« 2007年07月 | メイン | 2007年09月 »

2007年08月16日

『図説 着物柄にみる戦争』乾淑子(インパクト出版会)

図説 着物柄にみる戦争 →bookwebで購入

戦争柄の着物をつくり、着物柄に戦争をみる

骨董市に出かけて手ぶらで帰ってはつまらないから、収穫のないときには山積みされた葉書や端布まで戻っていって、ひっくり返してながめてみる。「赤い鳥」から飛び出たような男の子がまるまるとした飛行機や日の丸といっしょに染められた生地をみていたのも、そんな中でのことだろう。この本の著者・乾淑子さんは継ぎ接ぎの研究をとおして戦争柄の着物に出会い、以来骨董市やネットオークションで、高射砲、装甲車、列車砲、重爆撃機、戦闘機、戦艦、駆逐艦、航空母艦、銃や軍刀、サイドカー、ラッパ、馬、犬、鳩にうさぎ、地図、日の丸、旭日旗に満州国旗、周囲を虫に食われたロシア国旗、東郷元帥、神功皇后、爆弾三勇士に桃太郎……などを描いた着物や布地を収集し、うち165点を、戦争柄として整理して解説を付した。この本は、昨年から各地で開かれている同タイトルの展示の図録でもある。

     ※

着物産業の最盛期は明治22、3年から昭和15年のおよそ50年間で、日清戦争が始まった明治27年から贅沢禁止令が出された昭和15年に重なる。文献などから、着物の戦争柄のはじまりは明治20年代後半の大阪で、男性の羽裏に錦絵風に描かれたものらしい。まずは大人用の襦袢や羽裏に粋な柄として登場し、大正期になってモスリンや木綿に子ども向けの柄が描かれるようになり、そのいっぽうで戦争柄の布団絣などは、吉祥柄のひとつとして嫁入り布団に仕立てられていたようだ。これらの戦争柄はプロパガンダであったのかどうなのか、著者は、否定はできないが、いわゆる「戦争画」の流れで着物の柄にまで言及した記述は確認できないので、「自由な経済原理に基づいて」生産消費されたものではないかと記す。

     ※

明治も30年代になると、いわゆるファッション業界が戦争柄の着物を派手にセールスしたようだ。たとえば三井呉服店の広報誌「時好」には、戦争柄で、江戸褄、縮緬襦袢地、帯、半襟、木綿浴衣地、手拭い、ハンカチ、ナプキン、財布、ネクタイ、ヘアピン、帯留などおよそ100点が並んだという。むろんそれが「戦争柄」と呼ばれていたはずはなかろうが、デリケートなテーマと最先端の図柄はファッションのアイコンとしては最適であったにちがいない。別冊太陽「骨董をたのしむ34 昔きものを楽しむ その2」には小塚和子さんのコレクションから面白着物ワールドとして数点掲載されていて、その中に子ども用の戦争柄の着物が2点あった。幽霊や蜘蛛、蝙蝠を染めたものや奇抜と紙一重の構図のものと並んで、たしかに戦争柄も当時の新しいアイテムであったようだ。

     ※

東京一の呉服店が図版を載せてまで売り出した戦争柄を、実際に購入して楽しんだ層はおのずと見えてくる。その華やぎに憧れた子どもたちがいたかもしれないし、愛しい子どもたちに大人たちは同じニューモードを誂えたいと考えたかもしれない。いっぽう多くの日本人が、大正・昭和にいたりさまざまな技術で廉価に反物が生産されるようになると同時にニューモードとしての戦争柄が翳りをみせてゆくなかで、どれだけ身につけていたかはみえてこない。著者はかつての少年たちに、戦争柄の着物を着ていたころの記憶を話して欲しいと呼びかけるが、反物メーカーや意匠を担当したつくり手側の記憶を伝え知るためのきっかけとなることも、刊行の大きな役割と感じる。

