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2011年12月29日

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』マーク・ボイル著/吉田奈緒子訳(紀伊國屋書店)

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「オルタナティブな未来のために」

                 毛利嘉孝(東京藝術大学准教授)


 最近になって、東京を離れ地方に住む人がまわりに増えている。もちろん決定的な契機になったのは、今年三月の東日本大震災とそれに続く福島原発事故だが、それだけではない。むしろこれまで日本の社会を支えてきた市場経済原理に対して疑いを持ち始めた人が、じわじわとだが、増えてきているように感じられる。

 彼らの背景はさまざまである。就職活動をしていて企業社会に疑問を抱き始めた学生もいるし、これまでデザインや音楽、アートの仕事に従事してきて都会の生活に疑問を持ち、地方で余裕を持って暮らしたいと移住した人もいる。地域興しや町興し、さらには政治に関わりたいという人もいる。もちろん、原発事故後の放射能汚染に対する不安がそれを後押ししている。

 彼らの共通の関心は、農業や漁業など一次産業であり、DIY(Do It Yourself)の自給自足的な経済である。けれども、このことは昔の生活のあり方に戻ることを意味しているわけではない。「半農半X」という言葉があるが、生計については農業以外のところである程度確保しつつ、生活の一部として食の生産に携わりたいというのが現実的な選択のようだ。実際、ネットさえあれば支障のない仕事も増えてきている。

 とはいえ、その道は決して平坦ではない。農業をめぐる状況は厳しい。仕事も過酷である。さらに「半X」を支える日本経済の雲行きも怪しい。何よりも問題なのは、日本ではまだこうした新しいライフスタイルの成功例がほとんどないことだ。

 マーク・ボイルの『ぼくはお金を使わずに生きることにした』は、このような新しいライフスタイルを模索している人たちのための絶好の手引きになるだろう。本書は、イギリスの郊外都市ブリストルの近郊で、一年間全くお金を使わずに生活した二九歳の若者マークの体験記である。

 「お金を使わずに生きる」というと、一切社会と関係を断ち、自然の中で自給自足の生活をしている人を思い浮かべるかもしれない。

 確かに、トレーラーハウスで電気や水道などの生活インフラを使わずに暮らすマークの生活にもそういう側面はある。冬のイングランドの厳寒の生活は過酷だ。また、このプロジェクトのために恋人と別れてしまうくだりなどは、ほろ苦い。

 けれども、この本の中で「お金を使わずに生活する」ことによる「惨めさ」はほとんど感じられない。むしろ不思議な?豊かさ?さえ感じさせる。生活のためのサバイバルの知恵を身につけて行く様子は読んでいて楽しい。中でも最高に楽しいのは、「お金を使わずに生きる」生活の最初と最後に盛大に行われるフリーパーティの様子である。マークがこの生活で得たノウハウと人脈をすべて動員して、約千人もの人に無料で食事を振る舞う大パーティを開催するのだ。

 この本の面白いのは、何よりもこうした生活が社会的なネットワーク、とりわけインターネットと都市のネットワークそしてそこで生まれた知識によって可能になっているということである。

 住むためのトレーラーハウスは、無料で物品を交換する「フリーサイクル」のサイトへの投稿を通じて入手する。唯一の移動交通手段である自転車のタイヤのパンクに悩まされると、パンクをしないタイヤの提供者に出会う。

 食料の確保としては、自家栽培や、キノコなどの野外に自生する食料の採取が一般的だが、それ以外にも都市と関係を保っているがために可能な入手手段がある。それは著者が市街地採集(アーバン・フォレジング)と呼ぶもので、要は、他の人が賞味期限切れなどの理由で捨ててしまったものを利用することだ。

 「捨てられたもの」というと印象が悪いが、まだ食べられるにもかかわらず、店の方針等によってゴミとして捨てられてしまう膨大な食品が都市には存在する。欧米ではこうしたムダになるかもしれない食料を再利用すること自体が新しい食の流通をつくる生活の実践として、エコロジー運動やDIY文化の中で浸透しつつあるのだ。

 マークは、ストーブから食料の調達まで、フリーエコノミーを提唱する地域グループやインターネットからさまざまな情報を得る。そして、こうしたノウハウや知識、情報を最大限活用して、生活を変えて行く。それは、単に「お金を使わない」というだけではなく、広い意味での思想の実践であり新しい経済の試みなのである。

