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2010年04月14日

『青い野を歩く』クレア・キーガン(白水社)

青い野を歩く →bookwebで購入

「寒い日に読みたい憂愁のアイルランド・バラッド短篇集」

 読むだけでこれが北の国であることがわかる。色彩はそう豊かではなく、干し草やナナカマドなど南ではあまり見られない植物が風景の中によく出てくる。装丁の風景が静かなように、小説も静かだった。冬に読んだのが良かった。この寒い時期とアイルランドの風土がマッチしていて通勤時間が豊かになった。

 憂愁のアイリッシュ・バラード短篇集。アイルランドの作家はフランク・オコナー、ジョイス、マグガハン、トレヴァーなどを読んだが、どれも憂愁漂う作品だったように思う。この物語もどこか憂愁漂う孤独な物語が多いのだけれど、最後の最後で毎回救われる気持ちになる。特に表題作「青い野を歩く」のラストシーンは秀逸。

神はどこにいるのか、と彼は問うた。今夜、神はその問いに答える。あたりの空気は、野生のアカスグリの茂みの独特の香りに満ちている。一頭の子羊が深い眠りから目覚め、青い野を横切る。頭上では、星が転がって位置におさまる。神は、この自然だ。(P.50)

 ここでも静かな北の風景が見える。子羊が青い野を横切る。青い野というのがまた良い。夜明けが来て子羊が横切り、神父が救われ、読者も救われる気持ちになる。
それが削ぎ落としたような簡潔な文体で作られている。解説にもあるが、書かれているものよりも書かれていないものが行間から浮かび上がってくる。登場人物は決して多くは語らないのだが、ある瞬間に堰を切ったように過去や思いを語り始める。沈黙があるからこそ、その思いが強く印象づけられるのだろう。「青い野を歩く」でこういう場面がある。

彼女は、語りつくしてはじめて、人は自分を知ることができると言った。会話の目的は、ひとつには、自分はすでになにを知っているのかを発見することにある。(P.48)

 黙っていても己を知ることができないということ。キーガンにとって書くというのは己を知るための読者との会話なのかなと思った。ならば読者は気合いを入れなければ。言葉が少ない中でこんなことを言われると、そうだなあと思ってしまう。
ところどころでキーガン本人が垣間見えるときがある。小説は虚構のものだが、そこにキーガンが実際に見たであろう瞬間を見つける楽しみがこの小説にはあると思う。美しい描写を探すのも良い。ほとんどがそれだ。けれど、くだらないというか、この場面を抜かしても小説として成り立つのだけれど、この場面は見てないと体験してないと書けないのではないかと思える場面がいくつかある。そこにキーガンの素があるのでは。

彼女は帽子を脱ぐが、どこに置けばいいかわからなくて、また頭にかぶる。(P.29)
体をかがめて探すと、フライドポテトと卵が二個載った大きなほうろうの皿が、オーブンのなかで干からびていた。(P.92)
若者はサーモンの身を骨からほんの少しはがす。(P.146)

 細かいところまで行き届いたキーガンの眼には脱帽。蛇足と感じられないのは語りの妙だと思う。こういう箇所がキーガンの素を垣間見る瞬間じゃないかなと思った。こういう箇所が出てくると、こっちも無防備になりキーガンとの会話がぐいぐい進んでいくような気がした。

 ベスト短篇は「波打ち際」。人生の波打ち際という話である。青年の祖母は若い頃に「どうしても海が見たい」と冷酷無比な祖父に頼む。そこで一時間で戻ってこなければ祖父は先に車で帰るという。祖母は祖父に置き去りにされそうになりながら、どうにか車に乗り込んで、自分を置き去りにしようとした男と一生添い遂げることになる。それが人生の波打ち際だったのだ、と祖母は青年に語る。短篇としてびしっと決めてきやがった。そして、青年も今、人生の分岐点に身を置いている。

 こんな末恐ろしい祖父なんてやめとけと思うが、ずっと一緒にいなければならない。大きな強制力のような力に突き動かされる瞬間ってある。なぜか、自分がこうしたいわけではないのに、そうせざるを得ないときがある。祖母の憂愁が青年の未来をより憂愁にさせてしまう暗い話だ。好きだ。

 「クイックン・ツリーの夜は」はもはや呪術。ヤギが大好きな男スタックと火のような女マーガレットのラブストーリー。

あたしたちを突き動かすのは、心じゃなくて、胃袋なのね(P.194)

