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2010年05月28日

『大人のための数学シリーズ「数と量の出会い――数学入門」』志賀浩二(紀伊國屋書店)

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「大人のための数学」

                         志賀浩二(数学者)

 本屋に行って数学に関係する本が並んでいる書棚を覗いてみよう。まず学習用の本棚には、小学生の補習に役立つような本があり、中学生、高校生には参考書がたくさん並んでいる。それ以上は数学の専門書のコーナーとなって、特に大学生向けとはうたっていないが、その中のかなりのものは大学生や研究者を対象としている。また専門書以外に、最近は啓蒙書も多く見られるようになった。

 しかしどこにも「大人のための数学」とはっきりかかれている本はないようである。だから私が著わそうとする本のシリーズ名にこのことを明記したことにとまどわれる方もおられるかもしれない。いったい、「大人のための数学」などあるのだろうか、と。

 数学の学問自身はそんなに実用性のあるものではないから、企業や社会で働いている方々が時間をかけて数学を学ばれるような機会はほとんどないだろう。しかし数学という学問の特殊性によるのだろうが、大学を卒業され、だいぶ歳月がたってから、数学に対する郷愁とでもいうべきものを感ぜられる方がかなりおられるようである。 

 そのような人たちがおられることを私自身がはっきりと知るようになったのは、大学も停年を迎えてからのことである。その後、数年間生涯学習で大人の人のために、毎学期、少人数のサークルで一つのテーマにつき一〇回程度講義した経験によっている。ここに出席された方々の中には、かなり年輩の方もおられたし、またお子さんを中学校へ送っておられるお母さん方もおられた。皆さんは、私の話を目を輝かして聞いておられ、いろいろ質問もされ、それがまた数学についての楽しい会話を引き起こすということもたびたびあった。そこには学校の授業のように習い、教える数学ではなく、語り合いながら楽しく学んでいく数学があった。私はそのときだれとも共感でき、それぞれの人の中に取り込まれていくような豊かな数学の世界があることを知った。それは、大人の数学とでもいうべきものだろう。私はそのとき受けた感じを、もっとはっきり取り出し、それを数学という学問を通して表わしてみたいと思った。そしてそれがこのシリーズを書いてみようとする動機となった。

 私自身のことをいえば、私は中学生の頃、ふとしたきっかけで数学にのめりこむようになり、結局、一生数学という学問の中で、人生を歩き続けていくことになった。数学の勉強は年齢とともに深まっていったが、それでもいくつになっても、ごく基本的なことで「ああ、あれはそういうことだったのか」と思うことがしばしばあった。それは林の小道を歩きながら、木洩れ日の光の明るさに驚くようなことだったのかもしれない。

 ここまで書いて、私が歩いた数学の道のことなどぼんやり思っていると、ふと、昔読んだ北原白秋の「からまつ」という詩を思い出した。その詩の三節、四節、六節をここにかいてみよう。

 からまつの林の奥も
 わが通る道はありけり。
 霧雨のかかる道なり。
 山風のかよう道なり。

 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆえしらず歩みひそめつ。
 からまつはさびしかりけり。
 からまつとささやきにけり。
 からまつの林を出でて、
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 からまつのまたその上に。

 数学者の中には、音楽や文学に親しむ人も多いようである。ピアノの演奏に耳を傾けたり、「徒然草」などを開いて、そこに仕事や人生への想いを重ねるのは、大人の人の隠れたたのしみであり、幸せのひとときをつくるのだろう。数学が本当に味わえるのも、やはりある程度年齢を重ねてからのことなのかもしれない。十九世紀半ばの大数学者ワイエルシュトラウスは「数学者は詩人でなければならない」といったという。この言葉は数学者にはよくわかる言葉なのである。

 このシリーズ全体を通して流れる基調ともいうべき大きなテーマは無限である。数学という学問は、二五〇〇年前、宇宙の調和を数の調和として捉えたピタゴラスによって創られたが、その後、この学問の奥から聞こえてくる無限の旋律は静かに流れ続けていた。近世数学のはじまりとなった微分積分は、この調べを数学の基音としてはっきり捉えたのである。そしてさらに二十世紀数学は、この無限の中に数学を置き、大きなドラマを創った。それは多分大人の人たちが十分楽しくまた深く味わうことのできる数学の世界だと思っている。シリーズでは、この世界を示してみたい。


シリーズ「大人のための数学」
第1巻『数と量の出会い――――数学入門
第2巻『変化する世界をとらえる――微分の考え、積分の見方
第3巻『無限への飛翔――集合論の誕生
第4巻『広い世界へ向けて―――解析学の展開
第5巻『抽象への憧れ――位相空間:20 世紀数学のパラダイム
第6巻『無限をつつみこむ量――――ルベーグの独創
第7巻『線形という構造へ―――次元を超えて


*「scripta」第4号(2007年9月)より転載


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