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2010年08月27日

『巨大建築という欲望――権力者と建築家の20世紀』ディヤン・スジック著/五十嵐太郎監修/東郷えりか訳(紀伊國屋書店)

巨大建築という欲望――権力者と建築家の20世紀 →bookwebで購入

「建築と政治の密接な関係」

                            宇波 彰(評論家)

 巨大な構築物は、権力・財力を持つ者の「欲望」の表現である。スジックは本書で、その欲望の醜さと、彼らの欲望に応じて巨大な建築を作る多くの建築家に対する痛烈な批判を繰り広げる。スジックのいうように、「ムッソリーニ、スターリン、ヒトラーは、みな建築を政治的なプロパガンダに欠かせない道具として扱っていた」のであり、「二十世紀に権力を握った独裁者で、建設キャンペーンに乗りださなかった人物を探すのはほとんど不可能」である。それほど政治と建築は密接につながる。

 いままでしばしば論じられてきたのは、腹心の建築家であったアルベルト・シュペーアの協力を得てこの「欲望」の実現を夢想していたヒトラーのばあいである。ドイツの新首都ゲルマニアをヒトラーは、死の直前までシュペーアとともに構想していたといわれる。スジックは、「ヒトラーにとって、ナチ政権の設立は、彼の建築上の野心を実現するための手段でもあった」と指摘する。このことは、かつてクラカウアーが『カリガリからヒットラーまで』(平井正訳、せりか書房)のなかで、ヒトラーとゲッベルスはリーフェンシュタール「意志の勝利」を撮影する目的で、ナチスの党大会を「上演した」と説いたことを想起させる。つまり、権力者が巨大建築を造るのは、単に「権力の誇示」だけを目的とするものではない。普通の人の眼で見ると異常としか思えない建築への「欲望」が存在するのであり、そのことをスジックは強調する。権力者の野心の成就に荷担しようとした典型的な建築家がシュペーアであり、彼は「全体主義を目に見えるかたちにすることで、その実現に寄与した」建築家として規定されている。スジックはこのシュペーアの息子が、現代中国の国家プロジェクトにかかわる建築家として活躍していると、皮肉を込めて記している。

 斎藤忍随の『プラトン』(岩波新書、一九七二年)は、三〇年以上も前に書かれたものであるにもかかわらず、プラトンの入門書として出色のものである。そのなかにヘロドトスからのつぎのような引用がある。「御承知のように、神は常に最も高層な建物や、最も高き樹木に雷箭を投ぜられます。抜群の巨大なもの一切の矮小化、これこそ神の好み給う習いであります」。古代ギリシアの神話的世界においてさえも、神は人間の作る巨大建築を嫌っていたのである。それは人間の傲慢のしるしであったからであろう。

 これまでの巨大建築批判は、ヒトラーと組んだシュペーアの仕事、スターリン様式と呼ばれる巨大で面白味のない旧ソ連圏の建築が対象であった。特にシュペーアは東秀紀の『ヒトラーの建築家』(NHK出版)のなかで小説風に描かれていて、そこには竹橋にある東京国立近代美術館などの設計で有名な谷口吉郎も登場する。また一九九五年にはアメリカでジッタ・セレニーの分厚いシュペーア伝が刊行されている(Gitta Sereny, Albert Speer, his battle with truth, Knopf)。しかし本書では、いままでほとんど論じられなかったフセイン時代のイラクの建築、天安門広場を含む現代中国の公共建造物が考察されている。二〇〇八年の北京オリンピック・スタジアム(「鳥の巣」と呼ばれている)がスイスの建築家たちによって建てられつつあることもスジックの視野のなかにある。スジックは、そうした全体主義的国家プロジェクトに参加する建築家のみならず、財力にものをいわせるひとたちに迎合する建築家をも批判する。たとえば、イタリアの自動車産業の覇者フィアットの長老、そのコレクションを収める美術館の設計を依頼されたレンゾ・ピアノについても次のように批判している。「ピアノ自身の作品は、スラム地区の活動家や科学によってかたちづくられているのではなく、銀行家や保険業界の大物たちとの関係によって実現されているのだ」。スジックはコルビュジエさえも批判の対象としているのであり、彼にとって、批判の対象に聖域は存在しない。

