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2010年06月10日

『精神の自由ということ―― 神なき時代の哲学』アンドレ・コント= スポンヴィル著/小須田 健、コリーヌ・カンタン訳(紀伊國屋書店)

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「信じる人にも、信じない人にも」

                        玄侑宗久(作家・福聚寺住職)

 この本のタイトルを見れば、たいていの禅僧は振り向くだろう。「精神の自由」とは、禅の中心テーマでもあるからだ。そして本を手にとって目次を見ると、簡潔な章立てだけが書かれている。曰く「宗教なしですませられるだろうか」「神は実在するのだろうか」「無神論者のための精神性とはどのようなものか」。じつにシンプルにこの本の内容が告げられている。そう、この本は、無神論者である著者が、誇り高き無神論者としての精神性を追求したもので、人間の外部に拝む対象をもたない禅とどこかで通底している。

 なるほど、世界は今、外側の神を礼拝する人々の宗教的な狂信や原理主義による殺戮(さつりく)に満ちている。また宗教組織の腐敗による犯罪の例にも事欠かない。しかし著者のスポンヴィル氏が無神論を標榜するのは、そんな現状を批判するためだけではない。人間としての自由な生き方を真摯に哲学した結果、著者は十八歳のとき無神論になった。いわば筋金入りの無神論者なのである。

 日本の特異な宗教事情から考えれば、無神論者になるのにどうしてそんな筋金が必要なのか、理解しにくいかもしれない。気軽に無神論だと言いながら、仏壇にはお線香をあげ、神社では柏手をうつ民族には、たぶんこれほどのエネルギーをこの問題に注ぐ理由は思いつかないだろう。

 しかし唯一絶対の神とは、ユダヤ・キリスト教圏に生きるある種の人々にとっては、信じられないほど脅迫的な重圧なのである。

 たまたま私は、つい最近フランスの仏教学者と対談する機会があった。彼も神の位格(ペルソナ)の問題で少年期から悩み、とうとう仏教者になって『法華経』の仏語訳まで成し遂げた。仏教者になることで彼は神の重圧からすんなり逃れたのだが、スポンヴィル氏は別な道を選んだ。仏教や道教、あるいはその両者の綜合としての禅にはとりわけ親和性を感じながらも、キリスト教圏の歴史と文化を背負って無神論者として生きてきたのである。

 その彼が、神の実在について考察した第二章が私には特に面白かったが、それは読んでのお楽しみにしておこう。

 ただ禅との絡みで特に一点だけ申し上げれば、彼が熱意を込めて語るのは結局「神が実在するかどうか」はわからない、ということであり、その「わからなさ」から一歩進め、「いないと信じる」のが無神論者であり、「いると信じる」のがいわゆる信者ということになる。

 ちなみに禅は「わからない」ことはそのまま放っておくわけだが、そうであるなら無神論者のほうが何かを信じている分だけ情熱的なのかもしれない。

 スポンヴィル氏は、明晰な論理によって宗教が与える希望や信仰を丁寧に拒否していく。そして無神論者としての生き方の中心に、宗教や神とは関係ない「誠実さ」と「共同性」を据える。それが充分に行なわれさえすれば、我々にさまざまな弊害をもたらす宗教はむしろなくとも済むというのである。

 ここで言う宗教とは、当然ユダヤ・キリスト教型の、いわゆる一神教であることは言うまでもない。

 しかしその意味では無神論にちかい日本の仏教徒も、同じように宗教ゆえの思考停止に陥り、スポンヴィル氏の言う「信仰の囚人」になっているのではないだろうか。

 氏は、宗教があまりにも楽観的だと言う。なぜなら我々が根源的に欲望する「不死」「親しかった死者との再会」「正義と平和の最終的な勝利」そして「愛されること」を、いともたやすく保証してくれるではないか。著者はそれが「あまりに話ができすぎていて信じがたい」と言う。フロイトの言う「欲望の表現」ではないかと訝(いぶか)るのである。

 私は仏教徒ではあるが、宗教の一端に関わる者としてそれは自問しなくてはならない問題である。「わからなさ」をそのまま放置する勇気がもてず、フロイトの言う「人間の欲望から派生した思いこみ」に閉じこもってしまうのは誰にでも起こり得ることだ。もしも宗教がそうだとするなら、それはひどく不自由なものになってしまう。

