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2010年08月12日

『戦後日本スタディーズ〈3〉 8 0・9 0 年代』岩崎稔、上野千鶴子、北田暁大、小森陽一、成田龍一編著(紀伊國屋書店)

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「いま」を読み込み読みかえる手がかりとして――『戦後日本スタディーズ』年表あとがき


                    道場親信(和光大学准教授)

 現在紀伊國屋書店から刊行中の『戦後日本スタティーズ』(以下、『スタディーズ』)全三巻に収録された「年表」の作成過程についてあとがき的な文章を、との依頼をいただいた。ふりかえれば、同書店出版部のFさんから年表作成を求められたのが一昨年の春頃だったと思う。第二巻に論文を書くことと並行して各巻末に年表を、というのである。年表というものは、手間がかかる割には著作物として評価されることは少ない。よほど基礎研究が充実しているか、個性的なテーマ設定がない限り、書籍巻末の「おまけ」に終わってしまう。そんなこともあって、当初あまり乗り気ではなかった。

 これに加えて、過去に作成した年表の作業を思い返し、不安を覚えてもいた。一九九五年のほぼまるまる一年、私にとってはひたすら「年表」の年だった。社会評論社の『コメンタール戦後50年』の企画で「戦後日本思想史年表」を作成することになり、先行する数々の思想史年表から始まって、主要雑誌の目次、文化的なテーマの各種年表、通史などを濫読しつつ、年表が整備されていない七〇年代以降については新聞の論壇時評や年鑑などを用いて「戦後五〇年」の思想史年表をようやくまとめあげたのは一九九六年二月のことであり、完成してみたら総頁一七〇頁になってしまった。この作業は私にとってとても有益な「強蓄積」の過程となったが、いかんせん時間と手間がかかりすぎた。「あれをふまえて作ってくれればいいんですよ」と『スタディーズ』編者の成田龍一さん、岩崎稔さんはいうのだが、作業の時間が確保できそうにない。いったんは断りかけた仕事だが、当時別件で頼まれて作りかけていた「戦後日本社会運動史年表」(未発表)と過去の思想史年表を組み合わせれば、何とか形になるかもしれない、そのように話すと、Fさんの目が光った。私は逃げるのに失敗したのだ。

 とりあえず、年表の構成は三段、①国際事象も含め、政治・経済、あとは日本社会に起きた事象をもとに②社会運動、③生活・思想・文化、を拾い出し、多数のすぐれた先行する年表から項目を拾い出し重ね合わせていく形で原形を作成することになった。数々の年表を改めて通読するというしんどい作業が続いたが、これまで気がつかなかった事象間の同時性や相互関連などが発見されたり、類似項目を取捨選択し関連項目を絞り込む中で「流れ」を提示する責任の重さを痛感するなど、勉強になることは多かった。

 作業においては、岩波書店の『近代日本総合年表』はもちろんのこと、たくさんの先行業績にお世話になった。「政治・経済」の欄では、通常年表を作成する場合とは異なり国際事象と国内事象を同列に並べた。これは、一つには社会運動と思想・文化に重い比重を与えているためにスペース上やむを得なかったという消極的理由もあるが、積極的には、「戦後」日本の政治経済が国際的な政治経済軍事動向、とりわけ東アジアのそれといかに連動し、またズレをもっているかを一望するためにあえてそうしてもいる。これらを「背景」として社会運動と思想・文化とを読み解く、というのが年表全体の設計であり、『スタディーズ』のコンセプトとも合致するのではないかと考えた。ここでは姜徹編『在日朝鮮韓国人史総合年表』や新崎盛暉編「沖縄同時代史」シリーズ年表、鹿野政直『現代日本女性史』なども大いに参考にさせていただいた。

 「社会運動」の項目では、大原社会問題研究所の『社会・労働運動大年表』、さらには飯島伸子さんの『公害・労災・職業病年表』にも大いに助けられた。これらをもとに、自分なりに事例を追加して二〇〇〇年までたどりつくことができた。「生活・思想・文化」の項では一九九五年までは上述の年表を作成しているので、これを圧縮することでかなりの作業を進めることができたが、一九九六年から二〇〇〇年まではまったく先行業績のない中、かつての作業を延長して項目を拾った。とくに思想・文化に関連して悩ましいのは、出版界ではおよそ一九七〇年代初頭までは思想史的アンソロジーや「大系」ものが各社で競うように出版されており、個別テーマ的にも思想文化動向全体に関しても有益な先行業績が多数存在する一方で、七〇年代以降になると急速にそうした作業が消え果て、批判的に対峙しうるコンテクスト自体が可視的に存在していない、ということである。個別の論争や論者の登場を語ることはできても、全体の「見取り図」は描かれなくなっていく。思想が業界化し、これをチャート化してみせる新たな書き手として浅田彰氏が注目された経緯については第三巻の三浦雅士氏インタビューで語られていたが、そこでいう「思想」は明らかに四〇・五〇年代の「思想界」よりも専門業界化した中で生産されていた。個別に論じる際にはそれで不都合なことはないのだが、ここでの年表作成の作業は一九四〇年から一貫したものとして行われている。途中で基準を変更しないとして、どんな切り取り方が可能なのか、ということに悩みながら、最終的には「勘」で処理するほかなかった。仮にこのような年表に「読者」がいるとして、ご意見などいただけたら幸いである。