 スジックは、現代の建築家の作品について皮肉な眼を向ける。フランク・ゲーリーは、世界七位、フランス第一位の富豪アルノーの邸宅の設計を依頼されたと伝えられる建築家であるが、彼がスペインのビルバオに作ったグッゲンハイム美術館は「列車の衝突事故」のような建築だと形容されている。そうしたゲーリーやピアノの仕事は「世界の政治的な背景との契約に左右される」とスジックは指摘する。

 本書によって読者は、現代の建築家がどれほど権力・財力を持つ者と結びついているかを、はっきりと知ることができるだろう。しかも本書はけっして堅苦しい建築批評ではなく、いたるところに興味深いエピソードを織りこんで書かれているから、読者はいつのまにかスジックの記述に引き込まれてしまうはずである。東郷えりかによる翻訳はたいへん読みやすく、また巻末の五十嵐太郎の解説はきわめて魅力的である。

*「scripta」第6号(2007年12月)より転載


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2010年08月23日

『ミドルワールド―― 動き続ける物質と生命の起原』マーク・ホウ著/三井恵津子訳(紀伊國屋書店)

ミドルワールド―― 動き続ける物質と生命の起原 →bookwebで購入

「ライスプディングにジャムを混ぜちゃうと、元にもどせない理由」

                       竹内 薫(サイエンスライター)

 まず、読後感から言わせてもらうと、「ミドルワールドにかかわった科学者たちの悲喜こもごも」がものすごく面白かった。

 「この本は、ヒトの髪の毛の太さの一〇〇分の一から一〇分の一の大きさをもったものが住む世界の物語である。『ミドルワールド』と私が呼ぶ世界」(p.24)

 ミドルワールドは、大きな石ころや人間や地球といった世界と、小さな原子や素粒子の世界との「中間世界」のことだ(科学者たちは、ミドルワールドではなく、「メゾスコピック系」という難しい言い方をするらしい)。

 少々、狐につままれたような気分のまま読んでゆくと、ロバート・ブラウンという植物学者の伝記になる。やがて、ライスプディングにジャムを混ぜる実験の話が出てくる。うん? なんだ、コレ?

 たしかに、ライスプディングとジャムを混ぜたら、元にはもどせないよな…。さらに読み進めると、やがてニュートンが登場し、熱力学をつくった人々がにぎやかに紹介され、次第に科学者列伝めいてくる。うん、おもしろいぞ、こいつら。

 読者によって、この本は変幻自在に姿を変える。物理学出身のボクにとっては、

 「気体は、可逆的な力学の法則に従う粒子の集まりであるにもかかわらず、非常に多数の粒子が集まっているので、その振る舞いは統計学的には不可逆になる」(p.120)

 というような説明は非常にわかりやすく、かつ面白く、また、さまざまな物理学者の悲喜劇にも心躍らされる。

 学生時代、物理学科の先生が、授業中に、ボルツマンのお墓を訪ねて旅した話をしていたが、ボクは試験で赤点を取ったせいか、あまりいい思い出がない。本書に出てくるボルツマンも、終始むっつりとしたイメージで、自己表現力に乏しく、最後は妻と子を残して自殺してしまう。しかし、ボルツマンのまともな伝記を読んだことがなかったボクは、この偉大な物理学者が、ニュートン力学とライスプディングの実験の矛盾を解決したのだ、という本書の説明を聞いて、なんだか目から鱗が落ちた気がした。

 ボルツマンだけではない。誰もが知っているアインシュタインの話も興味深い。

 「アインシュタインの理論は、もし液体が目に見えない分子の海からできているとすると、それに浸されている大きな目に見える粒子は、ランダムウォークすなわちブラウン運動をするに違いないことを示した」(p.148)

 ほとんどの読者が知らないと思うが、アインシュタインは相対性理論ではなく、量子論の業績でノーベル賞を受賞している。そして、さらに知っている人が少ないのが、アインシュタインの「最大」の業績がブラウン運動に関する論文だったことだろう。実際、アインシュタインの論文の中でもっとも科学論文に多く引用されているのは、相対性理論でも量子論でもなく、ブラウン運動の論文なのだ。

 学校でDNAが二重らせんであることを教わるが、この本を読むまで、ボクはあの教科書に載っている図版が正しいのだとばかり思っていた。ところが、この本には、DNAの真の姿が、

 「身もだえし、くねくね動く、分子の〝獣〟」(p.188)

