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2010年05月31日

『経済は感情で動く――はじめての行動経済学』マッテオ・モッテルリーニ著、泉典子訳 (紀伊國屋書店)

経済は感情で動く――はじめての行動経済学 →bookwebで購入

「経済は「勘定」で動く?」

                       勝間和代(経済評論家)

 伝統的な経済学は、「合理的経済人」を前提としている。すなわち、常に情報を正確に収集し、判断ミスなく、感情のぶれなく、自分の損得を正しく計算し、答えを出す、『スタートレック』に出てくるミスター・スポックのような人物を想定しているのである。つまり、「経済は勘定で動く」と考えているのである。

 ところが、私たちを顧みると、こんな合理的な経済人とはほど遠いのは明らか。多くの人が翌日苦しむとわかっていても深酒をしてしまうし、たばこだって健康に悪いとわかっていても吸ってしまう、明日からダイエットしようといって今日はケーキを食べ、自分が損をするとわかっていても他人への嫉妬から足を引っ張ってしまう、無料キャンペーンにはまんまとひっかかり、簡単な算数だって、年中間違えてしまう。

 そんな私たちが「なぜ、合理的に動けないのか」「どんなときに間違ってしまうのか」「それはなぜか」「そして、現在の経済学ではどこまでその仕組みが解き明かせているのか」を示すのがこの本である。すなわち、「経済は感情で動く」のである。

 この本の前半は行動経済学、後半は神経経済学を中心としたクイズ、エッセイ、統計、論文などの紹介で、これまで行動経済学や神経経済学の本をだいたい読んできている私にも、新しい発見があったり、最新の研究成果がわかりやすく述べられていて、これまで行動経済学や神経経済学にまったく触れたことのない人から、相当マニアックな人(=例えば私)まで、幅広くカバーできていることが特徴になる。

 パート1では、「日常のなかの非合理」ということで行動経済学の成果を中心に、保有効果(もったものに愛着を感じて、なかなか手放せないこと)、アンカリング効果(与えられた数字や条件に考え方が無意識に縛られること)、ヒューリスティクス(ものごとを判断する際に人間が簡易的に行う方法だが、思わぬ間違いを犯すこともある)、プロスペクト理論(人が時として行いがちな、経済合理性から考えると非合理な判断について説明する理論)など、ごくごく基本的な知識を一通り押さえている。

 この部分はすでに知っている人には多少まどろっこしいかもしれないが、ここまでわかりやすく事例を集め、コンパクトにまとめた書籍は記憶にない。また、知らない人にとっては「これを知らないと世間で悪意のある広告や詐欺的行為にだまされてしまう」という必須の知恵であり、パート1をマスターするだけでも、感情的な判断から勘定的な判断に移行できるだろう。広告を見ると、「あ、この効果を利用しているのか」「こちらはこの理論の応用だ」ということで、さまざまなところにしかけられているテクニックを見抜けるようになる。あるいは、自分で企画や商品、広告を作る立場であったら、こういう知恵を生かせばいいのだ。

 パート2では、「自分自身を知れ」ということで数字の話を中心に、リスクや認知、直感的な計算と統計的な計算の違いなどについて、わかりやすくまとめている。私が特にこのパートで目を引いたのは、ブラッド・バーバーとテランス・オディーンの「株の売り買いがはげしい人ほど成績が悪い」という研究成果をしっかり紹介していることだ。私はこの研究成果を行動経済学のワークショップでオディーン自身からプレゼンテーションを受け、非常に興味深く感じ、書籍や連載などで紹介してきたのだが、この本の中では、なぜそうなるかという理由をていねいに三ページ近くを費やして説明している。

