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2009年01月15日

『発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』綾屋 紗月、熊谷 晋一郎(医学書院)

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私は精神科医だが、発達障害に関する知識は、ほぼ文献的なものに限られている。そういう「門外漢」として言うのだが、この領域の当事者本はきわめて「面白い」ものが多い。それらはしばしば、専門家による臨床的記述をはるかに凌駕する。

綾屋氏と熊谷氏の共著である本書もまた、まず「面白い本」という角度から読むことをお勧めしたい。面白さという点から言えば、このジャンルでは永らく古典とされていたドナ・ウィリアムズ『自閉症だった私へ』(新潮社)に匹敵する、と言っても過言ではない。
 それでは、なにがそんなに「面白い」のか。

本書を読みはじめて、まず意表を突かれるのは、綾屋さんの抱える困難が、心理ではなく身体的なものとして描かれている点だ。私はここで、ドナ・ウィリアムズの「自分が自分であることに対して、体ほど大きな保証はない」という言葉を連想した。しかし綾屋さんの記述は、ドナよりもはるかに詳細である。

アスペルガー障害のひとたちは、しばしば〈私たち〉にとって自明と思われる認識や行動が不得手だ。たとえば綾屋さんは、じぶんの空腹感や気温の高低や、疲労感をうまく感じたり、適切に対処したりすることができないのだという。なぜだろうか。
 彼女によれば、それは「大量の身体感覚を絞り込み、あるひとつの〈身体の自己紹介〉をまとめあげる」作業に、人よりも時間がかかるためらしい。この障害を持つひとたちが、過敏でありながら時に鈍感にみえることがあるのは、このためなのだ。
 
例えば、長く食事をしないでいると、「ボーっとする」「動けない」「血の気が失せる」「頭が重い」「胃のあたりがへこむ」といった、バラバラの感覚情報が彼女を襲う。しかしこれらの感覚は、彼女の中で、ひとまとまりの「空腹感」を構成しないのである。
 
しかし、そのままにしておけば、低血糖で倒れかねない。それゆえ彼女は、「一定の時間になったら上司に断ってソバ屋でソバを食べてまた戻って仕事をする」という行動パターンを自分の中に登録しておき、必要に応じてそのパターンを呼び出すというルールを設けて対処している。
 もちろん、いつもそれでうまくいくとは限らない。わずかでも予想外の事態が起こると、このパターンはすぐに混乱してしまうからだ。空腹の例で言えば、もしソバ屋でソバが売り切れだったり、別の選択肢を勧められたりすると、彼女は容易に混乱に陥り、時にはパニックになりかねないのだという。

綾屋さんの抱えている困難は、人工知能研究で言う「フレーム問題」に良く似ている。これは、ある結果を出すための行動を求められたコンピュータが、その結果に至りうるまでの、無限の行動の選択肢をすべて考慮しようとしてフリーズしてしまう、という困難を意味している。
 〈私たち〉は、ほとんど無意識に、じぶんがおかれた状況の文脈を理解し、その都度一定のフレーム(枠組み)の内部で選択を行うため、こうした混乱をまぬがれている。綾屋さんが言う「身体内外からの情報を絞り込み、意味や行動にまとめあげる」とは、まさにこうしたフレームを作り上げる過程を意味するのだろう。
 
フレームが作れない困難は、〈私たち〉の想像を絶している。その意味では本書を、「共感的」に読むことは難しい。しかし、「もし〈私たち〉がフレーム問題に直面したらどうなるか」という思考実験として読むなら、本書ほど刺激的な本も少ないだろう。


自明とされることを徹底的に懐疑するところから哲学がはじまるとすれば、本書が投げかけるのはすぐれて哲学的な問いでもある。私はかつて、ドナ・ウィリアムズの著書の感想として「哲学的障害」という言葉を記したことがある。〈彼ら〉の言葉には、〈私たち〉の知覚や認識、あるいは感情や行動が、どのようにして成立しているかを解きあかすヒントが数多く含まれているからだ。


本書をさらに読み進めれば、この障害をもつ人たちを「自閉」的と形容することが果たして適切か、という疑問すら湧き起こってくる。それというのも、綾屋さんの記述を読む限り、〈彼ら〉はあまりにも「他者」に対して開かれているがために自閉的に見えているだけなのではないか、としか思えないからだ。
 綾屋さんにとっての「他者」とは、自分に「侵入」してきては、ひとまとまりの自己像を容易に混乱させてしまう存在である。「他者」は「所作」「まなざし」「キャラ」として彼女に侵入し、ときに彼女を乗っ取ってしまいかねない。もっとも、こうした過剰な同一化能力をうまく活かせれば、誰かのキャラを取り込むことで、社交をスムーズにこなすことも可能だ(ドナ・ウィリアムズの本にも、こうした多重人格性の記述がある)。しかしそれは相当の苦痛を伴うものであるらしい。


「他者は地獄だ」とサルトルは言ったが、まさに真の他者との関わりは、「侵入」されるか「取り込む」かを迫られる「地獄」なのだ。その意味で〈私たち〉の他者との関わりは、ある種の鈍感さや錯覚の「賜物」なのかもしれない。
 
しかし本書は、単に困難を提示しておしまい、という本ではない。綾屋さんはみずからの困難を克服すべく、「手話」に注目する。「ろう文化」によるアシストが、彼女のコミュニケーションを助けるくだりは、本書の白眉とも言える部分だ。とりわけ「手話歌」を知ることで、感情を持ったキャラを獲得していく過程は感動的ですらある。


個人的には、次のくだりにはまさに膝を打つ思いがした。
 

音声に手話がついて、『両方を同時に』表されたとき、不思議にも、情報が増えているのに感覚飽和にならず、急速な意味理解へとつながる。

 
おそらくここには、発達障害児の療育上の重要なヒントが示されている。複数のコミュニケーション・スタイルで、一つのメッセージを伝えようとすること。ここにはひょっとすると、「フレーム問題」を突破する契機すらも含まれているのではないか。


綾屋さんは、「植物や空や月」となら、つながれるという。しかし「ヒトの集団」には決してつながれない、というあきらめも抱いている。だからせめて、「楽しそうな笑顔の群れを見て、つながっている気分のおすそわけをいただく」にとどめている。
 それだけに綾屋さんの「人はやはり、だれかとつながってこそ人なのだと思う」という言葉は重い。そう、〈彼ら〉と〈私たち〉との間に、決定的な隔たりなど存在しないのだ。本書を読むことで、間違いなく〈あなた〉にとっての「障害者」というフレームは更新されるだろう。それは同時に、〈他者〉の敷居が、少しだけ下がる経験でもあるはずだ。


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