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2007年05月16日

『ひきこもりの国』マイケル・ジーレンジガー著、河野純治訳(光文社)

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自分が取材を受けた本の書評は書きづらいものだ。まして、そのテーマが私自身の専門と重なっている場合は。

本書の原題「遮られた太陽 Shutting Out the Sun」は、天の岩戸に隠れた天照大神のエピソードを連想させるが、テーマはむしろ邦題に示されている。著者は日本に特有の「ひきこもり」という奇妙な現象に注目し、終始「ひきこもり」の隠喩によって日本社会の病理を語ろうとするのだ。

東宮御所にひきこもる雅子妃も、凋落する日本経済と停滞する政治も、異常なブランド崇拝やオタクの存在も、上昇する自殺率も、国際的孤立も、みな病根は「ひきこもり」と同じ。「セルフ・エスティーム」の感覚を欠き、他者を閉め出し、ひとと違うことをタブーとして異常なまでに均質であることを志向する日本人の国民性によるのだという。

この種の視点は、それほど珍しいものではない。むしろ欧米的視点から「ひきこもり」という特異な現象を眺めるならば、このような結論になるであろうことは十分に予想できる。ただし、この種の読み物が陥りがちな「過度な一般化」については、いくぶん割り引いて読む必要があるだろう。

「ひきこもり」を日本固有とする断定(韓国、イタリア、イギリスなどからも報告がある)、アニメやゲームなど日本のサブカルチャーに対するありふれた偏見、韓国の経済成長の主因をキリスト教の影響とみなす過度の単純化(韓国の集団主義といじめはしばしば日本以上である)など、看過しがたい誤解もある。

そう、私自身は、「ひきこもり」を日本人論と重ねることにかなり慎重である。むしろ、一定の条件が揃えば、どの国でも起こりうる事態と考えている。それゆえ、この問題について海外のジャーナリストに説明する場合、私は次のように説明することが多い。

「どんな社会にも、適応できずにドロップアウトする若者は存在する。欧米の場合、彼らは居場所を失ってヤングホームレスになる。日本においては若年のホームレスはそれほど大きな問題ではないが、それは不適応の若者をひきこもりとして家族が支えてくれるからだ。家族が彼らを家から追い出さないのは、親子のつながりを重く見る儒教文化の名残りでもある」と。この解説は比較的理解されやすいようだ。

本書の取材は基本的に公正かつ綿密になされており、西欧世界にむけた日本紹介書としては、かなりバランスはとれている。事例に対する虫瞰的視点と文化を論ずる鳥瞰的視点との往還ぶりは鮮やかで、まるでノンフィクションの教科書のようだ。著者はひきこもりの当事者を直接には批判せず、病める日本社会の犠牲者とみなす。本書を読みつつ覚える不安や不快感のかなりの部分は、著者の指摘が正鵠を射ているためとも考えられる。

では、どうすれば良いのか。母国であるアメリカが体現する個人主義とグローバル化も、さまざまな病弊をもたらしたことを筆者は率直に認める。むしろ著者は、変化へのヒントを韓国社会に求めようとする。この点が本書の最大の特徴である。

いくぶんの曖昧さを持って、筆者が最終的に示す解決策は「寛容」「多様性」「信頼」の実現であるという。この点にはまったく異存はない。それは日本のみならず、あらゆる国が目指すべき目標であり、「ひきこもり」の解決もまた、われわれの寛容さにかかっているという点も含めて。

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