 もしや私も無神論者なのかと思うほど、私は氏の多くの主張に賛同するが、最後に申し上げておきたいのは、彼が二十五、六歳のときにフランス北部の森で体験したことは、明らかに禅的な見性(さとり)に酷似しているということだ。彼は「内入」「脱自」あるいは「ことばなき真理」「自我なき意識」などと表現しているが、それを宗教体験と認識する人々も世の中にはいることを諒解しておいていただきたい。

 無神論者のスポンヴィル氏がじつは宗教的なのか、禅があまりにも無神論的なのか、それはここでは問わないでおこう。とにかく今の日本人には、思考停止に陥った問題について考えるために、信仰のある人にもない人にも強くお勧めしたい一書である。


*「scripta」第14号(2009年12月)より転載


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2010年06月09日

『戦後日本スタディーズ〈3〉8 0・9 0 年代』岩崎稔、上野千鶴子、北田暁大、小森陽一、成田龍一編著(紀伊國屋書店)

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「自分史と重ねて読む『戦後日本スタディーズ』」

                          雨宮処凛(詩人)

 一九七五年生まれの私にとって、八〇年代の記憶はあやふやだ。

 自分の体験としては、校内暴力が下火になった頃に蔓延し始めたいじめのターゲットとなったこと、強制的に動員された受験戦争、とにかく「いい学校、いい大学、いい会社」という唯一の目的に向かって突き進め、というメッセージを常に吹き込まれ、強迫神経症のように勉強し続けた日々、などの記憶がある。

 九〇年に高校生となった私は、当時日本を席巻していたバンドブームの波に巻き込まれるようにヴィジュアル系バンドの追っかけ少女となり、ライヴのたびに家出を繰り返しては路上で過ごした。天皇崩御も湾岸戦争も、バンギャにはまったく関係ない出来事だった。

 時代はバブル。高校生だった私は追っかけ仲間たちと札幌で野宿し、観光客にお金をせびっては五〇〇円とか一〇〇〇円もらって食い繋いだりした。「援助交際」という言葉はまだなかったが、追っかけ仲間の中にはテレクラで売春している子もいた。

 九〇年代前半、そうしてあまり学校に行かなくなっていた私は、「いい学校、いい大学、いい会社」というルートからは完全に外れていた。しかし、漠然と生きていける気がしていた。「フリーター」という言葉は「自由な働き方」という華々しいイメージで語られていたし、世の中は好景気に湧いていた。

 それがまったくの見込み違いだったことは、九〇年代中盤に、気付いた。一九九三年、高校卒業と同時に上京し、美大を二浪した果てにフリーターとなった私は、じわじわと「現実の厳しさ」に気付き始めていた。そして一九九五年、私の世界は激変した。それまで遠かった「社会」が、ものすごい質量を伴って、私の人生を具体的に凌駕し始めたのだ。

 一月に起きた阪神淡路大震災、三月の地下鉄サリン事件。そしてこの年は戦後五〇年でもあった。一瞬で瓦礫の山と化した神戸の街並は、戦後日本の物質的な繁栄の脆さを白日のもとに晒した。その二ヵ月後には地下鉄にサリンがまかれ、自分より少し年上の若者たちが難解な言葉で「世界の終わり」を予言していた。彼らは、私たちが生きる「こっちの世界」を否定しているように感じた。こっちの世界。私にとってのこっちの世界は、時給八〇〇円から九〇〇円の単純労働力として使い捨てられるだけの日々だった。オウム事件を受けて、メディアでは「戦後日本」とやらの価値観や常識や教育が問い直された。阪神淡路大震災は「戦後日本」の物質的な豊かさが崩壊した瞬間であり、その二ヵ月後、それを下支えしていた価値観そのものが崩壊したように見えた。

 「ポストバブル文化論」で、原宏之氏はこう書いている。

 「戦後のモノの豊かさが、『すべて無意味だ』という心理が多くの者に共有された」

 「八〇年代の名残りであった九〇年代前半の『小春日和』はほんとうに終わったのだった。わたしたちは、金融やデジタル通信よりも基礎の段階に、モノがあり、食べて生活するリアリティがあることに気づかざるを得なかった。世界に関わらずに生活することは不可能であった」

