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2012年10月31日

『ホーダー 捨てられない・片づけられない病』ランディ・O・フロスト、ゲイル・スティケティ(日経BPナショナル・ジオグラフィック社)

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「『片づけられない』は現代の病理なのか?」



 テレビのニュースで度々特集されるテーマの一つに、「片づけられない病」「ゴミ屋敷」がある。これらの特集では、片づけられない人が迷惑な隣人として描かれ、当事者がテレビのリポーターから一方的にマイクを向けられ逆切れする(プライバシーへの配慮から機械的に変換された甲高い声で)のがお決まりのパターンとなっている。

 これらに特徴的なのは、「片づけられない」ということが、社会問題というよりは悪臭を放ったり、虫がわいたりするなど自分たちに直接降りかかってくる身近なリスクとして描かれているということだ。そこでは、その原因やその人の抱えている背景はほとんど触れられないし、こういった人が続けて出てくるのはなぜかというもっとマクロな問題が掘り下げられることもない。

 また一方で、片づけや収納ということがバラエティや情報番組の主要なテーマとなり、「収納のカリスマ」がもてはやされ、書店にはそういった書籍や雑誌が大きく特集されているという状況もある。

 本書では、片づけられない人を「ホーダー」(ガラクタ収集癖に苦しむ人)と呼び、彼らを「ホーディング・シンドローム」(貯蔵症候群)と診断する。そしてその実態に迫ろうとしたものだ。著者によると、アメリカのメディアでもホーダーについては激しい報道がなされてきたが、それは精神医学界には波及しなかった。日本の状況とも似ている。

 本書は、1947年にアメリカで騒ぎになり、その後小説にもなったコリヤー兄弟の例を冒頭で挙げながら、その後アイリーンを中心に、デブラ、コリン、アシュリーという名の人たちの事例を丹念に追いながらホーダーの実態に迫っていく。ホーディングの実態を告発する本や、そうならないためのハウツー本は少なくないが、仮説を立てて検証することでホーダーを科学的に解明しようとした本書は、そういったものとは一線を画するものだ。

 なかでも、マサチューセッツ州の女性、アイリーンの事例は「貯蔵への志向」が社会からの引きこもりにつながるという従来の仮説を覆すもので興味深い。彼女へのインタビューから見られたことは、身の周りの世界に過剰とも思えるほど興味を持っており、モノについて、あるいはモノと自分の生活や個人史について語るということだ。それぞれのホーダーの特徴やこだわりは実に多様で、そこに共通点を見出すのは容易ではなかっただろうが、著者はこのような「モノ語り」やモノの価値や使い道を効率よく判断する能力の欠如などを挙げている。

 だが、読み進めていくにつれて、モノにあふれた消費社会において、モノへの執着が全くない者などいるのだろうかという疑問が生じる。それについては著者自身認めている。

「正常と異常の境目は、ホーディングに関しては曖昧だ。私たちはみな自分の所有物に愛着を感じ、他の人なら手放すようなものでも溜めこんでしまう」(23頁)

 「驚くほど多くの人々の人生が、モノへの執着によって妨げられている」(16頁)というように、著者の問題設定は捨てられないことより、ホールドすること、集めることの考察に力点が置かれる。特に哲学、人類学、社会学、文学を横断してそれをとらえようとする第2章は読みごたえのあるものだ。

 だが評者にはその半面、「捨てられないこと」をめぐる考察が幾分弱いようにも思えた。心理学者は「〇〇症候群」を量産する。そしてそれに従って対策が講じられたり、治療が行われたりする。しかし、「捨てられないこと」にはモノへの執着以外にもさまざまな要因があるのではないだろうか。処分にかかるコストや労力の問題、高齢化社会や家族関係などだ。

 冒頭述べたように、メディアはホーダーに「理解できない人」というレッテルを張り、自分たちとは異なる人として線引きをしようとする。だが、彼らに見られるモノとアイデンティティとの不安定な関係は多くの人が抱えていることではないだろうか。

 実のところ、評者はホーダーとは正反対の「捨て魔」を自認している。気に入らないものが周囲にあることが我慢できないためにすぐに捨ててしまうのだ。少数のお気に入りのモノに囲まれていたいと思っている。これを一歩引いて見てみると、モノの総量ではなく濃度に意味を付与しているといえるだろうか。結果こそ反対の現れ方をしているが、モノとアイデンティティが不可分に結合しているという意味では、これもある種のホーディングであろう。

 モノとアイデンティティについて考えたときに、評者は映画『ファイト・クラブ』(米、1999年公開)で、主人公の「僕」がモノに囲まれ、執着している自己を嫌悪していくなかで、別人格をつくりだすに至るという描写を思い出した。

 本書で詳細に描かれている個々の症例は貴重な知見だが、併せて、そういった状況を生み出す社会的な要因も今後追究されるべきテーマだろう。


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2012年10月27日

『スポーツの世界地図』アラン・トムリンソン(丸善出版)