 これ名言だと思いました。対して、スタックは異常なほどヤギを愛していて、かわいく思えてくる。ケルト民話をからませたアイリッシュ・マジック・リアリスモのような作品。

 生まれた場所がその文学の世界観を決定づけることがよくわかる名作だった。語ること、言葉、会話、沈黙がこの短篇小説のキーワードになると思った。


(紀伊國屋書店ピクウィック・クラブ 榎本周平)


■ワールド文学カップ参戦中!
  『青い野を歩く』と合わせて読みたい本■

・アリステア・マクラウド『冬の犬』新潮クレストブックス
カナダ作家。極寒、厳冬の地に生きる人々の話。冬に読みたい小説ベスト1。
・ウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』国書刊行会短篇小説の快楽
アイルランドの短篇作家。トレヴァーは登場人物を盛り上げといて、最後に彼らを打ち落とす恐ろしきスナイパー。
・ガブリエル・ガルシア=マルケス『エレンディラ』ちくま文庫
実は一番最初にこの小説が思い浮かんだ。キーガンを読むとすぐに北の物語だとわかるように、『エレンディラ』を読むとすぐに南だとわかる。キーガンにはケルト民話、マルケスにはマジックリアリズムという幻想性もある。共通項は土地に根付いた話。

※『青い野を歩く』は立川読書倶楽部の第一回課題図書でもあり、倶楽部メンバーの方々の他の書評は立川読書倶楽部WEB会報からも見ることが出来ます。非常に楽しいホームページです。(蜷川)


→『青い野を歩く』をbookwebで購入

2010年04月04日

『白の闇』ジョゼ・サラマーゴ(NHK出版)

白の闇 →bookwebで購入

「盲人の世界と小説の親和性」

初めてノーベル文学賞を受賞したポルトガル人、それがジョゼ・サラマーゴである。今大会に参加した彼の作品『白の闇』は「ブラインドネス」のタイトルで映画化されたことから、知っている方も多いだろう。目の前が真っ白になる病気が伝染し、世界中の人たちが失明する、という話だ。パンデミックという言葉を用いればカミュの『ペスト』とも並べることができるが、この作品は是非ともストーリーよりもその描き方に注目して読んでもらいたいものである。

ページを開いて最初に目に飛び込んでくるのは、びっしりと敷き詰められた文字の海。改行もほとんどなく、ちょうどガルシア=マルケスの一部の小説を開いたときのような威圧感に圧倒されることだろう。しかし読み進めてみると、ページを繰るスピードが存外速いことに気付く。サラマーゴはメルヘンのように小説を書くのである。つまり心理描写や風景描写など、意味を捉えるのに時間を要する箇所は極力排除されていて、あるものはひたすら動作、動作、動作。さながらシャルル・ペローやグリム兄弟の童話を読んでいるかのような疾走感がある。改行が少ないのは、会話文が括弧で括られていないからだ。ある者が発言しある者がそれに反応する、その応酬が途切れることなく連続するため、ここにもただならぬ速度が生まれる。つまり、これは読みやすくするための工夫が随所に凝らされた作品で、文字の海はその結果として生まれたものなのだ。さらに、『白の闇』のストーリーならではの文体的特徴として、登場人物たちが名前を持たないことも挙げられる。誰もが視覚を失った世界では、名前など何の意味も持たない。医者、医者の妻、最初に失明した男、サングラスの娘といった言葉がそのまま固有名詞となる。『白の闇』はこれほどまでに技巧的な文体をもって練り上げられた作品なのであり、そしてこれらの文体的特徴とは絶対に映像化できないものなのである。

目が見えないということがどれほど我々の生活を破壊するものなのか、サラマーゴはそれを執拗に追い求めた。感染症としての失明は世界から忌避され、隔離された患者たちは使われなくなった精神病院に収容される。そして、誰も見ていないという確信は、ここにいる人びとを野性の世界へと連れ去ってしまうのだ。ここで起こる凄惨な出来事の数々はグロテスクとしか言いようがなく、サラマーゴの執拗さはそのまま寓話性とも読むことができる。なぜならそこには、一人だけ目の見えるものがいるのだ。読者はその存在に強く惹きつけられていくことだろう。

