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2012年12月04日

『人種とスポーツ――黒人は本当に「速く」「強い」のか』川島浩平(中公新書)

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「『黒人』の身体能力神話を解体する」



 スポーツの国際大会の中継を見ていると、「黒人選手は身体能力が高い」という表現が実況のアナウンサーや解説者の口から頻繁に聞かれる。また、それに対をなして「身体能力で劣る日本人」「組織力の日本人」という表現も同時に使われる。ここでは、「黒人とは誰なのか」「身体能力とは何か」ということが一切定義されないまま、視聴者との間の共有されるべき前提となっているように思える。

 「黒人選手は身体能力が高い」という表現がステレオタイプな表現であり、それ自体つくられたイメージであることは、多くのスポーツ社会学者やジャーナリストが度々指摘してきた。それでも「でも、黒人選手の身体能力は高いでしょ」という反応は絶えることがないし、そういった疑問に正面から答えようとしたものにはなかなか出会ったことがない。

 本書は、さまざまなスポーツの歴史や資料をもとに、「本当に黒人は他の人種に比べ、身体能力が優れているのだろうか」ということと、「黒人身体能力に関する生得説やステレオタイプは、いつから存在しているのか」という二つの大きなテーマに誠実に答えようとする非常に読み応えのある一冊だ。

 著者もまず序章で、広く流通している「黒人」というくくりが非常に曖昧なものであることを指摘する。これは起源をたどれば17世紀から19世紀にかけて西洋人が作り上げた分類の単位であり、人類を区分するうえで正確ではないとしている。やや単純化し過ぎかもしれないが、この点は本書の大きな主張と言ってもいいだろう。

 また、「身体能力」と近い意味で用いられている英語のアスレティシズムという言葉も、元来別の意味合いで使われていたものが、1990年代以降に特にフィジカルな能力を示す言葉へと変化してきたものだという。「黒人選手は身体能力が高い」という常套句がいかに根拠のないものであるかが、ここで早くも明らかになる。評者にとってさらに興味深いのは、その根拠のなさそれ以上に、そこで暗黙のうちに共有されているものが何を意味しているかということにある。

 第Ⅰ章から第Ⅴ章までは、主にアメリカを舞台にしたスポーツと黒人をめぐる歴史が活写されている。本書はアメリカをテーマにしたものではないが、資本主義経済や合理主義と密接に結びついた近代スポーツをとらえようとするならば、その対象が必然的にアメリカになるのはうなずける。南北戦争を経ても、黒人のスポーツへの関与はなかなか進まなかった。その後、人種隔離主義体制の時代へと続くが、著者が注目するのは、同時に起こったスポーツの国際化がナショナリズムを高揚させ、人種と同時に同じ国民という同胞意識も芽生えさせたという視点だ。それらが足場となり、1930年代に黒人をめぐる身体的ステレオタイプが生まれたというのが本書中盤の読みどころだ。

 第Ⅴ章と第Ⅵ章はグローバルなスポーツ文化のなかで、黒人の身体能力をあらためてとらえ直そうとするものだ。第Ⅴ章では、多種多様な種目の競技成績を挙げ、これでもかというくらいに黒人の優越を示しておきながらも、粘り強くその背景をあぶり出そうという姿勢が示される。第Ⅵ章は社会学、歴史学、メディア論などの視点からいよいよその本質に迫ろうとする。

 著者自身、黒人選手が生得的に卓越した身体能力を有しているというリアリティ感覚を隠そうとしない。それが本書をより実りあるものにしているように感じた。終章では、Ⅵ章での議論を補足して四つの要素が示されており、それは実に明晰なものだ。だが、これを見て「そう言われればそうかもしない」と思う読者も多数おられることだろう。だが、その「そうかもしれない」にメディアもわれわれもなかなか眼を向けようとはしてこなかったのだ。

それでもなお、「でも、黒人選手の身体能力は高いでしょ」という方に、ぜひ本書を手に取っていただきたい。


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