 と書いてあるではないか。たしかに、よくよく考えてみれば、DNAだって水分子の海に浮いているのだから、ミドルワールドの住人として、常に揺れ動いているにちがいない。

 こんなに話題豊富なのに、ミドルワールドは、あまりわれわれの生活に関係ないような気がする。しかし、

 「二〇〇五年一二月の『サイエンス』(Science)誌のニュース記事によると、全世界におけるミドルワールド研究開発の年間支出は、すでに九〇億ドルに達した」(p.251)

 というから驚きだ。実は、ミドルワールドは、いわゆる「ナノテク」の領域にも属するため、世界中で研究開発が行なわれているのだという。

 世界で初めてミドルワールドを顕微鏡で観察したロバート・ブラウンは、花粉の粒子が生きているわけではないことを見抜いた。しかし、その後、ミドルワールドには細胞やDNAやウイルスといった生命界の住人もいることが判明した。

 「ミドルワールドの科学は、生命を物質の作用に『還元すること』に係わるのではなく、物質の作用を生命へと引き上げることに係わる」(p.272)

 つまり、ミドルワールドは、生命と非生命が混ざり合うミステリーゾーンなのだ。

 さまざまな逸話に彩られたミドルワールドは、一言でいうなら「いぶし銀の世界」である。そんな目立たない世界の究明に一生をかけた科学者たちの波瀾万丈の人生には驚かされるばかりだ。

 科学のエピソードに興味がある人、物理学が好きな人、さらには生物学ファンにもおススメできる、万人向けの科学の良書である。


*「scripta」第15号(2010年3月)より転載


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2010年08月19日

『拒食症・過食症を対人関係療法で治す』水島広子(紀伊國屋書店)

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「治療が有害となるとき」

                              水島広子(精神科医)

 一九八二年に米国で患者が起こした訴訟がある。

 患者は精神療法の名門であるチェストナットロッジ病院で「自己愛性パーソナリティ障害」という診断を受け、約七カ月間入院して週四回の個人精神療法を受けた。しかし全く改善が見られないため、家族は別の病院の精神科医を通して治療方針の再検討を依頼した。そこで、会議が行われたが、大きな方針変更はなされなかった。結局、七カ月経過後、家族は患者を別の病院に転院させた。新しい病院では「精神病性抑うつ反応」と診断され、抗精神病薬と抗うつ薬を投与され、三週間で改善し、三カ月で退院した。最終的な診断は気分障害(うつ病)であった。

 訴訟の内容は、「薬物療法を行えばすぐに正常に戻るはずだったのに、薬物を用いなかったため、経済的・社会的・精神的損失を被った」というものである。

 この訴訟は、さまざまな問題を提起するものとして話題を呼んだ。

 第一に、診断の重要性である。この患者はチェストナットロッジ病院でも「抑うつ状態」という診断は受けている。つまり、まるででたらめな誤診をされたわけではない。しかし、チェストナットロッジ病院では、「抑うつ状態」は「自己愛性パーソナリティ障害」によるものとし、パーソナリティ障害の方を治療しなければ治らないと判断した。二番目の病院では、「精神病性抑うつ反応」と診断し、「自己愛性パーソナリティ障害」とは診断しなかった(その後の研究成果から、うつ病などの病気の間には、症状の影響であたかもパーソナリティ障害のように見える人が多いため、うつ病の最中にパーソナリティ障害の診断を下すことには慎重であるべきだ、という考え方が一般的になっている)。

 第二の問題は、治療法の決定方法である。チェストナットロッジ病院でも患者は「抑うつ状態」と診断されていたわけだから、少なくとも抗うつ薬の使用は考慮されてよかった。ところが実際には、薬物療法の併用ということも提案されず、患者は選択の余地なく精神療法を受けることになった。ここでは、「何が有効か」というデータから考える姿勢ではなく、「どうあるべきか」という治療者の信念(思いこみ)によって治療法が決められている。会議を行っても方針が変更されなかったのは、薬物療法と違って精神療法の場合「効かないのは本人の病気がそれだけ重いから」という理屈がまかり通ってきた歴史の影響もあるだろう。一九八〇年頃はたしかに精神療法の効果判定が今ほど精密に行われていなかったが、それでも「治っていない」という現実をもっと謙虚に直視していれば事態は変わっただろう。