 さて、こうした思想と生活の実践は日本にも定着するだろうか。もちろん歴史も環境も違うのですべてを真似するわけにはいかないけれども、この危機的な状況の中で確実に重要な選択肢の中に入ってきているように感じられる。オルタナティブな生活と未来のために、ぜひ多くの人に読まれて欲しい。

          *「scripta」第22号(2012年1月)より転載


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『ぼくはお金を使わずに生きることにした』マーク・ボイル著/吉田奈緒子訳(紀伊國屋書店)

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「O円生活で「新しい経済」を作る」

                     坂口恭平(建築家・作家)

 お金を使わずに暮らす。とは言っても究極の節約生活の話ではない。全く貨幣を使わない0円生活なのだ。これらは似ているようで、まるで違う。

 どんなに安いものでも値札が付いているなら手に入れることはできない。手に入らなければ自分で作る。捨てられているゴミを転用する。無理な場合は人が持っているものと物々交換する。

 0円生活をするためには新しい「経済」を作り出さなくてはいけない。

 アイルランド出身で一九七九生まれの若い著者は、イギリスのブリストル郊外で、この無謀にも思える「生活の実験」を一年間実践した。この本はその詳細な記録である。

 お金が無ければ、まず家を借りることができない。そりゃそうだ。家はすべて不動産屋が管理していて毎月家賃をしっかりと徴収されるようになっている。宅地はすべて誰かの持ち物だから、所有していない人間はお金を払わないと住むことができない。

 そこで、著者は不動産屋には行かずに家を手に入れる方法を考える。自分の頭で必要な家の形状、場所などについて考えてみる。「フリーサイクル」という、無料でリサイクル用品を入手できるウェブサイトに投稿することでトレーラーハウスを獲得し、週三日農作業をすることと引き換えに農場の片隅にトレーラーハウスを置かせてもらうことに成功する。

 どうすればお金を使わずに住む場所を確保することができるのかを知ると共に、多くの人にとって家の購入が一生のうちで一番高い買い物であることは、やはりおかしいなと思う。土地を持たないものはお金を払わないといけないという状況は、搾取なのかもしれないと気付く。

 社会の中に点在する問題を指摘するのは簡単だが、変えることはなかなか難しい。しかし、著者は無理に変えようとしてはいない。そこに勇気づけられる。変えるのではなく、もう一つの方法を探し出し、自分の既成概念を壊し、周りの人たちと知恵を分かち合うことで実現させていく。

 お金を使わないという行為は、行動と思考が同時に絡み合っている。生きるために必要な一つ一つの要素を、いかにお金を使わず手に入れるか。文明批判でありながら、まだ誰も気付いていない可能性を掘り当てる大冒険としても読める多層的な本だ。

 実験の過程では、もちろん大変な目にも遭っていく。0円生活は何事にも手間がかかる。友人に会うために往復六〇キロも自転車で走らないといけない。天敵はネズミだ。食中毒にもなり、孤独が辛い時もある。

 しかし、重要なのは0円生活が実現可能だったことだ。

 この本は、単一のシステムによって雁字搦(がんじがら)めになっているように見える現代社会に、実はまだ試されていない部分が存在していることを、実際に体験してみせることで具体的に示している。

 何一つルールや法律を変えなくても、現状でやれることを試行錯誤してみると実践できることがたくさんある。

 つまり、もうすでに目の前の都市には貨幣の不要な「経済」もひっそりと存在しているのだ。

 著者は「分解」リストと名付けたノートに自分が消費してきた物を片っ端から書き出し、自分が必要とする物すべてを、お金を使わずにどうやって手に入れることができるかを検討している。

 何がどれだけ必要なのかは、案外気付いていないものだ。

 スキッピング(飲食店、スーパーマーケットなどのゴミ箱から食材を収集すること)によって、百五〇人ほどにフルコース料理をふるまう無料パーティーまで成功させている。その豪快さに、こちらまでついその気にさせられる。