 一九九五年。二〇歳だった私の目は、強制的に社会に見開かされた。「世界」に無関係に生きる、というそれまでの「作法」がまったく通用しない世界になってしまったのだ。それも、一瞬で。「戦後日本」の崩壊を肌身でひしひしと感じた。私には九五年のこの国は、まるで焼け野原のように見えた。だからこそ、私は「戦後日本」が生み出し、「戦後日本」的なものを否定しようとしたオウムに近付き、元信者たちと交流を始めた。

 「オウム事件と九〇年代」(遠藤知巳)では、あの時期のどこかとぼけた「オウム騒動」について、非常に興味深い考察がなされている。「全体が嘘くさくなる。オウムの嘘と私たちの現実」「私たちは異様な事件に恐れを抱きながら、しかし明らかに魅惑されていた。オウムについて夢中で語り、いかにもうさんくさい彼らの語りを聞いてしまうとき、具体的な被害者たちのことを念頭からあっさり消去していた。あえていうならば、どこかでオウムを『許して』いたのだ」

 私より少し年上の元オウム信者の男性(一〇年にわたり出家。事件後、脱会)は、こう言ったことがある。

 「オウムが日本で一番スットコドッコイだとわかってたからこそ、入った」。

 スットコドッコイな宗教団体が仕掛けた「戦後日本」への戦争。そして九〇年代後半、震災とオウム事件を経て社会に目を開かされた私は、「不況からナショナリズム」の波に乗って、右翼団体に入りもした。

 自分史と合わせながら、『戦後日本スタディーズ』を読むと、恐ろしいほどに様々なことが「合致」してしまうのだ。


*「scripta」第11号(2009年3月)より転載


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2010年06月08日

『自己評価メソッド――自分とうまくつきあうための心理学』クリストフ・アンドレ著/高野優訳(紀伊國屋書店)

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「我々の問題としての「自己評価」」

                        中村うさぎ(作家)

 フランスで十数万部も売れたベストセラーとは、いかなる本であろうか? 翻訳タイトルは『自己評価メソッド』……そうか、「自己評価」か。それならば、現代日本人の抱える問題と無縁ではない。いや、むしろ我々の問題は、ほとんどこの「自己評価」の問題である、と断言してもよいくらいだ。

 今年の夏、秋葉原の交差点に二十五歳の青年がトラックで突っ込み、通行人を無差別にナイフで殺傷した。世間を震撼させた、いわゆる「秋葉原通り魔事件」である。事件後、容疑者がネットに連綿と綴っていた独白が公表され、話題を呼んだ。「非モテ」「負け組」といった自嘲的なセルフイメージの描写から滲み出る、彼の極端な「自己評価」の低さが痛々しく印象に残った。

 そう、我々の抱える心の問題のほとんどは、「自分自身を許せない」という点にある。「秋葉原通り魔事件」の彼が、たとえ社会的に成功して「勝ち組」の立場を獲得できていたとしても、彼が自分に満足して幸福に暮らせていたかというと、必ずしもそうではなかろう。きっと彼は、己の成功に不安を感じ、日々、何かに脅え、居場所の無さに戦々恐々としながら生きる羽目になっていたに違いない。今の俺は本当の俺じゃない、今の居場所は本来の居場所じゃないと焦燥の念を募らせ、狂騒的な浪費やアルコールに溺れて破滅していく彼の姿を、私は容易に想像できるのである。

 何故なら、彼の問題は、私自身の問題でもあるのだから。私もまた、「私には価値がない。価値ある何者かにならねばならぬ」という心の声に追い立てられ、強迫的な「自分探し」の罠にハマって、破滅的な愚行を繰り返す人生を送ってきた人間だからだ。社会的な成功者という評価を渇望してブランド物を買い漁ってみたり、男から愛されることに固執してホストクラブに通い詰めてみたり、果ては美容整形にデリヘルと、「自己確認」のための迷走こそが私の半生であった。

 このような人間を、本書の著者は「自己評価の低い人間」あるいは「自己評価が高くてもろい人間」と評する。自分の力を信じられないから、何を獲得しても不安で、もっともっと価値ある自分にならなければ、と、己を無謀に駆り立てる。他人の評価を信じられないから、たとえ褒められても居心地が悪く、本心から忠告してくれる人の言葉にも耳を貸さない。かと思えば、他人の批判にたやすく傷つき、攻撃的な態度に出たり、自分の殻に閉じこもったりする。もしも正しい「自己評価」さえできるようになれば、このような人々はちゃんと幸福になることができるのに、と。

 そのとおりである。しかしまぁ、それは我々とて、薄々ながらもわかっているのだ。問題は、その「正しい自己評価」というものをどのように獲得すればいいのか、まったく見当がつかない、という点だ。「ありのままの自分を受け入れろ」だって? それができないから、我々はこんなに苦しんでいるのではないか! 「自分を許せ」だって? それが簡単にできたら、誰もこんな地獄にはハマってないよ!