視覚を失った世界では音だけが我々の指標となる。会話文と地の文が溶け合うこの特異な文体も、それを計算した上で編み出されたものに違いない。そこまで辿り着くと、一つの疑問が浮かび上がることに気付くだろう。つまり、盲人にとって世界は小説のようなものなのではないか、ということである。視覚的に閉ざされた空間において、我々を導いてくれるものは取捨選択され発せられた言葉だけなのだ。小説に描かれなかったものは想像することしかできないのと同じなのである。思えばホメロスもボルヘスも目が見えなかったのではなかったか。盲人の世界と小説の親和性を、考えさせられる一冊である。


(紀伊國屋書店ピクウィック・クラブ 蜷川美峻)


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  『白の闇』と合わせて読みたい本■

・ギルバート・アデア『閉じた本』創元推理文庫
眼球を失った作家が執筆のために助手を雇い入れるものの、助手を通じて語られる世界の姿がだんだん信じられなくなる、という話。ほとんど会話文だけで構成された奇妙な小説。
・H・G・ウェルズ「盲人国」『タイム・マシン』岩波文庫
失明する伝染病(!)の流行から何年も経ち、先祖代々目の見えない人びとが暮らす閉ざされた国に、目の見える男が迷い込むという話。視覚を使わないことに慣れきった人びとの新たなる常識を描いた傑作短編。


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2010年03月29日

『あなたの人生の物語』テッド・チャン(早川書房)

あなたの人生の物語 →bookwebで購入

「テッド・チャンを読まずしてSFを語ることなかれ」

 残念ながら今回アメリカ代表から落選してしまったテッド・チャンをどうしても採り上げたい。個人的にあまりに入れ込みすぎたために、肝心のフェアの推薦コメントが酷い出来になってしまったのだ。フェアの都合上「往年の名選手」にピックアップされているが、現役バリバリ、今後の活躍が最も期待される選手のひとりである。とは言っても非常に寡作な作家で、本職も別にあり、気が向いた時に気が向いたように書くというのが彼のスタンス(らしい)。しかし、発表する作品はいずれもヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞などなど各賞を総なめにしている稀代のファンタジスタだ。日本でも先ごろ、早川書房の「SFが読みたい2010」誌上にて、「ゼロ年代のベストSF」第一位に他作品に大差をつけて選ばれ、改めて注目も高まりつつある。そもそも代表作の短編集(と言っても未だこの一冊しか刊行されていない)『あなたの人生の物語』が刊行された2003年のベストSFに選出されているのだが、今回「ゼロ年代のベストSF」第二位にランキングされた、オーストラリア代表として参戦中の同世代選手グレッグ・イーガンと比べてしまうとどうしても、その活躍がもどかしく映ってしまう。だが、地道ながらも着実に活躍は続けているようで、『あなたの人生の物語』以降も発表する作品はいずれも相変わらず各賞受賞と評価は高い。近々刊行される(と期待している)次の短編集をもってアメリカ代表、そしてSF界代表としての地位を確立するのは間違いない。

 とはいえ、彼の作品の範疇は、いわゆるSFといった枠のみには収まってはいない。本人は中国移民のアメリカ人であるが、宇宙人との交流による言語の可能性を描いた表題作「あなたの人生の物語」や、数学がモチーフの「ゼロで割る」といったまさにSF的な作品のほかに、キリスト教的世界をモチーフにした「バビロンの塔」や「地獄とは神の不在なり」といった作品は、どちらかといえば西洋的異世界を描いたファンタジーであり、個人的には東洋世界の思想、文化、宗教、伝説をモチーフに作品を重ねている諸星大二郎的な雰囲気を感じるところも面白い。

 なかでも「地獄とは神の不在なり」(2001年発表。ヒューゴー賞、ローカス賞、ネビュラ賞受賞)は衝撃的な作品だ。

 物語は主人公ニールの身の上話から始まる。彼の左大腿部の先天性異常、そして妻の死。そして妻を死に追いやった天使ナタナエルの降臨。

ありふれた降臨だった。たいていのものより規模は小さかったが、性質は異なっておらず、一部の人間に祝福をもたらす一方、一部の人間には災厄をもたらした。今回降臨した天使はナタナエルで、ダウンタウンの商店街に姿を現した。

 ……はあ? と思いますよね。思いました。降臨ですって。いきなりですよ。ダウンタウンに巨大な天使がバリバリバリと雷とともに降臨し、炎が巻き上がり、突風が吹き荒れ、人が死に、天国に召されたり、一方で怪我や病気が治る奇跡を受ける人がいる! 想像してみてください。これが日本だったら、そうですね、新宿の靖国通り沿いの喫茶店でアイスメープルラテを飲んでいたら、持国天(宮昆羅でも阿修羅でも可)が歌舞伎町に嵐とともに降臨し、ネオン看板が吹き飛び、あたり一面が惨状になる一方で仏法の守護が確立されるようなものです!