 最後に、精神療法の安全性の問題がある。薬物療法でも手術でも、治療を受けようとするときには、その安全性が気になるのは当然のことである。ほかに手段がなく、急を要する場合を除いては、危険性の高い治療を受けようという人はいないだろう。

 精神療法の安全性についてはどうだろうか。精神療法は手術と違って直接身体に傷を与えるわけではないし、薬物療法のように身体に異物を入れるわけでもない。だが、私は精神療法が明らかに「危険」だと思われるケースを見てきた。まだ駆け出しの精神科医だった頃、患者さんの自殺に遭遇した。過食症だった彼女は、精神分析家から「君の吐物は君自身の内面なのだ」と言われ、自分に絶望し、その日のうちに亡くなってしまった。チェストナットロッジ病院の訴訟の例ではそこまでの危険性はなかったものの、「自己愛性パーソナリティ」という診断をされて、「パーソナリティに深刻な問題があってなかなか治らない人」という扱いを受けるのが安全なことだとは思えない。訴訟にある「精神的損失」にはこの点も含まれたのではないかと思う。

 米国の訴訟の話を読んで、「まあ、二十五年も前だから今よりも医学が進んでいなかったのは当然」と思われただろうか。ところが、日本の摂食障害(拒食症や過食症)の患者さんたちは、いまだに同じ時代に生きている。摂食障害の人は、診断こそ正しく受けているが、病気について正しい知識を持っている治療者が少ないので、「わがまま病」「母親の育て方の問題」と言われ、誤った治療に長い年月を費やす人も少なくない。治療法の選択もデータに基づいていないため、拒食症の人は強制的に栄養をとらされ(退院するとすぐに体重が元に戻ってしまうだけでなく、この恐怖の体験がトラウマとなり、さらに病気がこじれてしまう)、過食症の人は「過食を我慢しなさい。あなたは我慢が足りない」と言われたりしている(うつ病の人を励ますのと同じで、ますます病気が悪くなる)。いろいろな医療機関を十年以上転々として私のもとにたどり着く患者さんたちを見ると、チェストナットロッジ病院の訴訟の人以上の「経済的・社会的・精神的損失」だな、と思う。

 本書で紹介している「対人関係療法」は、数多くの臨床試験でほかの治療法と比較され、摂食障害やうつ病への治療効果が実証されている、「科学的根拠(エビデンス)に基づく治療法」の代表格である。本書が、日本の摂食障害治療を「一九八二年米国」のレベルから脱却させる一助となることを願っている。

*「scripta」第6号(2007年12月)より転載


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2010年08月12日

『戦後日本スタディーズ〈3〉 8 0・9 0 年代』岩崎稔、上野千鶴子、北田暁大、小森陽一、成田龍一編著(紀伊國屋書店)

戦後日本スタディーズ〈3〉 8 0・9 0 年代 →bookwebで購入

「いま」を読み込み読みかえる手がかりとして――『戦後日本スタディーズ』年表あとがき


                    道場親信(和光大学准教授)

 現在紀伊國屋書店から刊行中の『戦後日本スタティーズ』(以下、『スタディーズ』)全三巻に収録された「年表」の作成過程についてあとがき的な文章を、との依頼をいただいた。ふりかえれば、同書店出版部のFさんから年表作成を求められたのが一昨年の春頃だったと思う。第二巻に論文を書くことと並行して各巻末に年表を、というのである。年表というものは、手間がかかる割には著作物として評価されることは少ない。よほど基礎研究が充実しているか、個性的なテーマ設定がない限り、書籍巻末の「おまけ」に終わってしまう。そんなこともあって、当初あまり乗り気ではなかった。

 これに加えて、過去に作成した年表の作業を思い返し、不安を覚えてもいた。一九九五年のほぼまるまる一年、私にとってはひたすら「年表」の年だった。社会評論社の『コメンタール戦後50年』の企画で「戦後日本思想史年表」を作成することになり、先行する数々の思想史年表から始まって、主要雑誌の目次、文化的なテーマの各種年表、通史などを濫読しつつ、年表が整備されていない七〇年代以降については新聞の論壇時評や年鑑などを用いて「戦後五〇年」の思想史年表をようやくまとめあげたのは一九九六年二月のことであり、完成してみたら総頁一七〇頁になってしまった。この作業は私にとってとても有益な「強蓄積」の過程となったが、いかんせん時間と手間がかかりすぎた。「あれをふまえて作ってくれればいいんですよ」と『スタディーズ』編者の成田龍一さん、岩崎稔さんはいうのだが、作業の時間が確保できそうにない。いったんは断りかけた仕事だが、当時別件で頼まれて作りかけていた「戦後日本社会運動史年表」(未発表)と過去の思想史年表を組み合わせれば、何とか形になるかもしれない、そのように話すと、Fさんの目が光った。私は逃げるのに失敗したのだ。

