昌弘ともそんなかで出会ったようだ。1960年には東京と同時に『太陽がいっぱい』が公開され、1963年「週刊朝日」で、「港町の"世界一デラックス"映画館」と紹介されるようになる。館内に設けた喫茶店には地元の文化人が集まるようになり、佐藤十弥、太田清蔵、吉野弘らによる詩誌『緑館』はここに生まれたようだ。

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経営は順調だったが、1964年、久一は支配人の職を辞して東京に出る。ひょんなことから食の世界に入り、3年後には父が始めるレストランの支配人として酒田に戻る。自ら包丁を握ることはなかったが仕入れからメニュー作り、サービスに心を尽くし、1973年には新たにフランス料理店「ル・ポトフー」をオープンさせる。レストランを「食の劇場」として、素材やサービスへこだわりを尽くすようすは、客の満足をなんとしてでも引き出そうとする執着にもみえるが、開高健や土門拳、丸谷才一、山口瞳らが通っては、エッセイなどにもその名を記した。マダム役としてサービスを担った鈴木新菜(にいな)さんは文芸誌『骨の木』の同人であった詩人・鈴木泰助を父にもち、佐藤三郎、佐藤十弥などが若くして亡くなった仲間の愛娘を訪ねて足を運びもしたようだ。
久一は「知らず知らずのうちに人に夢を見させる、不思議な才能」を持ち、言い過ぎかもしれないが、と前置きしたうえで、著者の岡田芳郎さんは「詐欺師的なセンスがあった」と書く。いつも予約客でいっぱいで、従業員や経営陣もいっしょになって毎夜「食の劇場」の幕をあげ続けたが、80年代後半にはいよいよたちゆかなくなり、久一は酒に溺れ、1997年、67歳で亡くなる。

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改めて、書名にあたる。「世界一の映画館と日本一のフランス料理を山形県酒田市につくった男はなぜ忘れ去られたのか」。一族の家業の盛衰や自身の女性問題もあったが、名家に生まれ、名誉や財産に関心はなく、映画とレストランという二つの劇場の中で自らに課した役柄に没頭し、これほどに一時代の文化を担ったひとを、地元の誰もが忘れたことはなかっただろう。市の功労者として名があげられたこともあったが、酒田大火の火元の関係者であることで退けられ、また市民も、大火前の誇りと華やぎを、そこで封印せざるを得なかったのだと思う。
30年を経て、酒田市は映画による町おこしを始めた。グリーン・ハウスを、久一を、忘れ去っていたわけではない、忘れたふりをしなければ過ごせない時間があったのだと、町がようやく語りはじめたように感じる。時を同じくして、酒田や久一とは直接ゆかりのない岡田芳郎さんが、丹念に取材を重ねて外からの目としてまとめられたこの本で、久一の生涯に、この30年をはさんだ酒田の過去未来の時の流れを重ねて見ることができるように思う。

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2008年03月09日

『詩集「三人」』金子光晴、森三千代、森乾(講談社)

詩集「三人」 →bookwebで購入

名もなき家族が残したもの

2007年、東京の古書店で金子光晴の未発表の詩集が見つかった。 光晴と、妻である作家・森三千代(愛称・チャコ)、そして息子、森乾(けん。愛称・ボコ。のちに仏文学者)の三人の詩が、B6判200ページ余(厚さにしておよそ2cm)のノートに38篇手書きされたもので、手にしたのは『評伝 金子光晴』などの著書もある金子光晴研究家の原満三寿(まさじ)さん。外箱もあって、写真で見るとその背には「詩集 三人 金子光晴」の文字、表には、中国の切り絵のように見える赤く小さなイラストが三つ描かれている。光晴の研究者にして初見だったとのこと、そしてよりによって研究者の手に、空から羽毛が舞い落ちるようにそっとそのままの姿で降りてきたようだ。

