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2009年08月17日

『サイード自身が語るサイード』エドワ-ド・W.サイ-ド & テリク・アリ-/大橋洋一 訳(岩波書店)

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                    大橋洋一(東京大学教授=訳者)

 べつにしめしあわせたわけではないのだが、佐藤真監督の映画『エドワード・サイード OUT OF PLACE』が上映され た二〇〇六年に、そのDVDを販売することになった同じ紀伊國屋書店から、サイードへのインタヴューを翻訳上梓することになった。そこで自分の翻訳『サイード自身が語るサイード』が、映画・DVDと、どのような関係をつむぎ出せるか、サイード的比喩でいえば、どのような対位法的関係が成立するか考えてみた。

 サイードの生前の映像を使わず、サイードの人生とともにあった世界を辿るロードムーヴィーの部分と、家族をはじめとするサイードに連なる人びとのインタヴューによって構成される映画は、対象そのものではなく対象に関係するものを通して対象を立ち上がらせ再構成するという歴史実証的なスタンスによって際立っている。

 生前の動くサイードの姿を見せない手法は、サイードの不在と死を視る者に実感させることになるが、同時にサイードがカメラそのものと化して故郷や自身に連なる人の姿をつぶさに見て回る、そんな錯覚にとらわれもする。カメラはサイードの亡霊の眼差しかもしれない、と。あるいはアウト・オヴ・プレイスな、帰属する場所をもたない故国喪失者の眼差しをカメラは体現している、と。サイードはもはや存在しない。だがサイードはわたしたちとともにある。これが映画の奇跡なのかもしれないと思う。

 いっぽう『サイード自身が語るサイード』は、一九九四年にイギリスのチャンネル4で放送されたインタヴューの未編集のスクリプトの翻訳である。映像は見つかっていないか、一般に公開されていないので、これが言語によるライヴ映像といえるかもしれない。

 白血病の宣告を受け、治療が始まっているそんな時期に、盟友タリク・アリが英国からやってくる。サイードはこの友人を相手に、自身の幼少年時代、家族のこと、音楽から文学、湾岸戦争、パレスチナ状況といった多岐にわたる話題について倦むことなく語り続ける。映画がサイードの不在から出発しているとすれば、こちらは生きた声を響かせている。力強く――私自身、この時期、病気にもかかわらず壮健なサイードに会っている。

 しかし映画とこの翻訳の間にある死と生との対比関係は見せかけにすぎない。白血病の話で始まるこのインタヴューは、死んだ父親や母親への回想で閉じられる。避けられぬ死をいよいよ覚悟したサイードが、そのなかで人生を総括し未来に残すべきものを模索し始める。ここには死が色濃く影を落としている。映画とこの翻訳、どちらも死の通奏低音を二様に響かせているのだ。たとえ、この翻訳から暗さは微塵も感じ取れないとしても。

 このタイムカプセルのようなインタヴューをなぜ翻訳したのかというと、もちろんその内容自体が、現代のグローバルな文化とサイード自身の思想に対する良きガイドになってくれるからだが、同時に、特異な境遇を背負い故郷喪失者としての人生を全うしたひとりの人物の、たとえセンセーショナルな生々しさではないとしても、その存在を提示することで、どこまでも世俗的な一知識人の姿を残したかったからである。

 列聖――欧米系でいうと、例えば有名なところでは、サルトルによる『聖ジュネ』がある。昨年急逝された村山敏勝氏が翻訳されたD・ハルプリン著『聖フーコー』(太田出版)という本もある。テリー・イーグルトンは『聖オスカー』(未訳)というオスカー・ワイルドを主人公にした戯曲を書いた。いずれも文化英雄たちを殉教者と捉えるものだが、その発想でいけばエドワード・サイードほど「聖人」にふさわしい人物はいない。権力に対し真実を語り、常に弱い立場の側に立ち、パレスチナ解放を訴え、他者との共存を説き続けた平和思想家であり複数の文化の理解者であるサイードほど、聖人たるにふさわしい人物はいない。

 だが同時に、サイードほど、聖人が似つかわしくない人物もいない(アラブ系だからではない。サイードはプロテスタントである)。世俗を超越するのではなく、世俗にまみれること、西欧と東洋とを混淆させた文化と思想を持ち、パレスチナ人であると同時にアメリカ人でもあるという二重性やハイブリッド性を誇示し、スポーツを愛し、着るものにこだわるダンディでもあること、純粋さから遠ざかること、不純と混淆こそが理想であることを、また逆に純粋性が狂信化にむかう危険性、こうしたことを説き続けたのがサイードであったのだから。

 聖化ではなく世俗化。映画がサイードの生き様を、具体的な名と場所をもつ空間に定位し世界化したとするなら、この翻訳は、サイードが聖人ではなく世俗の人生をもつ死せる存在であることを印象づける。その意味でこの翻訳は、映画とは別の手段でサイードに対する世界=世俗化を継続しているのである――対位法的に。


*「scripta」第3号(2007年3月)より転載



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