 年代を二〇年ごとに区切り、とくに第一巻で一九四〇年を起点としたのは、成田さんのアイデアによる。「戦後」を一九四五年八月一五日から始めるのではなく、戦後の中の戦時期と戦時期の中の戦後とを重ね合わせ読み合わせていく近年の研究動向を反映した、意欲的な時期区分であると思う。この方法意識を反映して、四〇・五〇年代を扱う第一巻では近年の「総力戦体制」論や占領研究、戦後初期の文化運動研究の進展をふまえ、この間の歴史像の変化を反映できたのではないかと考えている。論文のラインナップから見ても、第一巻はかなりマニア度の高い、そして他の著作物に対しても個性のある同時代論となっているのではないかと期待している。

 第二巻で取り扱っている六〇・七〇年代は、近年ようやく本格的な研究や議論が始まった感があるが、研究動向的にいえばまだ過渡的段階にある。ここでは、社会運動史上の事実や思想文化動向に関して素材に困ることは何もないのだが、すでにある世代の人々にとって「大切な思い出」となりつつあるこの時代を、「思い出」のまま扱うところから一歩踏み出したいと考えた。噴出する社会運動や思想上の課題の背景をなす社会的変化とともに、社会のネオリベラル化の起源を歴史社会学的に考える近年の研究動向などもふまえつつ、七〇年代後半からの社会秩序再編の動向や、八〇年代的な消費社会論の陰でよく見えなかったがのちに鮮明となった動向に関し、不十分であることは承知しているが、現在の時点でたどり直そうと努力してみたつもりである。この時代は社会運動史的にも以前の労働組合運動や革新政党を軸とした「国民運動」の枠には収まらない多様な主体と課題と異議申し立ての噴出した時代であり、多様な力が交錯する流動性をもっていた(この点については『スタディーズ』第二巻所収の拙稿「地域闘争――三里塚・水俣」を参照されたい)。この力の場をどのように理解するかについての議論は始まったばかりであり、私としても答えを用意した上で体系的に読み解くなどできないことから、「力の錯綜」として表現することしかできなかった。七〇年代後半からのネオリベ的なものの拡大は八〇年代へと繰り越され、それとも接点をもちながらポストモダニズムが登場する。六〇年代の運動経験の普及と思想化、その屈折など、あとからたどる上で必要だと思われる事項を置き石のように選んで置いていく、それがこの時代に関してできたことだった(あくまで主観的に、だが)。

 第三巻では、最も直近の時代、八〇・九〇年代を扱い、対象化の難しい時代であることを痛感した。歴史像を示す先行作業は皆無に等しい。だが、近年明らかになってきているように、九〇年代は日本におけるネオリベラルな体制が政治的担い手を次々と取り換えながら進展してきた時代であるととらえることができ、これが全面的に可視化した二〇〇〇年代終わりの視点からふりかえって足跡をたどる、という構成になった。社会運動についても思想・文化についても、九〇年代にはこの動向に対して自覚的な取り組みは希薄であり、さまざまな誤解と経済不況から煽られた恐怖によって、以前であればありえないような制度が続々と作られていった(この点については、酒井隆史『自由論』、渋谷望『魂の労働』、それから拙著『抵抗の同時代史』を参照されたい)。こうした視点の取り方は後代から見て「一面的」のそしりを免れないかもしれないが、その限界も含めて『スタディーズ』全体の問題意識の積極性としてここでは押し出しておきたい。何のために「歴史」をたどるのかといえば、「なぜこのようになってしまったのか」という痛切な問いに答えるためという理由はひとつはっきりと存在する。「戦後」を思い出として消費するのではなく、「いま」に連なる軌跡として、そして「いま」を解読する手がかりとして、読み込み読みかえる作業、そのための提案であると同時に素材として、年表を作成してみた。

 とくに苦心したのは、出版計画から第三巻を先に出すと決まったことで、一九六〇年から二〇〇〇年までの四〇年を一気に年表化しなければならなくなったことである。年表を作る際には、何度も行ったり来たりしながら連続性と断絶性とを確認していかなければならない。後代を先に出すからといって、そちらの時代から先に作るわけにはいかないのだ。そのため、二〇〇八年夏は年表作業につぶれた夏となった。一九九五年の悪夢が再現したのである。とはいえ、前後の項目や流れについての記憶がはっきりしているうちに集中作業をしたことは、かなり効率よくゴールに至る要因ともなった。スペースに合わせて項目を削ったあとは、Fさんのあとを受けた担当編集者のAさんが項目の照合をていねいにしてくださった。今回の年表から誤植・誤記が消えているとすれば、それはAさんの校訂作業によるものである。このようなシリーズ本にしては異例の頁数も確保していただいた。「おまけ」ではなく、年表もまた歴史の問い直し作業に連なるものとして、論文と合わせて通覧していただければ幸いである。


*「scripta」第11号(2009年3月)より転載


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