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乾さんの妻・登子(たかこ)さんが筆跡をあたって、外箱、そして黒インキで書かれた本文の全てが光晴のものと確認された。32篇が光晴の作品、うち7篇が『蛾』に、1篇が『女たちへのエレジー』に、3篇が『金子光晴詩集』(角川文庫)に、それぞれ大小の改作がなされて収録されている。その他の光晴の作品及び三千代さんと乾さんの作品は、未発表のものらしい。
1944年、喘息持ちの一人息子・乾(25年生)に召集令状が届くと光晴は、密閉した部屋に乾を寝かせて松葉をいぶしたり水風呂につけたりして喘息の発作を誘発し、召集から逃れさせた。そして、いくたびかの旅・放浪を、ひとり、ときに妻と繰り返してきた光晴はついに家族で山中湖畔に疎開して、炬燵を囲み日がな過ごす濃厚な「家族」の時間を得る。ノートに書きとめたのはその暮らしのなかでのこと、ノートの汚れは寒さで凍ったインクを溶かすのに光晴が苛立った痕跡ではないかと、原満三寿さんは言う。このノートをもとに、原さんが解説を付し、光晴の絵を随所に配して、坂川事務所が装幀している。

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『現代詩読本3 金子光晴』(思潮社 1978)の年表によると、疎開していたのは1944年12月〜1946年3月。疎開といって逃れたのは、戦況であり世間である。疎まれてきた世間が戦況となって、逃れるべきものとなる。これまではじき飛ばされるようにして散り散りになっていた一つの家族が、台風の目に突然入り込んだようにして炬燵を囲む。凪ぎの時に溺れているのか。あるいは、洗面器がうけとめる水やカレーや尿が醸す音をして「人の生のつづくかぎり/耳よ。おぬしは聴くべし。//洗面器のなかの/音のさびしさを。」(「洗面器」)と書いたように、この奇跡の時に必死で耳を傾け書き留めていたようにも見える。

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そのいきの臭えことと始まる「おっとせい」、奴らに食をえらぶ神経なんてあってたまるかと書いた「鮫」、恋人に、とうとう僕はあなたのうんこになったと告げた「もう一篇の詩」。光晴と聞いてわずかに私の頭に浮かぶどんなフレーズも、『三人』の著者に重ならない。だがこの詩集を静かに読むのに、著者やこの家族の年表を知るのは必要のないことだ。光晴の名にこの詩集を手にしたのではあるけれど、読んでしまえばそれは光晴でなくてもありうるように思える。極めて個人的なできごとに気恥ずかしさをまとい出力されたある家族の詩集だが、これから読み継がれたあかつきに、いつか無名性を宿すようにも思う。あまりにも有名な、そしてあるいは名もなき家族が、戦中に残した愛おしい詩集である。
もしも小学校の先生になり、かわいい僕ちゃん嬢ちゃんに「家族のことを考える」授業をするならば、黒板に大きくひとつ、この詩を描きたい。

父はそつと立つてのぞきにゆく
チヤコのへやに。
この淋しさを頒ってもらひに。

机の前にしょんぼり坐る
チヤコのうしろ姿は
もつともつと淋しさうだ。
父は二人分の淋しさを抱いて
言葉をかけずひきかへす。
あゝ、そのときのことをおもひやる。
その淋しさはどんなかとおもふ。

(金子光晴「レコードの唄」の一部)


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家族詩集であること、そして「三人」というタイトルに、詩人・奥成達が子供の頃、兄弟四人で作っていたガリ版刷りの冊子「よにん」を思い出します。創刊にあたって長兄が記していた文章が好きなので、ここに一部引用します。「はずかしさに、みんな顔を少しずつ赤くしながら、思い思いのうたや詩や散文を綴っていました。……いたって幼い、そして時には生意気な、文や詩が、ことばが出て来ますけれど、読者はそれを笑いながら、そしてぼくら四人の兄弟の姿を思いやりつつ読んでくださると、ぼくらは、とてもうれしいし、それはまた、ねがいでもあるのです」(1954年。参照:奥成達資料室)。

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