 この世界では天使が降臨し、奇跡を起こしたり、災厄をもたらしたり、それでも、それだからこそ人は神を愛し、または憎み、地獄は顕在化する(このあたり恩田陸の『ネクロポリス』っぽさもある)という現実が受け入れられている。そして妻を奪った神をいまいち信用できないニールの劇的に衝撃的な最後!!!

 この一見荒唐無稽な話にぐいぐい引き込まれる作者の発想と筆力の凄まじさ。

 実は僕の周りにも、SF(特に外文の)小説に対して腰が引けている人が意外にいる。それはかつてヴォネガットが、ウインストン・ナイルス・ラムファードだとかトラルファマドール星だとか星人だとか、アイスナインだとか、そういうカタカナを使うせいなのだ(本人はカタカナを使わないが)。

 その点からでも、テッド・チャンなら安心して読める。ハヤカワ文庫も昔に比べるとだいぶ字もでかい。

 是非、SFが苦手な人も、読もう読もうと思ってまだ手が伸びていなかった人も、テッド・チャンを一度読んでみて!


(紀伊國屋書店新宿本店ピクウィック・クラブ 黒澤光輝)


■ワールド文学カップ参戦中!
  『あなたの人生の物語』と合わせて読みたい本■

・ジョン・クロウリー『エンジンサマー』扶桑社文庫
チャンが影響を受け、そして尊敬する作家のひとり。ファンタジーの最高傑作。
・レイ・ブラッドベリ『火星年代記』ハヤカワ文庫
とってもSFでありながら、ファンタジーを描く作者の代表作。
・カート・ヴォネガット『スローターハウス5』ハヤカワ文庫
主人公は噂のトラルファマドール星で過ごします。


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2010年03月14日

『世界の果てのビートルズ』ミカエル・ニエミ(新潮社)

世界の果てのビートルズ →bookwebで購入

「ターンテーブルで踊るほろ苦い青春」

 今大会、スウェーデンから唯一出場しているのがミカエル・ニエミ。そもそも、スウェーデンという名前はよく聞くけれど、実際にはどんな国なのかあまり分からないのではないだろうか。洗練されたデザインと充実した福祉制度、そんな程度だと思う。なにより僕がそうだ。スウェーデン作家の本は書店に並んでいたとしても、なかなか手に取られることは難しい。そんな初めの印象を打ち壊すのが、日本での彼のデビュー作となった『世界の果てのビートルズ』だ。

 ビートルズという慣れ親しんでいる言葉がタイトルにあるために、特にビートルズ好きにはスウェーデンがぐんと近づく。しかし、本を開いて読み進めて行くと「あれ?」と思う。その内容はどろりとしていて薄暗く、初めに持っていたスウェーデンのイメージはそのどろりとしたものに飲み込まれてしまう。「あれ、僕の洗練されたストックホルムは?」と、作り出したイメージが小説のイメージに負けてしまうのだ。
 
 舞台となっている場所はスウェーデンの北の外れ、「笑えるほど最果ての村」。村は閉鎖的でケンカが絶えず、娯楽といえば密造酒とサウナくらい。主人公であるマッティの小さな家の姉の部屋で初めて聴いた「ロックンロール・ミュージック」の描写は、音楽を見事に文章で表現している。ギターが鳴りスポットライトが当たり、その衝撃をエネルギーにしてこの物語は疾走していく。

 最初に感じたどろりとした不快感も彼らの無邪気さで微笑ましいものになり、バカバカしい暮らしが懐かしいものへと変わる。それは僕の幼かった青春時代と重なり、羨ましくさえ思う。そうすると「ロックンロール・ミュージック」に乗って、世界の中心はパリでもなく、ロンドンでもなく、ニューヨークでもなく、この世界の果ての村となる。