 パート3では、「判断するのは感情か理性か」ということで、神経経済学の入門的な扱いになっている。パート1やパート2に比べてクイズも少なく、多少読みづらくなるが、その分、これまでの本では網羅されてこなかった最新の情報とさまざまな事例を使って、脳の動きを示しており、私にはもっとも読み応えがあるパートだった。例えば、伝統的な経済学では、被験者があるゲームを行っているとき、相手に裏切られると自分の利益を犠牲にしてまで相手に復讐することを好む人が多いのはなぜかについて、説明ができない。しかし、神経経済学ではポジトロン断層撮影(PET)を使って、脳が相手を罰することについて喜びを見いだしており、そのコストに快感が見合うと考えているためということを脳の血流の流れから示した。そう、「勘定」から見たときには合理的でない行動であっても、「感情」から見れば、実は合理的な行動だったのだ。
 
 結局、私たちの判断は本書で「システム1」と呼ばれる直感と、「システム2」と呼ばれる理性のバランスからきている。システム1を使うことは、スピーディーでわかりやすい。一方、システム2はゆっくりと順序を踏み、規則正しく行われる。どちらも相互的に関与し、重要な能力である。しかし、しばしばシステム1はエラーを犯す。そして、そのエラーは時には、私たちの判断力を歪ませ、結果として私たちに損をさせてしまう。しかし、このエラーは訓練次第で防ぐことができるものであり、上手に「勘定」と「感情」のバランスを取る方法があることをこの本は教えてくれる。最後になるが、難しい内容であるにもかかわらず訳は非常に読みやすく、翻訳の泉典子氏の貢献に感謝したい。


*「scripta」第8号(2008年6月)より転載


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2010年05月28日

『流線形シンドローム――速度と身体の文化誌』原克(紀伊國屋書店)

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「現代、それは科学神話の時代――『流線形シンドローム』の背景」

                       原克(早稲田大学教授)

 科学雑誌を読んでいる。米国・ドイツ・日本の、過去百年にわたるものだ。膨大な数にのぼる。おかげですっかり視力が落ちた。

 科学の進歩とは脱迷信あるいは脱宗教のことである。一般にはそう考えがちだ。確かに、そうした側面もある。しかし同時に、科学情報それ自体が「現代の神話」や「現代の迷信」として作用してしまう。そんな事態が起こるのだ。アインシュタインの光量子仮説は、本来純然たる理論であった。ところが、先進性や利便性といった、市民社会の欲望や比喩と接合して語られた瞬間、現代の神話になったのである。実際、二〇世紀初頭の一般大衆は、メディアを通じて光量子仮説を知るや、それ以降、光エネルギーが電気エネルギーに変換するという物理現象を、未来志向の文脈から外してイメージすることが困難になってしまった。それは肯定的にみれば、想像力の喚起ということにつながるかもしれないが、批判的にみれば、イメージをある特定の方向にリードすることとも言える。 ロラン・バルトによれば、神話というものは、語られる内容によって決まるのではない。それを語る「語り口」によって決まる。どんな内容であれ、それをメッセージとして発信するやりかたが、神話的か神話的でないかという別があるにすぎない。神話は形式であって内容ではないのだ。バルトの言うとおりだとすれば、現代科学も神話的に語られうるのであり、つまりは神話になりうるのである。

 科学は現代の神話として作用する。この点に関して科学ジャーナリズム、なかでも「ポピュラー系科学雑誌」が果たした役割は大きい。専門家集団むけの研究論文とはちがい、科学知識をひろく一般大衆に伝えることを目的とした情報ツールだからだ。特徴はその「語り口」にある。最先端の知識を正確におさえつつも、エピソードを添えるなど、一般読者の受容傾向にたいする配慮がなされている。「分かりやすく書く」(Written so you canunderstand it)。つまり、その時代の関心や知的水準、嗜好や欲望を敏感にかぎわける嗅覚がはたらいているのだ。そして、ほかならぬ「語り口」へのこうした配慮こそが、時代の欲望をあぶりだす触媒の役割を果たすことになる。米国では『サイエンティフィック・アメリカン』(一八四五年創刊)、『ポピュラー・サイエンス』(一八七二年)他、ドイツでは『科学技術総覧』(一八九六年)、『知識と進歩』(一九二六年)他、日本では『科学知識』(一九二一年)、『科学画報』(一九二三年)等々、ポピュラー系科学雑誌は二〇世紀をつうじて、人びとに最新の科学情報を「分かりやすい語り口」で伝え続けた。ポピュラーサイエンス、それは科学神話の生産システムである。科学の時代でもあり、大衆の時代でもある二〇世紀を多面的にとらえるには、またとない重要な歴史資料である。