 とりあえず、年表の構成は三段、①国際事象も含め、政治・経済、あとは日本社会に起きた事象をもとに②社会運動、③生活・思想・文化、を拾い出し、多数のすぐれた先行する年表から項目を拾い出し重ね合わせていく形で原形を作成することになった。数々の年表を改めて通読するというしんどい作業が続いたが、これまで気がつかなかった事象間の同時性や相互関連などが発見されたり、類似項目を取捨選択し関連項目を絞り込む中で「流れ」を提示する責任の重さを痛感するなど、勉強になることは多かった。

 作業においては、岩波書店の『近代日本総合年表』はもちろんのこと、たくさんの先行業績にお世話になった。「政治・経済」の欄では、通常年表を作成する場合とは異なり国際事象と国内事象を同列に並べた。これは、一つには社会運動と思想・文化に重い比重を与えているためにスペース上やむを得なかったという消極的理由もあるが、積極的には、「戦後」日本の政治経済が国際的な政治経済軍事動向、とりわけ東アジアのそれといかに連動し、またズレをもっているかを一望するためにあえてそうしてもいる。これらを「背景」として社会運動と思想・文化とを読み解く、というのが年表全体の設計であり、『スタディーズ』のコンセプトとも合致するのではないかと考えた。ここでは姜徹編『在日朝鮮韓国人史総合年表』や新崎盛暉編「沖縄同時代史」シリーズ年表、鹿野政直『現代日本女性史』なども大いに参考にさせていただいた。

 「社会運動」の項目では、大原社会問題研究所の『社会・労働運動大年表』、さらには飯島伸子さんの『公害・労災・職業病年表』にも大いに助けられた。これらをもとに、自分なりに事例を追加して二〇〇〇年までたどりつくことができた。「生活・思想・文化」の項では一九九五年までは上述の年表を作成しているので、これを圧縮することでかなりの作業を進めることができたが、一九九六年から二〇〇〇年まではまったく先行業績のない中、かつての作業を延長して項目を拾った。とくに思想・文化に関連して悩ましいのは、出版界ではおよそ一九七〇年代初頭までは思想史的アンソロジーや「大系」ものが各社で競うように出版されており、個別テーマ的にも思想文化動向全体に関しても有益な先行業績が多数存在する一方で、七〇年代以降になると急速にそうした作業が消え果て、批判的に対峙しうるコンテクスト自体が可視的に存在していない、ということである。個別の論争や論者の登場を語ることはできても、全体の「見取り図」は描かれなくなっていく。思想が業界化し、これをチャート化してみせる新たな書き手として浅田彰氏が注目された経緯については第三巻の三浦雅士氏インタビューで語られていたが、そこでいう「思想」は明らかに四〇・五〇年代の「思想界」よりも専門業界化した中で生産されていた。個別に論じる際にはそれで不都合なことはないのだが、ここでの年表作成の作業は一九四〇年から一貫したものとして行われている。途中で基準を変更しないとして、どんな切り取り方が可能なのか、ということに悩みながら、最終的には「勘」で処理するほかなかった。仮にこのような年表に「読者」がいるとして、ご意見などいただけたら幸いである。

 年代を二〇年ごとに区切り、とくに第一巻で一九四〇年を起点としたのは、成田さんのアイデアによる。「戦後」を一九四五年八月一五日から始めるのではなく、戦後の中の戦時期と戦時期の中の戦後とを重ね合わせ読み合わせていく近年の研究動向を反映した、意欲的な時期区分であると思う。この方法意識を反映して、四〇・五〇年代を扱う第一巻では近年の「総力戦体制」論や占領研究、戦後初期の文化運動研究の進展をふまえ、この間の歴史像の変化を反映できたのではないかと考えている。論文のラインナップから見ても、第一巻はかなりマニア度の高い、そして他の著作物に対しても個性のある同時代論となっているのではないかと期待している。