 何事も体を動かして試してみる。

 著者はこの単純かつもっとも説得力ある方法で、読者に具体的な「量」を示してくれている。

 さらに、この生活を彩っているのが「フリーエコノミー・コミュニティー」だ。著者が持っていたハウスボートを売ったお金で始めたこのウェブサイトでは、無償であらゆるスキルを教え合い、道具、空間を分かち合うことができる。

 彼のウェブサイトを見ると、現在一六〇カ国、約三万五千人が参加しており、四六万種類の技術、一〇万個の道具、五〇〇以上の空間が集まっている。お金を稼ぐことよりも、それぞれの才能を分かち合う贈与経済が求められてきているのだ。

 自分の「経済」を作る。そして、分かち合うコミュニティを形成する。
この本が伝えていることは、原発事故が未だ収束せず、今後どのような生活が待ち受けているのか分からず思考停止になってしまっている私たちには大きなヒントになる。

 つい、システムの変化を求めてしまうが、本当に重要なのは自分がどれだけのエネルギーが必要なのかを知ることだ。それをどうすれば獲得することができるのか試すことだ。

 お金を使わずに生きる。それはこれからの生活、共同体の在り方を考え直す最善の方法なのかもしれない。 

   *「scripta」第22号(2012年1月)より転載




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『ぼくはお金を使わずに生きることにした』マーク・ボイル著/吉田奈緒子訳(紀伊國屋書店)

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「金なし生活で得た自由」


                   大貫妙子(シンガー&ソング・ライター)


 東日本大震災をきっかけに、モノを買いたいという欲望は私の中から完全に消え失せてしまった。今は、モノがあふれる部屋がいまいましくさえ思える。ほとんどが、仕事に必要だからという理由でそこにあるのだけれど。

 モノのあふれる部屋と持ち物をすべて失うというのはどういうことか。そして自分にとって何が本当に大切で必要なのかを、震災によって強烈に納得させられた。

 東京の食料自給率は、ほぼゼロに等しい。ひとたび何かがおきると、スーパーマーケットの棚から品物があっという間に消え失せる。お金を持っていても売ってもらうものがないのだ。お金ってなんと役立たずなのかと呆然とした。

 気候変動で地球の食料も安定的な供給が得られなくなるだろうと考えるようになったのは、十年前だった。ご縁あってお米をつくりはじめて六年になる。今年も美味しい新米が食卓に上った。汗を流した収穫までの日々と、それに応えてくれる実りのありがたさを思うと、賞味期限切れだからと食べものがぽいぽい捨てられていくありさまを見ると気が滅入る。

 消費・賞味の期限が明記されるようになる前は、食品のパッケージに表示されるのは製造年月日だけだった。そもそもこれらの表示が必要になったのは、買い置きをするようになったことが原因なのだと思う。毎日買い物に行き、使い切る暮らしをしていれば問題はおきないのだから。

 東京で生まれ育った私が東京を出てしまったわけは、バブルで街が壊れ、大好きな商店街がどんどん姿を消して行ってしまったことが大きい。毎日の買い物ができなくなったのだ。以前はちょっと歩けば行けた商店が生活の範囲の外になってしまった。手に持って歩いて帰ってこられる量だけ買う、ということができなくなって車を使うようになる。すると必要以上に買ってしまう。その結果食物を捨てるというのは、本当に気分の悪いものだ。

 多少古くなっていても、匂いを嗅げば「んっ?」と異常に気づくことができるし、口の中に入れてしまったら、舌で「あれっ?」とわかる。飲み込んでしまったら胃に判断してもらおう。身体に悪いものは吐き出す優秀な機能がもともと備わっているのだから。

 『ぼくはお金を使わずに生きることにした』で、著者のマーク・ボイルは、食材の調達のために自家栽培だけでなくスキッピング(廃棄されたものを採集すること)を活用した。まだ十分食べられるのに、消費期限切れなどの理由で捨てられているものがたくさんあるためだ。

 テレビアニメ「はじめ人間ギャートルズ」の「トリカエッコンの巻」の話はこうだった。ゴンとおとうちゃんは冬に備えて食料を調達しに市場へやってきたのだが、石のお金はこの時期役にたたなかったのだ。

