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2007年07月23日

『本へ!』羽原肅郎(朗文堂)

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「愛、愛、愛の本!」

活版印刷機「Adana-21J」の販売とその使い方や楽しみを伝えるアダナ・プレス倶楽部を今年新たに立ち上げた朗文堂から、「造形者と朗文堂がタイポグラフィに真摯に取り組み、相互協力による」“Robundo Integrate Book Series”の第一弾として、羽原肅郎さん自装によるこの詩文集が刊行された。黒のスリップケースに巻いた白い帯には、タイトル、著者名、版元名と
本へ!

本は,

万能の「愛」だ.

本よ,

有り難う!



の文字。さらに緑の「→」、赤の「→」、紫で「この本を『本』の様な貴君に捧げます」と「For you who are just like "a book" itself.」の文字、1冊あたりつごう4度もゴム印が押されている。本のようなキミではない私がこの本を手にするのは勇気のいること、それに羽原肅郎×朗文堂×タイポグラフィの三乗は強烈で近寄りがたくもある。

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黒のケースからなかみを取り出すと三つ折りの白いカバー、それを開くと本文が、蛇腹に折りたたまれてある。表と裏に日本語と英語で詩文が刷られ、カバーの裏面にはこの蛇腹を窓辺に広げたモノクロ写真がすずやかにある。さらに付された一葉には、きれいとは言いがたいがなんともうつくしい「Book be with you and God be with you!」の書き文字に添えて、赤と緑でこれまた4度ゴム印が押してある。溢れんばかりの歓迎を受けて、両手と五感を操られたがごとく全身で絶句してしまう。

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いよいよ蛇腹に目を凝らせば、本への至上の愛を語るコトバと線。春夏秋冬に囲まれてまんなかには、用紙とは印刷とは製本とはと教科書のような文面が並び、「この様な, 造本の解読も, また楽しい!」と締められる。この本に使われた紙の種類、書体、フォーマットなど構造の全ても記されていて、いったいこれほどのあらゆる愛を本に呼びかけたひとがいただろうか。開いたときの手順を逆にして今一度帯に戻れば、「この本を『本』の様な貴君に捧げます」のコトバがすっと胸にやってくる。まさにそれは「神の使者」として「飛来」して、本の様な貴君すなわち全てのひとへ捧げられた、愛、愛、愛の本である。臆面もなく愛を連呼して、本の様な貴君の耳に届けたい。

     ※


ところでカバーの写真の窓辺を、どこかで見た憶えがある。著者自邸だと思うけれどむろんうかがったことはない。無造作にある2つの植木鉢とカーテンの奥に透けて見える2つのハンガー。このカーテンと奥行き——そうだ! 10人のひとがそれぞれ大切なひとへ贈り物をするために考えた折形を、折形デザイン研究所がまとめた『折る、贈る。』の巻頭に、マルセル・デュシャンへ贈るケトルを包む羽原肅郎さんがいた。ピーター・シュラムボームの「科学者の台所」シリーズのケトルが置かれたすずやかな場所こそ、その窓辺であった。


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2007年07月09日

『まいにち植物』藤田雅矢(WAVE出版)

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「いのちをつなぐ当番日記」

タネからまいたアサガオが、枯れてしまった。双葉が元気に開いたあとに生長が止まって、蔓を伸ばすことなく。いよいよだめだとあきらめた朝はつらかったが、久しぶりに鉢を選んで買うのも楽しかった。タネからまいて育てるようになったのは、藤田雅矢さんの『捨てるな、うまいタネ』(WAVE出版)を読んでからだ。キウイフルーツ、ミカンにカボチャ、イチゴにアボガド、さまざまな食べ物のタネを取り出して保存する方法やまき方も記されていて、しばらくは食後に生ゴミを捨てようとする手をいちいちとめて、タネを選り分けながめたものだ。植物育種家、藤田さんの毎日はまさに植物づくしで、そのようすは自身のブログ「ふじたまの日々」に、色あでやかな写真とともに公開されている。『まいにち植物』は、ここ一年のその記録を中心にまとめられている。