     ※

今に時代をうつしてみれば、迷彩柄も戦争柄だ。その柄の洋服や小物は性差のにおいが少ないデザインに思え私も愛用したことがあったし、母にとがめられたこともオトナにはわからないテーゼと好ましかった。屈託のなさはファッションの魅力のひとつで、なるほど今にいたってもみごと地続きのことである。衣装はひとの身体を媒体として「ひとの世」の要素となる。誰もの身体が空気醸成の小道具になる。戦争柄の着物をつくるも着物柄に戦争をみるも、なんてひとつながりの私たちであることだろう。



→bookwebで購入

2007年08月06日

『冷たいおいしさの誕生 日本冷蔵庫100年』村瀬敬子(論創社)

冷たいおいしさの誕生 日本冷蔵庫100年 →bookwebで購入

新鮮でないものをわざわざ食べたくないもんねーという感覚を喪失した100年

数年前の暑い夏、冷蔵庫が壊れた。それまで代々友人からの譲り受けをつないで使っていたので、新品を買うのは初めてのこと。ごく普通のものは思ったより値段は安く、いっぽう光パワー野菜室やら保湿冷凍室やら満載の新商品はえらく高い。本体価格と年間消費電力量はほぼ反比例しているから寿命を10年としてその総費用を比べてみよ、と聞いて計算したり、なんとか室は自分の暮らし方に必要なのか考えたりでずいぶん迷った。あれほどたくさんの冷蔵庫を見て回ったのは、もちろん初めてのことである。

     ※

家庭の中に冷蔵庫が入ってきたのは、いつごろなのだろう。『冷たいおいしさの誕生』によると、明治31年刊行の『家事教科書』の中に「肉や魚の低温貯蔵の方法」として「氷箱」の文字が記されており、このころが家庭内冷蔵庫のはじまりと考えられそうだ。「冷蔵庫」という名称が知られるようになったのは明治36年に開かれた第5回内国勧業博覧会で、アンモニアガス冷凍機を利用した食料の冷蔵施設だったそうである。その4年前に中原孝太という実業家が、「Cold Storage」を「冷蔵」と訳したのがその名称のはじまりで、家庭用の「氷箱」と区別して使われていたようだ。

     ※

『冷たいおいしさの誕生』の魅力のひとつは、こうした事業家の丹念な紹介だ。中原孝太はその後、冷蔵技術を凍豆腐の製造に活かして成功したとか、天然氷の採取業を創業した中川嘉兵衛が函館から横浜に運んだ氷は、明治7年にボストンからの輸入氷をしのいで「我が国の一産物」になったとか、戦後の家電メーカーの技術者の逸話にいたるまで、後述する日本人の「冷蔵」への不審と戦いながら、「日本冷蔵庫100年」をつないできた人たちの思いと行動が綴られている。

     ※

『枕草子』にあてなるものとして「削り氷」が書かれたように、冷たいおいしさはずいぶんなじみのものである。牛肉の保存を視野に入れて中川嘉兵衛が始めた製氷業だったが、実際は飲食用に供されたというのもうなずける。第5回内国勧業博覧会で展示された冷蔵庫は、アンモニアガスで冷やすのは衛生上いかがなものかと不評をかい、氷箱も、氷で冷やすとまずくなると風評がたつなど、日本では「冷蔵」への理解がなかなか浸透しなかったという。季節に育つ野菜や魚を食べ、冬のために保存食を作り、肉や乳製品をとる習慣がなかったのだから、貯蔵のための冷蔵なんて日常からはほど遠いものであったのだろう。

     ※

家庭で主婦が家事を担うようになると、よりよき「家庭料理」のための新しい台所道具として、婦人雑誌が冷蔵庫をとりあげるようになる。やがて冷やしの原動力は氷から電気へ。まことしやかに宣伝されたが、夏場にビールやトマトを冷やすのには便利だろうけれど魚でも野菜でもとにかく新しいものが食べたいだけだ、というのが多くの考え方だったようで、昭和33年の電気冷蔵庫の普及率は3%である。なにもかも激変するのはその直後のこと。冷たいおいしさが誕生したこの100年は、新鮮でないものをわざわざ食べたくないもんねーという感覚の喪失の100年でもある。

→bookwebで購入