 こうした疑問に対しても、著者はひとつひとつ、丁寧に答えていく。「ありのままの自分を受け入れる」とは、どういうことなのか。「自分を許す」ために、どのような訓練をしていけばいいのか。我々は結局のところ、何によって「自己確認」をすれば、「正しい自己評価」に到達して、心穏やかに生きていけるのか。それは「存在を認められ、愛されること」だ、と、彼は言う。我々が我々自身を「価値あるもの」と評価できるのは、社会的成功でもなく、富でも権力でもなく、周囲の人間の「承認」と「愛」なのだ、と。ちょっと引用してみよう。

 「人から存在を認められたい」というのは、「称賛されたい」とか「愛されたい」という気持ちとはちがう。
そのふたつに先立つものである。(中略)これがないと私たちの生活は知らないうちに、少しずつ、静かにむしばまれていく。

 この文章に、私は、あの「秋葉原通り魔事件」の容疑者を思い出した。誰からもレスをつけられなくなっても、事件直前までずっと独り言のように書き込みを続けていた、彼の殺伐とした孤独。そして、狂ったように買い物やホストにハマりながらも、自分は誰からも求められていないという想いに苦しみ続けた、かつての自分のことも。

 もし「秋葉原通り魔事件」の容疑者が本書を読んでいたら、彼は救われていただろうか? もしも私がずっと以前にこの本に出会っていたら、私は数多の過ちを犯さずに生きていただろうか? それは、誰にもわからない。ただ、フランスで十数万人に読まれたこの本が、日本の片隅で窒息しながら生きている人々を救う手立てとなるかもしれない、という希望は否定できないだろう。

 世界は静かにむしばまれている。そして、人は密やかに病み続けている。この時代にこの本が刊行されることには、きっと意味があるはずだ。

*「scripta」第10号(2008年12月)より転載


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『アウトサイダー・アートの世界――東と西のアール・ブリュット』はたよしこ編著(紀伊國屋書店)

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「感性と知性のボーダレス」

                 港千尋(写真家・多摩美術大学教授)

 ブリュットというフランス語は、ふつう「自然のままの」「もとのままの」を意味する。たとえば原石、原油や粗糖など、原材料を指すいっぽう、総量、粗利益や総生産など、何も引かない状態の総計という意味でも使われる。第二次大戦後まもなく、フランスの画家ジャン・デュビュッフェは、自らが中心となって集めた作品群を「アール・ブリュット」と呼んだ。作者たちは当時誰ひとりとして、芸術家とは見なされない人物たちだった。そこには「社会生活に不適応」と扱われて孤独な生活を余儀なくされたり、精神病院や監獄といった施設に隔離された人々が含まれていたからであり、彼らの表現はそれがどれほど独創的なものであっても、発表の場所をもつことはなかった。デュビュッフェの呼称が、二〇世紀初めの西欧芸術が世界各地に再発見した「プリミティヴ」な芸術や「シュルレアル」な美学の後だったことは、それから半世紀以上たった今でも意味深い。

 本書はスイス・ローザンヌにある「アール・ブリュット」と日本の「アウトサイダー・アート」の両コレクションによる展覧会に際して出版されたものであり、この驚くべき創造の世界について知るための最良のガイドブックである。まずは図版のページをゆっくりとめくることをお勧めしたい。不思議な顔が、どこか懐かしい風景が、余白を埋めてゆく無数の文字の群れが、わたしたちを未知の大陸へと招いている。どの作品もいちど目にしたら忘れることの難しい、非常に強い個性にあふれるまぎれもない美術作品であるが、それにもかかわらず、わたしたちが知る美術史のいかなる流派にも回収できそうにない。そこに共通しているのは、ほとばしる創造のエネルギーであり、それ以外の何物をも必要としてはいない。理論的な評価も市場での値段も必要としていない、真に独立した表現行為である。