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今わたしの気分はアサガオなので、まずは「盛夏」の「アサガオ初花」のページを開いてみる。藤田さんの庭では、二ヶ月前にまいた300粒のタネのなかから「紫の桔梗咲きと花びらが切れる立田咲きをかけあわせた株」がまず咲いて立田咲桔梗になった、とある。写真でみると、「立田咲き」とは花びらがなにかに切りさかれてしまったように見えるし、朝顔展で撮った蔓を伸ばさずに咲かせる「切り込み作り」や、「変化朝顔研究会」展で撮ったサツマイモに継がれたアサガオなど、その奥深さに仰天してしまう。

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ほかにも、緑色のチョキから赤いバンザ〜イと成長する多肉植物のリトープス、ひと茎にいくつもの葉ボタンを咲かせる踊り葉ボタン、なぜかみな左巻きに捩じれる水戸偕楽園の梅、杖キャベツでつくったステッキ、海洋堂製の珍花フィギュア、「リカちゃんパンジー」、年に一度の味噌仕込みのこと、背中で笑うアカスジキンカメムシ、ヘカズラでもクソカズラでもないヘクソカズラ……など笑いもたっぷり。ムラサキシキブとピラカンサについてふれた「赤い実、青い実」の項には、こんな一節がある。

そもそも、このように木の実が色づくのは、鳥に食べてもらうために、見つけやすくするためだろう。そういえば、うちのブルーベリーも色づいてきて食べ頃になってきたかな、と思っていると鳥が食べてしまって、いつの間にか無くなっている。くやしいので、最近は網をかけて守っている。
鳥に食べられた実の中にあるタネは、糞といっしょにどこかに落ちて、そこからまた新しい木が芽生えていくのだ。

たくさんのタネのなかからいのちをわずかにつないでいくのは、ヒトでもトリでも、誰でもいい。ただこんなふうにいつも誰かが、誰かのいのちをつなぐ当番として知らず知らずその役割を担っていると考えることは、そう悪くない。SF作家でもある藤田さんの絵本『つきとうばん』(作:藤田雅矢、絵:梅田俊作 教育画劇)は、年に一度どこかの家にまわってくる「つきとうばん」をつとめる父子の物語だ。月のいのちも、誰かがどこかでつないでいる。そして誰かがわたしを、わたしも誰かを。

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2007年07月03日

『東京夢譚』鬼海弘雄(草思社)

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「なつかしさという紐のこぶ」

曇りの日も、晴れの日も。こんな日は、いい写真が撮れるかもしれない。写真家は、「○○に行ってみるか」と家を出る。すれ違う人や犬や建物を観察しながら、頭の中は時と場所を超えてゆく。「Web草思」に連載していた「東京ポルカ」に大幅に筆を入れ、写真も、30年にわたり撮り続けてきた「東京シリーズ」からさらに選んで加えている。まんなかの濃いめの色のクラフト紙に刷られた21の文章を、前後に120点の写真が包み、本は角背上製本に仕立てられた。給水塔や橋、ビルなど、都下それぞれの場所のランドマークをとらえた写真は正面や見慣れた角度からとらえられることはなく、それらをめざして渦を描くようにして歩く写真家を、俯瞰で追ったコマ撮りの映像が浮かぶ。渦を描く歩行ーーよく晴れた冬の日の朝、誰よりも早く起きて足跡ひとつない真っ白な田んぼに「渦巻き」を描くのがうれしかった。よけいな足跡をつけないように外から内へ描くのがナラワシ。できるだけ大きな渦になるように最初のひと丸の目測をつけるのが大事で、あとは中心に向かって一気に走り込む。朝日に輝く一面の雪を、家族に気づかれないように起きて踏むことや、朝ご飯のあとに友達を呼んで、自慢の「渦」を提供して遊ぶのが楽しかった。写真家も外から内へと歩みを加速させながら、そこに「夢譚」をみたのかもしれないという夢想もいい。