 第二巻で取り扱っている六〇・七〇年代は、近年ようやく本格的な研究や議論が始まった感があるが、研究動向的にいえばまだ過渡的段階にある。ここでは、社会運動史上の事実や思想文化動向に関して素材に困ることは何もないのだが、すでにある世代の人々にとって「大切な思い出」となりつつあるこの時代を、「思い出」のまま扱うところから一歩踏み出したいと考えた。噴出する社会運動や思想上の課題の背景をなす社会的変化とともに、社会のネオリベラル化の起源を歴史社会学的に考える近年の研究動向などもふまえつつ、七〇年代後半からの社会秩序再編の動向や、八〇年代的な消費社会論の陰でよく見えなかったがのちに鮮明となった動向に関し、不十分であることは承知しているが、現在の時点でたどり直そうと努力してみたつもりである。この時代は社会運動史的にも以前の労働組合運動や革新政党を軸とした「国民運動」の枠には収まらない多様な主体と課題と異議申し立ての噴出した時代であり、多様な力が交錯する流動性をもっていた(この点については『スタディーズ』第二巻所収の拙稿「地域闘争――三里塚・水俣」を参照されたい)。この力の場をどのように理解するかについての議論は始まったばかりであり、私としても答えを用意した上で体系的に読み解くなどできないことから、「力の錯綜」として表現することしかできなかった。七〇年代後半からのネオリベ的なものの拡大は八〇年代へと繰り越され、それとも接点をもちながらポストモダニズムが登場する。六〇年代の運動経験の普及と思想化、その屈折など、あとからたどる上で必要だと思われる事項を置き石のように選んで置いていく、それがこの時代に関してできたことだった(あくまで主観的に、だが)。

 第三巻では、最も直近の時代、八〇・九〇年代を扱い、対象化の難しい時代であることを痛感した。歴史像を示す先行作業は皆無に等しい。だが、近年明らかになってきているように、九〇年代は日本におけるネオリベラルな体制が政治的担い手を次々と取り換えながら進展してきた時代であるととらえることができ、これが全面的に可視化した二〇〇〇年代終わりの視点からふりかえって足跡をたどる、という構成になった。社会運動についても思想・文化についても、九〇年代にはこの動向に対して自覚的な取り組みは希薄であり、さまざまな誤解と経済不況から煽られた恐怖によって、以前であればありえないような制度が続々と作られていった(この点については、酒井隆史『自由論』、渋谷望『魂の労働』、それから拙著『抵抗の同時代史』を参照されたい)。こうした視点の取り方は後代から見て「一面的」のそしりを免れないかもしれないが、その限界も含めて『スタディーズ』全体の問題意識の積極性としてここでは押し出しておきたい。何のために「歴史」をたどるのかといえば、「なぜこのようになってしまったのか」という痛切な問いに答えるためという理由はひとつはっきりと存在する。「戦後」を思い出として消費するのではなく、「いま」に連なる軌跡として、そして「いま」を解読する手がかりとして、読み込み読みかえる作業、そのための提案であると同時に素材として、年表を作成してみた。

 とくに苦心したのは、出版計画から第三巻を先に出すと決まったことで、一九六〇年から二〇〇〇年までの四〇年を一気に年表化しなければならなくなったことである。年表を作る際には、何度も行ったり来たりしながら連続性と断絶性とを確認していかなければならない。後代を先に出すからといって、そちらの時代から先に作るわけにはいかないのだ。そのため、二〇〇八年夏は年表作業につぶれた夏となった。一九九五年の悪夢が再現したのである。とはいえ、前後の項目や流れについての記憶がはっきりしているうちに集中作業をしたことは、かなり効率よくゴールに至る要因ともなった。スペースに合わせて項目を削ったあとは、Fさんのあとを受けた担当編集者のAさんが項目の照合をていねいにしてくださった。今回の年表から誤植・誤記が消えているとすれば、それはAさんの校訂作業によるものである。このようなシリーズ本にしては異例の頁数も確保していただいた。「おまけ」ではなく、年表もまた歴史の問い直し作業に連なるものとして、論文と合わせて通覧していただければ幸いである。


*「scripta」第11号(2009年3月)より転載


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