 無為で独立しているということは、これらの作品の強さであると同時に弱点でもある。冒頭に登場する画家アロイーズに始まり、現代日本の作家にいたるまで、生み出された作品が社会に知られる以前に、その大半が廃棄される例は少なくない。ローザンヌのコレクションに衝撃を受けて以来、日本のアール・ブリュットを探索してきた編著者のはたよしこさんは、次のように書いている。

 「……現場ではあわや破棄される寸前という作品に遭遇することもある。そのたびに、すぐれた作品の収集と保存がひとつの価値観を形成し、継承されてゆくことの大切さを痛感する。」

 これはかつて人類学者が博物館をつくるときに感じたことと似ているように見えるが、ある難しさを抱えている。これらの作品は「民族」や「時代」に属しているのとは異なり、まして「団体」や「運動」の流れを汲んでいるわけでもなく、徹底して個人に始まり個人に帰っている。そこに何らかの「主義」を持ち込むと、そのこと自体が作品の生命力を失わせかねない。

 「それにはどんな形態が望ましいのか。私たちは本腰を入れて考えなければならない時期が来ていると思う。それは、福祉分野だ、美術分野だ、と分けて考えるようなことではないのではないか。」

 おそらくデュビュッフェも同じように悩んだであろう。これらの作品に心を揺さぶられるわたしたちもまた、同じ問いを共有せざるをえない。本書に収録されているはたよしこさんによるスイス・ドイツ・オーストリアにおけるアール・ブリュットをめぐる旅や、都築響一さんによる日本のアーティストたちのアトリエ探訪は、作品そのものの秘密だけでなく、彼らの力を社会が共有するために必要なことを考えるための、貴重な報告となっている。
 
 収められている二十人あまりのアーティストの作品に唸り、プロフィールを読み返しながら、創造と自由意思について考え込んでしまう。一歩手前で作品に立ち戻ろうとしても、今度は知性の問題が出てくる。「アウトサイダー」という呼称は必然的に何らかの「境界」を前提としているが、そのひとつは知性についてのものだろう。そこで「知的障害」という言葉が出てくるわけだが、作品とプロフィールを前にすると、誰もが創造行為における「知性」とは何なのかと問い直さざるをえない。

 わたしたちの時代の科学技術先導型で効率至上主義の文明が招いた危機のひとつが、感性と知性の断絶にあることは、ここで繰り返すまでもないだろう。もし、これらのアーティストたちが、何らかの理由でこの断絶を核にもっているような社会に「適合できない」としたら。わたしには彼らの作品群が、別のやり方で感性と知性の再結合を果たそうとしているように見えてくる。どの作品も、それぞれのやり方で、問いを発している。この深い断絶について、つまり文明が負っている障害について、社会はどう対応しているだろうか。同時に、これらの芸術は、それを解くための鍵が、人間の心のなかにまだ隠されているのではないかと、そっと教えているように思う。ブリュットという言葉は、それを暗示している。心の自然について、心の総体について、わたしたちが知らないことはまだまだ多い。そのためにも、できるかぎり作品を継承しなければならないのである。


*「scripta」第9号(2008年9月)より転載


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『自分の体で実験したい――命がけの科学者列伝』L.デンディ& M.ボーリング著/梶山あゆみ訳(紀伊國屋書店)

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「寄生虫学者は「変人」か」

                     藤田紘一郎(感染免疫学者)

 『自分の体で実験したい』は、危険も顧みず、科学のために自分の体で実験した科学者や医学者たちのノンフィクションである。本書の「おわりに」と巻末の年表では、私自身のサナダ虫の実験についても言及している。

 私は一九九六年以来、サナダ虫を二〇年以上お腹に飼っている。初代の「サトミ」ちゃん、二代目「ヒロミ」ちゃんと飼い続けて、最後の「マサミ」ちゃんまで、計五代のサナダ虫を飼い続けた。五代目の「マサミ」ちゃんは残念ながら、昨年の冬死んでしまって、今、私のお腹のなかにはサナダ虫が棲んでいない。そして、私が飼い続けたサナダ虫、正式の名前は「日本海裂頭条虫」というが、このサナダ虫は日本ではほとんど見られなくなっている。