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多摩川近くの旧街道を歩いていて出会った風変わりな古道具屋の話が出てくる。これでもかこれでもかと敷地いっぱいに商品を並べぶらさげた店頭とその隣の「しゃれたヘアデザイナーサロン」に目を奪われるも、キッチュはなるべく撮らないことにしているからとカメラを向けるのをあきらめている。ところがやおら店主が出てきて、写真を撮ってくれとせがまれたあげく、駄賃だと300円を握らされる。風変わりな古道具屋ーー数年前まで暮らしていたあの町の、あの交差点のあの店であることがすぐにわかった。まさにあの町のランドマークで、知らぬひとはいない。店主はよく通りに出ていたし、駅前のバス停のベンチでもときどきみかけたが、こちらもあれほど眺めていたわりに一度も話しかけたことはなかった。引っ越し前の最後の休日、近所を散歩しながら撮った写真にはこの店も写っているが店主はいない。なるほどおっちゃん、強烈なおっちゃん波動を受けるワクがこっちになかったもんね。でも今なつかしく思いまして、それで初めて話かけているところです。

     ※

たまたま知っている場所が写っているからとその写真に興じてしゃべっているひとの話を聞くのはつまらない。「なつかしい」というコンビニエントな台詞も個人史トークに応戦する言葉ではない。姉とふたりでなにか昔話に興じていたとき、姪が突然「○○ちゃんも早くなつかしくなりたい!」と言って割り込んできたことがあった。幼い彼女をほっといて、「うわーなつかしいー」とかなんとか言ってたのだろう。まだなつかしむほど生きてないもんねー大人になるほどなつかしいことばっかりでうんざりだよと笑ったけれど、増え続けるなつかしさに彼女が憧れたその気持ちはなんだったのだろうと思い返す頻度も高まる。なつかしさについて写真家・鬼海弘雄はこの本で、あとがきにこう書いている。

なつかしさとは固まってしまった時間への一方的回顧ではなく、本来しなやかなもので、今という時間の端から紐をゆらすと過去や未来までつながってゆれあう関係性だと妄想をいだいている。

たしかになつかしさは、まだ見ぬ先の気分をも言い当てる。

     ※

生家を離れて暮らした土地はどこも、その場所でなければならない理由はなにもなかった。執着する必要もないから、近所はすべて散歩道で、暮らした家はその休憩所のようなものだ。どんな土地もよく歩いて写真も撮るが、撮れば撮ったで撮りっぱなしで、それぞれの土地へのいとおしい気持ちは空回りしている。こんなことではいまにすべての土地に見放されてしまうだろう。だけど家を建てるとか暮らして税金をおさめるとか、あるいは知り合いを訪ねるとかいう物理的な接触でしかその気持ちを埋められないわけはない。写真家はあとがきでこう続ける。

誰でもが自分の体験を通して、いま立っているところからすこしだけ踵をあげ、たがいにもう少し生きやすくなる「世界」への、ゆるやかな眼差しをつむぎだすものだという錯覚をもっている。他人への思いのつながりの無いところには、きっとなつかしさが生まれるはずがなく、共感も生まれるはずがないのだから。

なつかしさは永遠につながる紐で、できたこぶにぶつかったひとが「なつかしい」と言う。

     ※

おりしも大辻清司の写真展があって、なじみの場所の写真にはなつかしさも覚えた。特定の場所を作品に記すことは実験の要素であったに違いなく、のちになつかしさで見られることも予想していただろう。『写真ノート』(大辻清司 美術出版社1989)でなつかしさを言い当てたこの一節は愉快である。

私の息子が十三、四歳ごろに「ぼくがむかし子供のころ……」と思い出を話して懐かしがったことがある。私はあっ気にとられ、次いで、笑い出しそうになるのをこらえるのに苦労した。


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