 こうした科学雑誌を渉猟するうちに気付いた。ある時代、「流線形」を扱う記事が非常に多いのである。とりわけ一九三〇年代初頭から一九四〇年代末まで、その数はうなぎ上りだった。これは目を惹いた。それだけではなかった。しかも、よく読むと不思議な記事が少なくないのである。一見、流線形とはなんの関係もなさそうな物まで、「流線形」と称している記事が目立ったのだ。例えば、「流線形ミルクボトル」や「流線形アイロン」。中には「流線形警察」や「流線形採用試験」などというものまであった。いずれも、空気抵抗や流体力学とは無縁なものばかりだ。それなのに「流線形」とある。不思議に思った。そして、不思議の正体を知りたいと思った。

 この疑問に対する答えが、今回の『流線形シンドローム』である。一言でいえば、本来物理学のものだった流線形という専門用語が、大衆化してゆくなかで科学神話になってゆくプロセスを分析したものだ。乱気流や不完全真空といった、「流体力学的な障害因子を合理的に排除する手立て」であった流線形が、いつしか「なんらかの障害因子を合理的に排除する手立て」の換喩になってゆく。浮かび上がってきたのは、こうした変容プロセスであった。この変容は、一見修辞学的現象にすぎないように思われる。しかし、その焦点深度は意外に深かった。単に比喩表現の拡大では済まなかったのである。それは、あるときには人間の身体性を刈り込み、あるときには精神性の基本構造を毀損し、あるときには生命を抹殺するシステムへと帰結していった。キーワードは優生学、人種差別、理想の体型、安楽死、記号の浮遊、内実の喪失。すべて二〇世紀大衆社会の根幹に関わるものばかりだった。そして最大の問題は、今日私たちがいまだにその神話圏から脱することが出来ないでいることである。

 これまで『モノの都市論』『ポピュラーサイエンスの時代』『暮らしのテクノロジー』『ポップ科学大画報』等を通じて、二〇世紀の科学神話圏のメカニズムをあぶり出してきた。今回の『流線形シンドローム』も、その一翼を担うものである。目標は科学神話の全貌を明らかにすることだ。まだ道半ばである。次作に向けて、今日も視力を落とし続けている。


*「scripta」第7号(2008年3月)より転載


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『大人のための数学シリーズ「数と量の出会い――数学入門」』志賀浩二(紀伊國屋書店)

大人のための数学シリーズ「数と量の出会い――数学入門」 →bookwebで購入

「大人のための数学」

                         志賀浩二(数学者)

 本屋に行って数学に関係する本が並んでいる書棚を覗いてみよう。まず学習用の本棚には、小学生の補習に役立つような本があり、中学生、高校生には参考書がたくさん並んでいる。それ以上は数学の専門書のコーナーとなって、特に大学生向けとはうたっていないが、その中のかなりのものは大学生や研究者を対象としている。また専門書以外に、最近は啓蒙書も多く見られるようになった。

 しかしどこにも「大人のための数学」とはっきりかかれている本はないようである。だから私が著わそうとする本のシリーズ名にこのことを明記したことにとまどわれる方もおられるかもしれない。いったい、「大人のための数学」などあるのだろうか、と。