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「スポーツの多様性を想像するための一冊」



 タイトルからは、本書は現代スポーツの情勢を地理的、ビジュアル的に把握するための図鑑か、教養として読んでおくべき教科書のようなものをイメージした。ところが、本書はいい意味でそのような理解を覆す意外なものだった。

 オリンピックに代表されるように、今日のスポーツは高度に商業化、エンターテイメント化され、それはメディア文化とも不可分な関係にある。スポーツを語る書物やジャーナリズムの多くもそれを前提にしている。そのような傾向を批判的にとらえようとするものでさえ、その呪縛から自由であることはなかなか容易ではない。本書はいろいろなルーツや顔を持つスポーツを可能な限りそのまま描こうとする。そのような問題意識は冒頭の一文に集約されている。

「われわれはいかにして経済的なもの、政治的なもの、大衆的なものの入り混じったものがスポーツを維持し、多くの場合増幅するのかを探る。本書は、称賛すべきものと忌まわしいものと、勝利とその悲劇を明らかにする。われわれは、資源と到達点を地図化することにより、ますます不平等化する世界におけるグローバルなスポーツ像をみることになる」(10頁)

 手にした読者は、どういうジャンルの本なのか、どう読んだらいいのか、最初こそとまどうかもしれない。だが、やがてその魅力にひきこまれていくに違いない。そして、その“得体の知れなさ”こそが実はスポーツの多様なあり方を忠実に反映していることにも気づくだろう。文章表現はやさしく中高生から読めるものとなっているが、その意図するところは深い。

 誤解のないように補足すれば、本書の「スポーツの世界地図」としての資料的価値は疑う余地もない。グローバルなスポーツであるサッカーや、競技国は限られているが市場規模の大きい野球などのメジャースポーツも含め、約30もの競技を扱っている。また、4部「国別スポーツプロフィール」では、77か国にもおよぶスポーツの歴史と現状をまとめている。データの信憑性や網羅性については著者自ら限界があることを吐露しているが、50余りの国を訪れて聞き取りやフィールド調査を行い、それらを補おうした跡がそこには見てとれる。それらはこれから手にする皆さんに参照いただくとして、評者は以下で特に本書のユニークな部分を紹介していきたい。

 パラリンピックは障がいのある退役軍人のために始まった経緯がある。今日では、障がいに対する社会的な認識を高めたり、障がい者へのステレオタイプを解消するなど重要な意味を持つものだ。これを世界地図で見てみると、国際大会が開催された地域と、逆に国際パラリンピック委員会に加盟していない、あるいは加盟が留保されている地域との間に歴然とした偏りがあるのがすぐわかる。評者もパラリンピックでの選手の活躍に感動を受けた一人だ。だが、「感動をありがとう」を連呼するテレビとそこで感動を分かち合う視聴者の経験はその後、何かの実践につながっているのだろうかという疑問を評者はときどき抱いてしまう。本書はこのような偏りが何に起因するのかを考え、そこに分け入っていく契機となるものだ。

 主要なスポーツ文化では、異性愛が理想とされると同時に同性愛は嫌悪されてきた。それだけではなく、スポーツ文化を通じて異性愛主義が維持・強化されてきたという面もあるだろう。ゲイだけでなくLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)に開かれたゲイ・ゲームズがなぜ「ゲイ・オリンピックス」と名乗ることができないのか、出場した選手がその後苦悩を抱えなければならないのか、本書は問題提起する。

 明確な定義は与えられていない(いや定義づけできないのが魅力なのだろう)が、ライフスタイルスポーツ、あるいはエクストリームスポーツ(日本ではオルタナティブ・スポーツと呼ばれるという)と括られるジャンルがある。サーフィン、スノーボード、モトクロスなどがこれに含まれる。著者がその特徴として個人主義と快楽主義を挙げているように、これらのスポーツは、若者文化、対抗文化と深い関係にある。そのため、オリンピックのようなナショナルなイベントやその言説のなかで、選手の振る舞いや発言が軋轢を生むということが多々生じている。そういった対抗文化としての側面は、ナショナリズムや企業文化に覆われた従来のスポーツを突き崩す可能性を持つものであるが、商業化の傾向が強いという面も併せ持っていることを著者は鋭く指摘している。

 そのほかにも随所(ときに吹き出しや写真説明のような細部に)に本書の狙いが宿っている。スポーツ消費の項目ではスポーツをめぐるサブカルチャーにまで目配りがなされ、テレビゲームでの仮想スポーツや任天堂のゲーム機Wiiのファンなどが紹介されている。マーチャンダイジング(スポーツ関連製品製造と販売)の項目では、サッカーボールを低賃金で縫製するインドの少女たちの事例が紹介される。彼女たちは“健全な”スポーツのための道具を作るために手を傷つけて化膿させ、視力に障害を来しているという。

 著者が言うように、スポーツには称賛すべきものと忌まわしいものが同居している。その政治・経済とのかかわりが言及されることは少なくないが、本書にはそれに加え貧困、人種、ジェンダー、セクシュアリティ、メディアなどさらにさまざまな視点が盛り込まれている。まさに、スポーツの多様性やそこに横たわる問題を想像するための一冊だ。


             

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