 また、ここではあり得ないような幻想も起こる。それは「荒々しい自然との濃密な交流から生じる感覚をありのままに描いたものであり、その感覚は祖先から受け継いだもののひとつ」だ。この現実と幻想を行ったり来たりするのも、音楽のリズムに乗って揺れているようで心地が良い。

 ミカエル・ニエミの著作は日本ではまだこの一冊のみであり、彼は今僕がもっとも次回作を期待している作家のひとりである。そして、スウェーデンが世界の強豪を相手にどれだけ善戦するかも楽しみである。

“To me that is a modern rock and roll music”
ほら、「ロックンロール・ミュージック」がギターの爆音と共に聴こえてきた。


(紀伊國屋書店ピクウィック・クラブ 田川智史)


■ワールド文学カップ参戦中!
  『世界の果てのビートルズ』と合わせて読みたい本■

・藤沢周『ブエノスアイレス午前零時』河出文庫
日本の辺境、といってもこちらはひなびた温泉宿。
距離ではなく、心境が作り出した辺境の話。
・タブッキ『インド夜想曲』白水uブックス
音楽が鳴るわけではない。出来事は曖昧。
だけど、物語を通じて確かに音が聴こえてくる。


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2010年03月08日

『ハルーンとお話の海』サルマン・ラシュディ(国書刊行会)

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「物語る力を解放せよ!」

 今回取り上げる選手はインド代表の『ハルーンとお話の海』。著者は二十世紀を騒がせた本として有名な『悪魔の詩』を書いたサルマン・ラシュディである。外国文学を多少なりとも好きな人は知っていると思うが、『悪魔の詩』の内容をめぐって、ホメイニ師から死刑判決を下され、パキスタンだけでも六人の死者を出し、日本でも翻訳者が殺されてしまう等の国際的な事件を巻き起こした作家だ。もしかしたら“『悪魔の詩』の作者”という印象が先行し、名前は知っていてもなかなか著作を読んだ事がある人は少ないかもしれない。確かに『悪魔の詩』や『恥』はイスラム社会を強烈に風刺した作品とも読めるが、それはほんの一面にしか過ぎず、彼の書く小説の最大の特長はその作品の持つ「物語性」だと言っても良い。『恥』や代表作でもある『真夜中の子供たち』は特にそれが顕著に出ている(但し両作品とも既に絶版本であり、古書店でもなかなか見かけることが無いため、見つけたら買っておく事をお勧めする)。

 そしてその「物語性」を前面に強く押し出した作品が、この『ハルーンとお話の海』だ。王国一の語り部である父カーリファが、ある日突然その力を失ってしまう。ハルーンはお話の力を司る「オハナシー」の月へ、水の精モシモと旅立つ。一方オハナシーではシタキリ団の教祖イッカンノオワリが闇の世界を支配し、「お話の海」を死滅させようと企んでいた。

 これはあらすじであり、読めば分かるとおり内容は完全にファンタジーである。詳しくは書かないが、多くの変な生きものが登場したり、ふしぎな話が挟み込まれたり、アクションがあったりと、いわゆる「ファンタジー小説」と括られる小説群に属するような出来事が満載の、読んでいて楽しい小説だ。もちろんこの小説は深く考えず、ただただ楽しく読んでも構わない。子供に読み聞かせるもよし、家で一人、童心に戻って読み耽るもよし、自由に楽しんで欲しい。

 だが、せっかくならここでふと立ち止まって考えてもらいたい。カーリファはラシュディのことなのではないかと。『悪魔の詩』等の作品により「物語る」事を禁止されたラシュディはまさにカーリファ同様だ。言葉がどれほど偉大なものなのか、「物語れる」ことがどれほど素晴らしいことなのか。ファンタジーという仮面の裏に隠された顔は、書く事を批判されようとも死刑判決をされようとも、それでも「物語る」意義を問う為に闘い続ける作家の顔と映る。

 先述したように、日本ではラシュディの著作はほとんど絶版になってしまっている。言葉の力を大事にする彼の想いを考えると、これはとても悲しいことである。


(紀伊國屋書店ピクウィック・クラブ 木村洋志)


■ワールド文学カップ参戦中!
  『ハルーンとお話の海』と合わせて読みたい本■

・エンデ『モモ』岩波少年文庫
ラシュディが「言葉」なら、こっちは「時間」をテーマにしたファンタジー。


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2010年03月05日

『昼が夜に負うもの』ヤスミナ・カドラ(早川書房)