 数学の学問自身はそんなに実用性のあるものではないから、企業や社会で働いている方々が時間をかけて数学を学ばれるような機会はほとんどないだろう。しかし数学という学問の特殊性によるのだろうが、大学を卒業され、だいぶ歳月がたってから、数学に対する郷愁とでもいうべきものを感ぜられる方がかなりおられるようである。 

 そのような人たちがおられることを私自身がはっきりと知るようになったのは、大学も停年を迎えてからのことである。その後、数年間生涯学習で大人の人のために、毎学期、少人数のサークルで一つのテーマにつき一〇回程度講義した経験によっている。ここに出席された方々の中には、かなり年輩の方もおられたし、またお子さんを中学校へ送っておられるお母さん方もおられた。皆さんは、私の話を目を輝かして聞いておられ、いろいろ質問もされ、それがまた数学についての楽しい会話を引き起こすということもたびたびあった。そこには学校の授業のように習い、教える数学ではなく、語り合いながら楽しく学んでいく数学があった。私はそのときだれとも共感でき、それぞれの人の中に取り込まれていくような豊かな数学の世界があることを知った。それは、大人の数学とでもいうべきものだろう。私はそのとき受けた感じを、もっとはっきり取り出し、それを数学という学問を通して表わしてみたいと思った。そしてそれがこのシリーズを書いてみようとする動機となった。

 私自身のことをいえば、私は中学生の頃、ふとしたきっかけで数学にのめりこむようになり、結局、一生数学という学問の中で、人生を歩き続けていくことになった。数学の勉強は年齢とともに深まっていったが、それでもいくつになっても、ごく基本的なことで「ああ、あれはそういうことだったのか」と思うことがしばしばあった。それは林の小道を歩きながら、木洩れ日の光の明るさに驚くようなことだったのかもしれない。

 ここまで書いて、私が歩いた数学の道のことなどぼんやり思っていると、ふと、昔読んだ北原白秋の「からまつ」という詩を思い出した。その詩の三節、四節、六節をここにかいてみよう。

 からまつの林の奥も
 わが通る道はありけり。
 霧雨のかかる道なり。
 山風のかよう道なり。

 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆえしらず歩みひそめつ。
 からまつはさびしかりけり。
 からまつとささやきにけり。
 からまつの林を出でて、
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 からまつのまたその上に。

 数学者の中には、音楽や文学に親しむ人も多いようである。ピアノの演奏に耳を傾けたり、「徒然草」などを開いて、そこに仕事や人生への想いを重ねるのは、大人の人の隠れたたのしみであり、幸せのひとときをつくるのだろう。数学が本当に味わえるのも、やはりある程度年齢を重ねてからのことなのかもしれない。十九世紀半ばの大数学者ワイエルシュトラウスは「数学者は詩人でなければならない」といったという。この言葉は数学者にはよくわかる言葉なのである。

 このシリーズ全体を通して流れる基調ともいうべき大きなテーマは無限である。数学という学問は、二五〇〇年前、宇宙の調和を数の調和として捉えたピタゴラスによって創られたが、その後、この学問の奥から聞こえてくる無限の旋律は静かに流れ続けていた。近世数学のはじまりとなった微分積分は、この調べを数学の基音としてはっきり捉えたのである。そしてさらに二十世紀数学は、この無限の中に数学を置き、大きなドラマを創った。それは多分大人の人たちが十分楽しくまた深く味わうことのできる数学の世界だと思っている。シリーズでは、この世界を示してみたい。


シリーズ「大人のための数学」
第1巻『数と量の出会い――――数学入門
第2巻『変化する世界をとらえる――微分の考え、積分の見方
第3巻『無限への飛翔――集合論の誕生
第4巻『広い世界へ向けて―――解析学の展開
第5巻『抽象への憧れ――位相空間:20 世紀数学のパラダイム
第6巻『無限をつつみこむ量――――ルベーグの独創
第7巻『線形という構造へ―――次元を超えて


*「scripta」第4号(2007年9月)より転載


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