 サナダ虫の寿命は約三年である。日本語で「虫がわく」という言葉があるが、普通では寄生虫が人体内で増えることはない。例えばサナダ虫の親虫は、人の腸のなかに一日約二〇〇万個の卵を産む。しかし、その卵を飲んでもサナダ虫の子供は一匹も生まれてこない。卵が川に流れ込まないと、サナダ虫の感染サイクルがまわらないからだ。

 私の大学の前を神田川が流れている。私が神田川で排便すると、はじめて私の糞便のなかの卵が孵化して、その幼虫が水中を遊泳してミジンコのなかに侵入する。ミジンコの体内に侵入しないと、サナダ虫の幼虫は発育できないのだ。しかし、私が神田川で排便してもサナダ虫の感染はまわらない。神田川にはサケが一匹も遡上してこないからだ。サナダ虫の感染サイクルを完成させるためには、私がわざわざ北海道に行って、石狩川で排便しなければならない。なぜなら、石狩川には、サナダ虫の感染サイクルに必要な「ミジンコ」と「サケ」がいるからだ。

 日本人はとっくの昔から「川で排便すること」をやめてしまった。したがって、日本国内で、日本海裂頭条虫の感染サイクルはまわることはない。まだ、中国北部や極東ロシアではかろうじてサナダ虫の感染が続いているが、それもいずれは絶滅状態になるだろう。

 サナダ虫の話が長くなったが、この話を知っている日本人は滅多にいない。ほとんどの日本人は、医者でさえも、「寄生虫は卵を飲んだら感染する」「体内に入った寄生虫は数を増やす」と思っている。そんなことはないのだ。

 だいたい寄生虫学者は「変人」とよばれる人が多い。寄生虫学者の「宿命」かも知れない。なぜなら、寄生虫の研究では動物実験ができないからだ。例えば、私が飼っていたサナダ虫は人体のなかでしか親虫になれない。ネズミに感染させても発育しないのだ。例え、感染できる寄生虫があったとしても、人とネズミとでは感染状況が全く異なるのである。

 例えば、イヌやネコの寄生虫に「顎口虫(がっこうちゅう)」というのがある。イヌやネコに感染すると、胃のなかで親虫になって、静かにしている。しかし、人体に侵入すると、顎口虫は親虫になれず、幼虫のまま人体を走り廻るので、まるで「コブ」が移動するように見える。眼が好きで、そこに侵入すると、失明を起こしてしまう。したがって、顎口虫の人体での感染状況を知るためには、「人体実験」以外方法はないのである。

 熊本大学の故岡村一郎名誉教授は、わざわざ雷魚から顎口虫の幼虫を取り出し、自らその幼虫を飲み込んで、人体での感染状況を克明に観察した。この時、顎口虫の幼虫が岡村教授の眼球に侵入し、もう少しで失明するところだった。文字通り、「命がけ」の実験だったのである。

 本書は、こうした「変人たち」の偉人伝である。全部で一〇章からなり、古くは一七七〇年代から新しくは一九八九年まで、時代も国もばらばらで、共通するのは、変人たちの「自分の体で実験した」事実である。本書は、実験者の心と行動に光を当てることで、大変ユニークな読み物となっている。内容は、「一〇〇度を越す高温部屋でどれだけ耐えられるか」「パンや肉を袋や木の筒に入れて丸呑みする消化実験」「笑いガスを吸った歯医者たち」「死の病を媒介する蚊が自分の腕を刺すのを待つ男」「夜中、ラジウムが緑青色を発するのを見つめる夫妻」「炭坑や海中で悪い空気を吸い続ける親子」「心臓にはじめてカテーテルを入れた男」「時速一〇〇〇キロのマシーンを急停止させる衝撃に挑む男」「洞窟で四个月を過ごした女性」など、ノーベル賞に値する実験もあれば、単に好奇心を満足させただけの実験もある。見事にうまくいった実験もあるが、失敗をとおして医学の役に立った悲しい事例もある。キュリー夫妻の章は別にして、たぶんはじめて聞く話が多いはずだ。自己実験は一歩間違えば命にかかわる。このような危険を冒してまでする動機は、何であろうか。科学界は、自己実験に対して極めて批判的である。そんな大きなリスクを引き受けてなぜ自己実験を続けたか。このあたりの科学者の心理が見事に描き出されており、梶山あゆみさんの訳文もたいへん読みやすい。


*「scripta」第9号(2008年9月)より転載


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