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「とうとう書かれたアルジェリアの物語」

今回採り上げるのはアルジェリア代表として参戦したヤスミナ・カドラ。アルジェリアの文学を誰かに代表させようとすると、どんな作家であれどうしてもカミュより先に名前を挙げることはできなくなってしまうが、ヤスミナ・カドラはそんな括りに収めてしまうのが馬鹿らしく思えるほど国境を超越した小説を書く作家である。具体的には「三部作」として語られることの多い『カブールの燕たち』、『テロル』、『バグダッドのサイレン』は、タイトルから連想できるものもあるが、それぞれアフガニスタン、イスラエル、イラクを舞台としており、今大会の選書の際にも彼の作品は各国に分散することとなった(残念ながら三作目は未邦訳)。この作品群を眺めていると、イスラム圏の国々が陥っている狂気を世界に知らしめた作家、という感がどうしても強くなる。しかし、彼はどうして自分の出身国のことを描かないのだろう。誰もがそう思い始めた時に刊行されたのが、この『昼が夜に負うもの』だった。

「とうとう書かれたアルジェリアの物語」という言葉は、ここまで述べた彼の沈黙にも当てはまるが、それよりもむしろその内容にこそ相応しいものだ。物語は1930年代に始まり、最後に現れる年号はこの小説が執筆された2008年である。この80年間に、一体彼の地でどんなことが起きていたのか、我々はこれまで知る術を持たなかったのではないか。

主人公のユネスは没落した地主の家庭に生まれた。父の耕す先祖代々から伝わる畑が唯一の収入源であった貧しい暮らしのなかで、ある日この畑が何ものかに焼き払われてしまう。スラム街に移ることを余儀なくされた両親はユネスの教育を案じ、彼をヨーロッパ系の人びとのなかで生活を営む伯父の元へ里子に出す。イスラムの名前であるユネスはフランス風のジョナスへと変えられ、それでも新しい生活に適用した彼は、やがて成長が進むにつれてヨーロッパ系の同級生たちと生涯の友情を結ぶようになる。

そんななか1954年に勃発したのがアルジェリア独立戦争である。この「戦争」は教科書に載っている戦争とは全く趣の異なるものだった。この特異性は、フランスが1999年になるまでこれが「戦争」であったことを認めなかったことからも見て取れるのではないか。教科書風に簡単に図式化すれば、イスラム系の人びとを含む先住民たちがヨーロッパ系の入植者を追放した出来事、と書くことができる。だが、実際にはユネスのようにイスラム系の出自でありながらヨーロッパ系の人びととの交歓を愛する者が沢山いて、曾祖父の生まれた家で今も暮らしながら「異邦人」と呼ばれたヨーロッパ系の人びとが沢山いたのである。その時、誰もが選択を迫られ、安易に図式化された運命に翻弄されていたのだ。

まだ古くなってはいない悲劇を語るということの困難を考えると、この小説が一つの偉業として映ることは疑いようがない。ヤスミナ・カドラは決してジャーナリスティックになることなく、それをやってのけたのである。何も小難しい議論を持ち込まずに読んだとしても主人公たちの恋心に惹かれ、彼らの真摯な友情は我々の胸を打つだろう。そして、涙と血を羊水代わりにして生まれた悲劇がそこに加わり、それらが集まって長篇小説ならではの圧倒的な読後感をもたらしてくれる。読み終えてしばらくは、立ち上がることもできない。

現代だからこそ語ることのできるものがあり、今だからこそ語られなければならないことがある。ヨーロッパとアフリカの狭間にあるアルジェリアという土地には、2008年になって初めて語ることのできるものがあったのだ。これは今後百年読み継がれるべき、新しい古典である。


(紀伊國屋書店ピクウィック・クラブ 蜷川美峻)


■ワールド文学カップ参戦中!
  『昼が夜に負うもの』と合わせて読みたい本■

・カミュ『ペスト』新潮文庫
第一部の舞台は『ペスト』と同じく、アルジェリア第二の都市オラン。この小説には至るところにカミュへのオマージュが溢れている。
・ケストナー『飛ぶ教室』光文社古典新訳文庫
主人公たちの熱い友情に打たれた人は、是非ともこちらを。子どもだけに読ませておくのはあまりにも勿体ない、かつて子どもだった全ての人に薦めたい一冊。


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