 ごろごろ転がして運ぶほど大きな石のお金と交換したいものなんかない!ということなんだ。私にとってのお金のイメージは、いまだにここから進化していない。

 アフリカに延べ一年いた頃、たとえばマサイ族の土産物屋で売っているビーズの腕輪を、店員の女たちは法外な値段で売りつけようとするけれど、私が首に巻いていた赤いバンダナと交換してくれるなら持って行っていいよ、と言った。

 マーク・ボイルの考えるお金を使わない暮らしも、「完全な自給自足」を望むのではなく、「地域社会の中での自給」を実現する方向が望ましいという結論に至っている。

 イギリスの進化生物学者ロビン・ダンバーによれば、人間が安定した社会関係を維持できる相手の数は約百五十人までだそうだ。この大きさのコミュニティーであれば量産によるスケールメリットの恩恵も受けられるし、持続不可能なほどの規模拡大にともなう工業化もおきないはずだと。

 自給自足で暮らす家族のドキュメンタリーを見たことがあるが、一年を通して毎日、食料となる動物や野菜の世話をし続けなければならないほど過酷な生活だ。それを無謀にもひとりでやってみたマーク・ボイルは、同じことを相互依存的にやれば休息や創造の時間も生まれ、そういう地域社会の中で暮らすことでお金の必要がなくなる点が素晴らしいと言う。皆が自分にできることを持ちよることで、世間の評判がお金の代わりになる。さらには、与えれば与えるほど、多くを受け取る結果になるはずだと考えているのだ。「お金を使わずに生活していたら、必要な材料は地域内で調達せざるをえない。地域社会のニーズにこたえる責任が生じるし、おのずと自分たちが使う物に対する認識が深まる」とも。

 本書で引用される経済学者リチャード・イースタリンが指摘する「消費主義のルームランナー」のたとえもおもしろい。「人はお金があるほど幸せになれると思いこんでいます。(中略)「収入が増えれば増えるほどますますお金が欲しくなる」という事実を忘れているからです」

 「お金それ自体には何の価値もないのだけれど、いつしか人間はお金の僕(しもべ)になってしまった。世界はお金に乗っとられてしまった」。「もっともっと儲けたい」という強迫観念で動いている世界なんて幻想なんだってことを、マーク・ボイルは言いたかったのだ。

 本書を読みながら、持続可能な社会を実現するためのさまざまなNGO活動を支援されている田中優さんの、「お金をどこで稼いだか、どこに使ったか、どこに預けたかで社会が変わるんだ」という言葉を思い出した。

 マーク・ボイルは、金なし生活の過程で遭遇する数多(あまた)の困難を解決するたびに新たなスキルを習得し、逞しく、そして自由になっていく。それはお金では買えない宝物だ。これを読み終える頃、読者には新たな視点からの発想が生まれているだろう。私もこんな生活に挑戦してみたい。

 

         *「scripta」第22号(2012年1月)より転載




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2011年09月22日

『〈わたし〉を生きる――女たちの肖像』島崎今日子(紀伊國屋書店)

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「損得の彼岸の輝き」

                       津村記久子(小説家)

 以前は、大人になればもうちょっと楽に息ができるようになるだろうと思っていた。それは二十代で働くようになって、少しの金銭的な自由を得たことによって叶えられたかのように見えたのだけれど、それからまた年を食って、どんなふうに生きればいいのかがまたわからなくなってきている。

 筆者は三十三歳なのだが、単なる学生時代からの友達というだけの集まりの中にも、独身、既婚、子持ちの専業主婦など、様々な立場の女の人たちがいる。彼女たちと話をすると、それぞれに悪くてそれぞれに良く、とにかく正解がないということが正解、と思えてくる。自分と同じように独身の女の人であっても、映画と音楽とスポーツ番組にしか興味のないわたしを揶揄(やゆ)したりもする。主婦は、たくさん働いてえらいなあと言ってくれる。一緒に遊び回るなら、既婚でまだ子供のいない友人がいちばん気楽な気もする。人間関係は、明確なカテゴリの中でだけ形作られるものでもないのだった。

 そうやって生身の女の人たちに出会うと、それぞれはそれぞれに一所懸命だしそれで良いではないか、と思えるのだが、誌面やネットでは、それぞれの区分の女の人たちが血で血を洗う言い争いをしている。自分の生きてきたやり方が正しいと、相対する陣営に認めさせようと必死な人もいる。自分が何か間違ってきたような気がして苦しいのか、それともすごく暇なのか。

 両方を交互に見ると、ますます「正解はない」という気分になる。それはそれでいいのだけれど、ときどきは、身の処し方がまったくわからなくなり、あげく、自分が心底共感したのは映画『モンスター』の女シリアルキラーだけだったなあ、と思い出して、心にぽっかり穴があいたような気持ちになる。そんなアホで浮ついた三十代を後目(しりめ)に、四大卒の女の子の専業主婦願望が高まってたりして、女はもうわけがわからない、とさじを投げたくなるのだった。

 どう生きたらいいかわからない。本書は、そんなぼんやりしているわりに根源的で、厄介な悩みには、福音のように響く本だろう。リスクを負いたくない人、得だけしてそこそこ幸せになって、その程度のことを皆に誉めてほしい人が目を背けたくなるであろう、成功と裏腹の痛みと悩みに光を当てる。

 たとえば木皿泉さんの章では、普通の人生とはなんだろう、と改めて考えさせられた。すごく気があって、二人で完結しているような木皿さん夫婦には次々試練が襲いかかる。木皿泉というと、めちゃくちゃ成功してる脚本家以外の何者でもないのだが、私生活は苦難の連続なのだった。夫の木皿さんは脳出血に倒れ、半身が不自由になり、妻の木皿さんは躁鬱(そううつ)病を患ってしまう。仕事にまつわるOKを出すレベルが高すぎて、お金にだって苦労する。けれど、自分たちを支えてくれる人のことを決して忘れない、等身大の夫婦の姿が記される。最終的に浮かび上がるのは、苦難を受容して生きる、それでも幸福な一組の夫婦の姿である。そこで、普通にも幸福にも、誰にも敷衍(ふえん)できるモデルなどないことに、読者は気付く。

 また、夏木マリさんの、歌手になってだめになって、グラビアもやって半裸もさらした末の、虚飾のない仕事への姿勢にも、勇気のようなものを与えられる。夏木さんは、目の前のことをひたすら一所懸命やる。これがどうしても好きとか、こうなりたくてとかではなく、「恥かきたくない一心」とかで必死に真面目に動く。それが誰かの心に焼き付けられ、仕事につながり、マネージャーの砂田さんのプロデュース能力もあって、一段一段仕事のレベルをあげてゆく。その向こうで、夏木さんが本当にやりたいことを発見してゆく様は、一人の人間が仕事と向き合う物語として、非常な感動を誘う。「明日を信じられないから頑張れる」という言葉が、胸を抉(えぐ)る。それがいいことなのか悪いことなのかわからないが、自分が『モンスター』に共感した感触さえ思い出した。人間は明日で、未来で、孤独になりたくないがために必死に策を巡らし、あらゆる我慢をするのに、夏木さんは、すぱっとその「明日」の枷(かせ)を取り払ってみせる。

 山田詠美さんのすばらしくすっきりした在り方や、林文子さんの仕事と深く結びついた柔軟で興味深い人生は、すぐに誰かに伝えたくなるような魅力を湛(たた)えている。長与千種さんと風神ライカさんの生きる孤独は、逆説的に、誰かを「一人ではない」と奮い立たせる力強さを持っている。その他、ここに登場するすべての女の人たちの挑戦と戦いは、必ず読者に勇気を与えるだろう。

 傷つきながら生きたらいいと思った。投げやりに聞こえるだろうか。人間が傷つきながら前に進む姿は、他人(自分の気に入る女にだけ生きていることを「許可」する男と、男に気に入られてでしか生きられない女)の傍らに存在してはいけないものなのだろうか。そんなことは絶対にない。満身創痍(まんしんそうい)で、それでも立っているということを、ここに出てくる女の人たちの有様は肯定している。誰もが暇でケチで憂鬱でずるけている世界で、その姿がどれだけ輝いて見えることか。

 最後に、本書を総括するであろう萩尾望都さんの言葉を引用する。「でもね、異端のしんどさは時に武器になる。みんな、そのしんどさを胸に掲げて生きればいい。世界は変わります」

*「scripta」第21号(2011年9月)より転載

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